6.パァには修羅場がわからない
繁忙期(修羅場)前に粗方書いてあった修羅場(定義による)の話ですが気付いたらやべーヤツが錬成されていたので苦手な方がいたらお逃げくだされ(脳が労働を放棄した顔)
「端的に言えば修羅場になる、って言ってたんですよ。アウフスタ様」
「並の修羅場程度であればあの方の独壇場でしょう―――――ところでおかわりは如何ですか? 国婿のヘロルフ・エッセリク殿」
「あ、いただきます。バルケネンデ様。ありがとうございます」
呑気にティーカップを差し出すヘロルフには警戒心も遠慮もなく、片手でポットを傾けて紅茶を注ぐ相手にもまた目立った感情は窺えなかった。場所はバルケネンデ公爵邸の敷地内に建つ別館であり、テーブルを挟んでお茶を楽しむ相手は同公爵家の嫡男である。仕来りだの礼儀だのを取っ払って堂々と繰り広げられるダイナミック給仕を咎める声も姿もない場で、白磁の器に受け止められた美しい色の液体からくゆる湯気を眺めつつヘロルフはのんびりと口を開く。
「紅茶を淹れるのお上手ですね、バルケネンデ様。良い匂いです」
「はは。最初の一口を躊躇いなく含んだ時点で思っていましたが………貴方はもう少し警戒心を持つべきですよ、ヘロルフ殿」
にこやかに、甘やかに、そう言って微笑む青年は、ヘロルフからすれば夢のように美しく可憐な顔立ちの青年だった。同性に可憐とかいう形容詞を使うのもどうなのかなあとは思ったものの、体格はきっちりと男性のそれなのに首から上が傾国の美姫もかくやの容貌という組み合わせなのでそうとしか言い表しようがない。ついでに言えば声も低いので喋れば普通に男性だったが、如何せん顔が美人過ぎるので黙っていればただの美女なのである。
眼福だなあ、と呑気な気持ちでヘロルフは紅茶をぐいっといった。婚約者であるアウフスタ皇女殿下が覇王系女帝の美の頂点ならこちらの青年は御伽の国の夢ふわキラキラ美の化身なので見ているだけで紅茶がすすむ。もしもカップに注がれていたのがアルコール系飲料だったら完全に他人の美貌を肴に酒を楽しむおっさんの挙動だがヘロルフはただのパァだったので下心を伴うことはない―――――何より、危機感が一切ない。
「不躾ながら、一服盛られる可能性は考えないので?」
「考えないです。だっていくら考えたところで頭の良い方々のお考えなんて僕には絶対わからないので―――――『バルケネンデ公爵令息と茶でも飲んで語らって来い』とおっしゃったアウフスタ様を信じてあなたとお茶するだけですね」
「あはははは。豪胆な方だ」
「ですねえ。アウフスタ様のためにあるような言葉だと思います。本当に」
豪胆、という単語が世界で一番相応しいのは自分の将来のお嫁さんであると憚ることなく言ってのけるヘロルフに皮肉や他意は一切ない。心の底からそう思っているので思ったままを口にした。ただそれだけのことでしかない。
聞いた相手は困ったように笑って小さく呟いた。
「そういう貴方にもなかなか似合いの言葉だと思いますよ―――――ふふ。ああ、ヘロルフ殿。私のことは『オリフィエル』と気軽に名前でお呼びください。長ければオリーでもフィーでもハニーでもお好きなように呼んでいただければと」
「わあい、とってもフレンドリー。ところでハニーは違くないですかねオリフィエル・バルケネンデ様」
「ははははは。バレてしまいましたか。ダーリンあたりにしておけば良かった。即座に敢えてのフルネーム対応、さては殿下の入れ知恵ですね?」
「うーん。入れ知恵といいますか………とりあえずアウフスタ様からは『理解しかねる発言をされたら本題を言うだけ言って切り上げろ』とのご指示をいただいておりますのでそれに従おうと思います―――――と、言うワケで本題なんですが、オリフィエル・バルケネンデ様。僕の側近になってくださいというかパァな国婿を側で操る黒幕ポジションに興味はおありで?」
「黒幕に興味は無いですが貴方の手足にならなります」
美貌の青年は笑顔で言う。なんなら食い気味の即答に、ヘロルフはうんうんと頷いた。
