17.赤い果実
その瞬間、何が起きているのか女王は一瞬分からないようだったが、すぐに顔を歪ませて足をばたつかせ、身をよじろうとした。
しかし、彼女の腰の上には僕が座っている。
僕を跳ね除けようとしても、体格差がある以上、彼女には困難だった。いくら僕が他の男より華奢だとはいえ。
さらに、女王は自身の手で、僕の手を何度も叩いたり引っ掻いたりして振り払おうとした。
だが、僕は締め上げている手を外そうとはしなかった。
むしろ僕は、全ての重力を彼女の体にかける勢いで、さらに手に力を加えた。
すると、急に彼女の手が僕の手から力なく落ちていった。
強張っていた女王の体が弛緩し、全くの無抵抗な状態へと変化していた。
僕は顔を赤くし、呼吸を荒げながら、額から垂れた汗を手の甲で拭った。
けれども休んではいられなかった。
革紐があれば一番良かったが、そんなものはあいにくここにはないのだから。
すぐに次の作業に取り掛からねば、と僕は寝台に沢山置かれたクッションのうちの一つを手にすると、そのカバーを引き裂いた。
その裂け目から白い羽が飛び出ると、寝台にふわふわと舞い散った。
僕はそれに気を取られることなく、引き裂いた布で手早く女王の口を塞ぎ、続いて手と足をそれで縛り上げた。
さらに、僕はキャビネットへ移動すると、置いていた柄杓を手にした。
この柄杓にはある仕掛けが施されている。
僕はその節の一部をくるくると回し、鋭く光る鋭利なナイフを取り出した。
再び僕は女王の上に馬乗りになった。
どうか彼女が意識を取り戻さず、静かなままであって欲しい。
そう願いながら、僕は女王の胸に尖ったナイフを突き立てた。
だが、さすがにそれは無理な話だった。
勢いよく吹き出した赤い液体と共に、彼女は目を一気に見開いたのだ。
強烈な痛みで意識を取り戻したのであろう彼女は、口を塞がれていても悲鳴を上げようとし、身を捩らせながら再び激しく抵抗をみせようとした。
僕は眉間にシワをよせながら首を横に振った。
「動かないでください。作業ができません」
その言葉に女王は恐怖したのか、ますます抵抗をしようとした。
どうするべきか。僕はため息をついた。
彼女の頭の上には、まだ僕が引き裂いていないクッションがある。
それを彼女に押し付けて、また気絶、いや完全に息の根を止める方法も思いついたが、過去の様々な出来事を僕は思い出した。
「そういえば、あなたは気に入らない事があれば何度も僕を叩かれましたね。一体、何回叩かれたのか……正直覚えていません」
だから、僕は彼女に思い切り殴り返してあげる事にした。拳を握りしめて。
何度も、何度も、何度も……
殴り始めた時、僕はとりあえず気の済むまでできればいいと思っていた。
しかし、次第に彼女の顔は腫れ上がっていき、気がつけば口や鼻から血を出していた。
すでに彼女は動かなくなっていた。
おかげで僕の右手は血だらけだった。手の骨にもヒビが入っていたに違いない。
でもその時の僕は、そんなことも気にはならなかった。
僕は再び彼女の体に鋭いナイフを入れた。
皮と筋を剥いでいくと、白い骨がみえた。
僕は力をいれて、その白い護りをへし折って取り払ってい、再びナイフを入れると、僕はとうとう目的のものを見つけた。
女王の心臓。
まだ彼女の温かさの残る内部に手を差し入れ、彼女の体とそれを繋いでいる管を切り取った。
僕はそれを両手に掲げるようにして持ち、好奇心からまじまじと見つめた。
まるで水に濡れて輝く赤い果実のような心臓に、思わず僕は感嘆の声を上げた。
「……動物のは何度も見たけれど、人間のはこんなになってるんだ」
