第十三話 奴隷
宿の簡素な天井をぼんやりと見つめながら、静香は大きく息を吐いた。
「はぁ~……疲れたぁ。」
体から力が抜け、ぎしりと音を立てるベッドに身を預ける。藁を詰めたマットは決して上等とは言えないが、今の彼女にとっては十分すぎるほどの安らぎだった。今日一日の出来事が、まるで何日分も詰め込まれていたかのように重くのしかかっている。
ここを紹介してくれたのも、宿代を払ってくれたのも、あの冒険者だ。
さらに「ポーションの礼金の一部だ」と言って、銅貨を十枚渡してきた。
手持ちはほぼゼロ。今はその銅貨だけが頼りだ。
けれど、明日ギルドに来れば追加分を払うとも言っていた。
報酬自体にはそこまで興味はない。
けれど――情報は別だ。
(明日は……ギルドに行くべき、だよね)
目を閉じながら、静香は思考を整理し始める。
感情や推測は一旦脇に置いて、事実だけを並べる。
森があった。
クマがいた。
それだけじゃない、見たこともない獣もいた。
知らない植物。
見慣れない街並み。
人々の服装や雰囲気は、まるで物語の中の――そう、ファンタジーそのもの。
日本円は通じない。
使われているのは銅貨、銀貨、金貨。
マジックポーチに、ポーション。
明らかに現実には存在しない道具。
頭の中に直接響く、不思議な声。
確認できる「ステータス」。
そして「スキル」。
さらに極めつけは――
(結果は……ダイス次第、か)
そこまで考えて、静香は小さく笑った。
「……うん、わからないね」
乾いた独り言が、静かな部屋に溶ける。
こうして並べてみると、結論は一つしかない。
ここはゲームの中か、あるいは異世界か。
……もっとも、その違いを説明しろと言われても困るのだけれど。
ただ一つ、確かなルールがある。
(ミッションをクリアしないと……帰れない)
“GM”の存在を思わせる仕組み。
まるでTRPGのように、何かに監視され、管理されている世界。
だが、わからないこともある。
この世界で怪我をしたらどうなるのか。
もし――死んだら。
あの時、クマが逃げずに襲いかかってきていたら。
自分は確実に死んでいた。
そのとき、自分はどうなっていたのか。
現実に戻されたのか。
それとも――本当に終わっていたのか。
(……試したいとは、思わないね)
小さく息を吐く。
だからこそ結論は一つ。
(現実と同じだと思って、動くしかない)
それが一番安全で、一番確実な選択だ。
思考はそこまで辿り着き、やがて輪郭を失っていく。
遠くで誰かの足音が聞こえた気がした。
木の軋む音。
かすかな夜の気配。
意識はゆっくりと沈み、
静香は抗うことなく、その流れに身を委ねた。
そして――
いつの間にか、深い眠りへと落ちていった。
◇
やわらかな光がまぶた越しに差し込み、静香はゆっくりと目を開けた。
「……ん」
一晩ぐっすり眠ったおかげか、頭は驚くほどすっきりしている。昨日の疲れも、不安も、少しだけ遠のいていた。
視界に入ったのは、木目の走る簡素な天井。
数秒の間を置いて、静香はぽつりとつぶやく。
「知らない天井だ……」
一度は言ってみたかった台詞。
それを無事に消化できたことに、ほんの少しだけ満足する。
「……よし」
小さく気合いを入れて、体を起こす。
寝癖を軽く整え、服の乱れを直し、身支度を済ませると、軋む床を踏みしめながら部屋を後にした。
階段を降りると、木の香りと、ほんのりとしたスープの匂いが漂ってくる。
一階の食堂には、すでに何人かの宿泊客が集まっていた。
笑い声、食器の触れ合う音、低く交わされる会話――そのどれもが、この世界が“日常”であることを静かに物語っている。
用意されていた朝食は、見慣れないパンとスープだった。
パンは細長く、表面はこんがりと焼かれているが、明らかに硬そうだ。フランスパンよりもさらに歯ごたえがありそうに見える。
(これ……どうやって食べるんだろ)
少し戸惑いながら周囲を観察すると、他の客たちは当たり前のようにパンを手でちぎり、一口大にしてスープへ浸している。
なるほど、と静香は小さくうなずいた。
見よう見まねでパンをちぎり、湯気の立つスープに浸す。
しばらくしてから口に運ぶと――
「……あ」
思わず声が漏れた。
硬かったはずのパンはスープを吸ってやわらかくなり、噛むたびにじんわりと旨味が広がる。素朴だが、どこか安心する味だった。
(意外と……おいしい)
そのまま静かに食事を進め、やがて皿の中はきれいに空になる。
食後、店主に声をかけてギルドの場所を聞くと、簡単な道順を教えてもらえた。
「ありがとうございます」
軽く頭を下げ、宿を後にする。
外はすでに朝の活気に満ちていた。
行き交う人々、開き始めた店、荷を運ぶ声。
その中を、静香は教えられた方向へ歩き出す。
――そのとき。
ガラガラと、車輪の音が背後から近づいてきた。
振り返ると、一台の馬車が通り過ぎていくところだった。
立派な作りのそれは、布で覆われた“ホロ”がかけられている。
何気なく目を向けた、その瞬間。
ひらり、と。
風に揺れたホロの隙間から、一瞬だけ中の様子が覗いた。
(……え?)