「ですよねー………あれ? え、なんて?」
興味はない、と素気無く断られたかと思いきや割と信じられない単語が飛び出したというか巡り巡って結果的には快諾に近い返答だった気がするけど致命的な聞き間違いしちゃったかしら、みたいな顔で首を傾げるヘロルフをにこやかに正面から受け止めて、アウフスタ第一皇女殿下の最初の婚約者だったというオリフィエル・バルケネンデは言う。
「ヘロルフ殿の側で一生、死ぬまで、貴方のために働くことを誓わせていただけるならこの場で誓うと申し上げました」
「なるほど………なるほど? え。なんで?」
次期女帝との婚約が決まった、と聞かされたとき以上の困惑で更に首を傾げるヘロルフだったがしかしこればかりは仕方がない。彼が度を超したアホであってもなくてもこの反応は妥当である。だって突然重過ぎる。突拍子がないにも程がある―――――今日会ったばっかりのパァのために一生死ぬまで働きたいってどういうことなの本当に。
「あの、すみません。バルケネンデ様。なにがどうしてそうなったのか僕にはさっぱりわからないので教えてもらってもいいですか?」
「ふふふふふ、素直な御方。ドン引くでもなくまずは聞く。いいですね。好ましく思います」
なにがどうなってそうなった!? と声を大にして問い質しても許されるであろうこの場面で、憂いのない晴れやかな笑顔を浮かべるオリフィエルの美貌だけが異質だった。まるで恋する乙女のようにうっすらと頬を上気させている様は無差別に見た者の心を奪う魔性の魅力を纏っていたが、しかしヘロルフは終始一貫「眼福だなあ」程度の気持ちで照れも恥じらいも浮かべることなく視線を逸らすことさえない。
そんな眼前の相手に向けて、バルケネンデ公爵令息は笑顔のままに明るく言った。
「第一印象から決めていました私を貴方のものにしてください」
「なんて? え。いや、だからなんで? もしかしてアホがお好きなんです?」
「いえ、アホと言いますか、厳密に言えば無力な赤ん坊のように打算なく清らかで愛らしい無垢な存在が好きなのです―――――つまり、貴方が、好みなんです。今後一生お側に仕えて世話を焼いて良いと思うと興奮する程」
「そっかあ!」
なるほど納得! みたいなノリであっさりと受け入れたヘロルフだったが受け入れている場合ではない。対面に座すバルケネンデ公爵令息の雰囲気にちょっとヤバいものが滲み始めたことに気付いて逃げ出す発想の持ち合わせが生憎とこのパァには無かった。そこがまた好評価だったのか、美貌の青年の怪しい笑みは一段と深まっていくばかりである。
「だけど、バルケネンデ様? ご覧の通り僕は赤ちゃんとは比べるのも烏滸がましいというか、ぶっちゃけ我ながらアウフスタ様のお側に侍るのもどうかと思うアホさなんですけども………こんなパァを今後一生支えるとか嫌じゃありません?」
「本望です!!!!!!!!!!」
「わあ声でっか」
主張の強さに思わずたじろぐヘロルフを追い掛けるようにして、腰を浮かせた美貌の青年はがっしりとパァの手を両手で掴んだ。捕獲された、と表現した方が正しそうな絵面が完成したが、アウフスタ皇女がお膳立てしてバルケネンデ公爵令息がセッティングした顔合わせの場は最初から最後まで魔性とパァのふたりきりという空間だったのでつまりツッコミが存在しない。
「嫌になどなるものですか、ああ本当になんて素晴らしい支え甲斐しかない逸材! ほんの少しでも目を離したら食い散らかされてしまいそう! いけません、こんな愛しい生き物を野放しにしておくなんて、保護しなくては、放っておけない、全面的に頼られたい―――――ああもうお姿を見ているだけで興奮するので貴方が生涯健やかに暮らせるよう懇切丁寧にじっくりと衣食住を含めたすべての世話を私に任せていただきたい! と申し出たいところなのですが聞けば国婿にお決まりの身、アウフスタ皇女殿下の伴侶を囲おうなど帝国の臣民にあるまじきこと。ならば発想を逆にして私の方をヘロルフ殿で飼っていただけませんかね? と打診しようと思っていた矢先に側近のお話ありがとうございます黒幕ポジションとやらに興味ないですがヘロルフ殿の終生の友にして一番何でも頼れる右腕謹んで拝命する所存」
