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15.甘い記憶

 僕は彼女から唇を離した。


「シレーネ……ごめん」


 記憶が戻った僕が、最初に話した言葉はそれだった。



 続いて、泣いている彼女を僕は抱きしめた。


 僕は浜辺で彼女が僕を抱きしめてくれた時のことを思いだした。


 あの時と変わらぬ柔らかさと温かさ。


 そして彼女はごく普通の女性と変わらない、強く抱きしめれば壊れてしまうと思うほど、華奢な体の持ち主だった。


 本に出てくるような化け物、怪物という言葉がふさわしい、超自然の生物などではなかった。



 しかし、僕が剣で突き刺したはずの彼女の心臓は、すでに出血が完全に止まっていた。


 それが彼女の話は本当だということを僕に示していた。


 何をしても死ねない体。


 死ぬことを許されなくなってしまった体。


 一体、シレーネは今までどんな風にして一人で過ごしてきたのだろう。



「ごめん、君を守れなくてごめん……」


 僕は再び彼女に謝り、そして泣いた。



 僕が処刑のあとに見ていたものは、彼女の亡霊ではなく、彼女と過ごしていた幸せな日々の思い出だった。


 晴れている時は互いに外にいたけれど、雨が降っているときや、降りそうなときは彼女と一緒にいられたから。



 ピクニックをしようと思っていたら急に悪天候になり、代わりに家に敷物を敷いて、横になりながら天窓に当たる雨を眺めていたこと。


 朝から雨が降っている時は、彼女は野草摘みや畑仕事に行かず、居間のテーブルに腰掛けて、編み物をしたり、服の補修をしていたこと。


 僕が偏頭痛を感じた時は、痛みを抑えるハーブで淹れたお茶を持ってきてくれたこと……



 思い出に浸り、僕たちはしばらくお互いに泣きながら抱き合っていた。



 けれども、どうして彼女は僕の元に帰ってきたのだろうか。


 ふと、そんな疑問が僕の中に浮かび上がったが、すぐにその疑問はかき消された。



 どちらの身体から感じたのかわからないが、僕はどくん、どくんと鳴る血潮の音を感じ取った。


 僕は本物のシレーネが、なぜ僕の所にやって来たのかを理解した。



 やはり彼女は、僕が背を向け、助けようともせず火刑に処されたことを恨んでいるのだろう。そして、その仕返しに来たのだろう。


 しかも僕は彼女との記憶を、まるでなかったように忘れてしまっていた。


 僕は心の中で笑った。


 なんだ。今の僕は彼女にとって"最適な人間"になれるではないか。



「……いいよ」


 僕は呟いた。


「すべて思い出した。僕はもう生きる希望は、君に別れを告げられた日から完全になくなってしまった。何の悔いもない。どうかその剣で殺してくれ。そうすれば、あのとき言っていた”君の望み”だって手に入るはずだろう?」


 そう言った後、僕は俯きながら再び涙を流していた。



 彼女は死ぬのはいつだって出来ると言っていた。


 それならば、今以上にそれがふさわしいことはあるだろうか?


 自ら命を絶つか、殺されるかなんてどうだっていい。


 彼女の役に立てる方ならば、それがどちらであっても僕にとっては本望だ。


 そこに死への恐怖はなかった。



 でも、彼女が僕を攻撃しようとする気配はなかった。


「いいえ」


 シレーネは首を横に振った。彼女もまた涙を流していた。


「私がここに来たのは、あなたを恨んでいるからではないわ。別れ際に言えなかった、あなたに伝えたいことを伝えに来たの。それをちゃんと言って、今度こそあなたのもとから去ろうと思ってた」



 愛してくれてありがとう。私もあなたを愛してる。


 彼女は静かにそう言うと、僕を再び強く抱きしめた。

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