手を赤く染めながら、僕はそんな独り言を呟き、準備していた袋に慎重に収めて、あの日のことを思い出していた。
シレーネから告白を受けた、畑から帰っていた時のことを。
僕は彼女から、欲する前に逃げろという意味がわからない言葉を投げられていた。
『僕を欲するって? 僕なら君にすべてをあげても良いと思っているのに!』
それは紛れもない、彼女のために放った僕の本心だった。
しかし、シレーネは首を横に振った。
『そんな恐ろしいことを言わないで!』
そうして、なぜかぽろぽろと涙をこぼし始めた。
『母の手記には私への贖罪とともに、私が唯一死ねる方法が書かれていたの』
しかし、部屋に充満した血液特有の生臭さと鉄臭さが僕を現実へと戻した。
僕にはもう一つやらなければならないことが残っていた。
再び僕は柄杓に手を伸ばしてもう一つの節の部分を回すと、今度は細い針を取り出した。
この針には致死性の毒が仕込まれている。
僕は事切れた女王を尻目にそれを手に持つと、寝台の呼び鈴を鳴らした。
来る相手はわかっている。
僕を常に見下し、馬鹿にしてきたあの男。
アッテンボローはいつものように静かに部屋に入って来たものの、異なる状況にすぐ気づいたようだった。
彼は寝台に駆け寄ると、無残な姿になった女王と、血まみれでその横に座っている僕を見て、すぐさま何が起きたのかを察した。
シビラ! と彼は元は美しい女王だった醜い肉塊に向って大きく叫んだ。
「……まさかお前が! お前がやったのか!」
彼は僕を敬称で呼ぶことも忘れ、怒り狂ったままそう叫んだ。
僕のシナリオでは彼に対しては何も言わず、手に持った毒針を素早く彼の身体のどこかに打ち込む予定だった。
僕は立ち上がり、彼に向ってそれを打とうとした。
けれども、僕の予測は甘かった。
彼の方が僕よりも早く動き、僕の襟元を思い切り掴んだのだ。
そして、そのまま床に向って力任せに僕のことを頭から勢いよく落とした。
僕はそのはずみで手にしていた毒針を落としてしまい、それはころころと寝台の下へ転がっていってしまった。
「お前が! お前がやったんだな! なんの目的があってこんなことをしたのだ!」
アッテンボローは僕の頭を床に何度も打ち付けながらそう叫んだ。
でも僕は何も言わなかった。むしろ、教えてやるつもりなんて全くなかった。
床に打ち付けられていても、全然怖くなんてなかった。
代わりに、僕の方が勝利者であるとわからせてやるため、思い切り笑い声をあげてやった。
それが彼の怒りを余計に駆り立てさせたのだろう。
彼は顔を真っ赤にして歯をかみしめながら、僕の頭を強く殴り、護身用の剣を取り出して、僕の左胸へ思い切り突き刺した。
「この気狂いめ! 悪魔でも乗り移ったか!」
僕の口から血が大量に吹き出た。けれども、彼がその攻撃を止めることはなかった。
何度か刺し、僕の血が大量に床に水溜りのように広がり、とうとう動かなくなったことで彼は我に返ったようだった。
「……クソが!」
彼は声にならない声で大きく叫んだあと、悲痛な声で僕に向ってそう吐き捨てた。
それから、床についていた膝を上げ、ふらふらと立ち上がった。
彼は寝台に戻り、すでに冷たくなっている女王の身体を抱きしめて、シビラ、シビラと名前を呼びながらすすり泣き始めた。
まるで子供をあやすかのように、彼は女王の頭を優しくなでていた。
ところで、動かなくなった僕が、なぜアッテンボローの様子をわかったというのだろう。
僕は彼に刺されて死に、幽霊になってそのあとのことを見ていたわけではない。
確かに体は動かなくなっていった。強烈な痺れと無力感とともに。
しかし、僕には意識がまだちゃんとあった。