心臓が、どくりと鳴る。
見えたのは――人影。
そして、その横顔。
見間違えるはずがない。
(……舞姫……さん?)
先日出会った、同じTRPGのプレイヤー……。
一瞬のことだった。
馬車はそのまま速度を落とすことなく、通りの向こうへと遠ざかっていく。
静香はその場に立ち尽くしたまま、消えていく馬車の背を見つめていた。
朝の喧騒が、急に遠く感じられる。
(なんで……?)
胸の奥に、小さなざわめきが広がっていく。
偶然にしては、できすぎている。
静香はゆっくりと視線を落とし、そして再び顔を上げた。
――ギルドへ向かう足取りは、その瞬間からわずかに重くなっていた。
通りの端で立ち止まったまま、静香は周囲のざわめきに耳を傾けていた。
「さっきの馬車、見たか?」
「ああ、奴隷商のだろ。最近よく来るな」
「景気がいいのかねぇ……」
何気ない会話。
けれど、その内容は軽くはなかった。
(……奴隷商?)
胸の奥が、ひやりと冷える。
さきほどの馬車。
ホロの隙間から見えた横顔。
(じゃあ……舞姫は……)
答えは、考えるまでもなかった。
奴隷として、売られる。
その事実が、重くのしかかる。
(他の三人は……?)
一緒にいたはずの仲間?たち。
見えなかっただけで、同じ馬車に乗せられているのか。
それとも――
そこまで考えた瞬間。
――キィン、と。
頭の奥に、鋭い音が響いた。
思わず眉をひそめる。
『選択:奴隷商に向かう or 冒険者ギルドに向かう』
無機質な声。
感情の欠片もない、ただの“提示”。
静香は小さく息を吐いた。
「……なるほどね」
これはつまり――
このまま見なかったことにして、ギルドへ向かうか。
それとも、舞姫を助けるために動くか。
単純で、残酷な二択。
(“ミッション”って出てない……)
そこに、引っかかりを覚える。
これまでの流れからすれば、重要な行動には“ミッション”が伴うはずだ。
けれど今回は違う。
(じゃあ……重要じゃない?)
そう結論づけかけて――
静香は、ほんのわずかに眉を寄せた。
胸の奥で、言葉にできない違和感が燻る。
けれど、それが何なのかは分からない。
分からないまま、思考は次の段階へと進む。
冷静に、現実的に考える。
舞姫とは、ほとんど面識がない。
ただ“同じプレイヤーらしい存在”というだけ。
それどころか――
(突き飛ばされた、よね)
あの森での出来事が蘇る。
あの一瞬のせいで、自分は命の危険に晒された。
そう考えれば。
(見なかったことにするのが、一番安全)
関わらない。
余計なリスクを負わない。
この世界で生き延びるためには、むしろそれが正しい選択だ。
頭では、理解している。
理解しているのに――
「……はぁ」
深く、息を吐いた。
足が、ギルドの方向には動かない。
(無理だよね)
ぽつりと、心の中で呟く。
(顔見知りが、ひどい目に合うの……見過ごせないよね)
合理性も、損得も、全部わかっている。
それでもなお、選べない。
それはきっと、平和な国で生きてきた価値観。
困っている人を見捨てきれない、甘さ。
あるいは――弱さ。
静香はゆっくりと顔を上げた。
馬車が消えていった方向。
その先にあるであろう場所を、じっと見据える。
「……行くしか、ないか」
小さく、しかしはっきりとした声。
その一歩は、決して軽くはなかった。
けれど――
静香は迷いを振り切るように、奴隷商の方角へと足を踏み出した。
その選択が何をもたらすのか。
まだ、誰も知らない。
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