僕は彼のことをじっと見つめ続けていた。
酷い痛みを感じつつも、僕は待っていたのだ。
自らの肉体の再生を。
まず、皮膚が塞がっていき、出血が止まるのを感じた。
続いて、さまざまな筋肉が刺さっていた剣を押し出していくのを感じた。
それから流れ出て動きを停止していた脈が、どくどくと動き出した。
心臓にも再び力強い鼓動が蘇る。
手足にも軽い刺激が走ったような感覚が起こると、僕は自然と指先を動かしていた。
それから左胸に刺された剣を引き抜き、それを手に持ったまま起き上がった。
一方、アッテンボローは僕に背に向けて、女王の遺体を抱きながらずっと泣いているままだった。
こちらにはまったく気づいていない様子で。
僕は静かに彼に向って近づいた。幸運にも、彼の泣き声と絨毯が僕の足音を消してくれた。
そして素早く彼の頭を押さえ、もう片方の手で彼の首を思い切り剣で切り裂いた。
寝台、壁、そして床には色鮮やかな彼の赤い血が飛び散った。
首を切り裂かれ、寝台にもたれるようにして床に崩れ落ちていく瞬間、彼は僕の顔を一瞬見た。
「なぜ、お前は生きている?」
そのようなことを彼は言いたかったのだろうか。
でも僕はその答えを教えずに代わりにこう言った。
「僕はあんたたちのことが大嫌いだった」
彼を見つめながら僕がそう発した言葉は、その耳には届いたのだろうか?
口をパクパクと動かしたものの言葉にならず、驚き、戸惑い、そして恐怖の色を彼は顔に出したまま、目を見開き体をぴくぴくと痙攣させて、最後に大きく深呼吸したかと思うと事切れていった。
彼らに対する、僕の復讐はとても静かに終わった。
僕は少しその場に佇んでいたが、ふと鏡に映った自分の姿が目に入った。
その姿は女王、アッテンボロー、そして自分の血で全身が黒ずんだように汚れてしまっていた。
途端に僕の中で、恐れという感情が微かに沸き起こるのを感じ取った。
今まで起きた出来事は、全て夢の中のことであって欲しいとどこかで思っていたのかもしれない。
でも、鏡を前にしてそれは現実だったと突き付けられた気がした。
僕は手にべっとりとついてしまった血を水差しの水を使って清め、さらに顔に付着していたものを取り払った。
それから、僕は隣接している隣の部屋に行き、カモフラージュされた棚を横側に押し出した。
目の前には木材に鉄の帯が打ち付けられた扉が現れた。
扉を開ければ、地下へと続く道が広がっている。
これはいざという時に逃げられるように作られた秘密の通路だ。
万が一、女王が襲われるようなことがあった場合、直ちに逃げ出せるようにこの通路を使えと僕は言われていたのだ。
なんという皮肉だろう。ひんやりと冷たい空気が一瞬、僕を掠っていった。
僕はちゃんと扉が開けられたことを確認すると、最後の大仕事をするため再び女王の寝室へと戻った。
キャビネットに置かれた二つの壺の蓋を開け、僕は寝台にいる二人に向ってたっぷりとその油を掛けた。
おかげで寝室はラベンダーと薔薇と血の何とも言えない匂いが混ざり合い、僕はあやうく吐きそうになるところだった。
けれども、ようやくこれも終わる。
僕は明かりとして置かれていた燭台から、そのうちの一本の蝋燭を手に持ち、少し離れた所から寝台に向って投げ入れた。
しずくのように小さかった炎は、たちまち炎の大きな波となり、彼女らの亡骸と寝台を包み込む柱となった。
この勢いであれば、炎は確実に絨毯や壁に掛かったタペストリー、そして天井の梁へすぐにでも燃え広がっていくのは確実だ。
僕は大急ぎで寝室を飛び出すと、先ほどの隠し通路に行き、扉を閉めて出口に向かって走った。