「ええと、バルケネンデ様。鼻血出てますけど大丈夫ですか」
「失礼。昂り過ぎました。慣れていただけますと幸いです―――――今は説得力がないかもしれませんが私は結構有能なので必ずお役に立ちますよ、ええ」
「それは存じてますけども」
なんといってもこのオリフィエルをヘロルフの側近に登用しよう、と言い出したのはアウフスタ皇女殿下である。パァな現婚約者を支えるために有能だった元婚約者を頼ると聞けば大抵の者は眉を潜めるであろう昨今、発案するなり手筈を整え「おそらくヘロルフが直接頼めばその日のうちに承諾する」と断じた彼女の慧眼は流石の一言に尽きた。
慧眼の一言で片付けていいのかどうかは甚だ疑問ではあるけれども、それでも最初の婚約者の趣味嗜好を熟知した上でそれを利用するという判断はきっと次期女帝に相応しい。そうと理解はしながらも、しかしヘロルフは言ってしまった。
何故って彼はパァなので、聞かなければ答えが分からない。
「あの、すみません、バル」
「オリフィエルです」
「ええと、オリフィエル・バルケネンデ様。あなたがアウフスタ様の婚約者をご辞退なさったのは『少々繊細過ぎた』からだとあの方からお聞きしていたのですけども………」
思わず言葉を濁すレベルで“繊細”の定義が違う気がする、とアホに思い至らせる程に元気一杯のオリフィエルは、そこで「ああ」と穏やかに首肯して見せた。帝国に根差す臣民としての敬愛と忠誠を滲ませながら、しかしどこか自嘲に満ちたなんとも悩まし気な面持ちで。
「第一皇女殿下は相変わらずでいらっしゃる。懐深く思慮深く、そしてなにより愛情深い。あの方はあまりにも完璧過ぎて、他の誰も必要ないのです―――――だから、“私”でなくともいい」
独り言に近いそれは、彼の本音に違いなかった。事実を述べているだけの声。がっしりと握り締めたままのヘロルフの手をじっと見ながら、オリフィエルが紡ぐ言葉には次の瞬間に熱が籠った。
「身勝手なことに、このオリフィエル・バルケネンデは全力で頼られたい性質なのです」
ぐ、と掌に込められた力に小首を傾げたヘロルフにオリフィエルは極上の笑顔を向ける。相手がパァじゃなかったらロマンスの神様がフルオーケストラで背景音楽を奏で始めるような場面で稀代のアホはきょとんとしていた。向けられている熱量そのものを知覚していないがゆえの妙技を心底愛おしそうに眺めて、女帝の伴侶に選ばれながら自らその座を辞したという元婚約者の青年は現婚約者のパァに解を授ける。
「明け透けに言ってしまうなら“私”は極端な奉仕体質な上に結構な依存体質でして、完璧を擬人化したようなアウフスタ様の伴侶など到底務まらなかったのです。性癖的にモチベーションがまったく保てませんでした」
「ほうしたいしつのいぞんたいしつでせいへきてきにもちべーしょんが………?」
「すみません我が君、言い換えますね。どう頑張ってもやる気が出なくて女帝の伴侶は無理でした」
「なるほど! それは繊細さん!」
分かり易く言い換えてもらってありがとうの気持ちで屈託なく頷くヘロルフの中で繊細の定義が更新された。割と上書きされてはいけない特殊な方向に更新された。繰り返すがこの場にツッコミは居ない。居たらきっと発狂していた。もしくはこれから咲き乱れるかもしれない薔薇の花を幻視して脳内で花屋を開店させていた。
「そしてヘロルフ殿みたいなアホの子に終生お仕えするのが私の夢であり悦びです―――――ああ、ご安心ください。性癖はアブノーマル気味ですが心に誓った生涯の主君に劣情を催したりはしません。解釈違いです」
「そうなんですか」
「そうなんですよ」
にっこり、と笑みを深めるオリフィエルの手はがっしりとヘロルフの手を掴んだままで離す気など微塵もなさそうである。まさかの超有望株一本釣りという偉業を成し遂げておきながら、しかしヘロルフはオリフィエルの理想のど真ん中を突っ切る奇跡的に善良なアホだったので誇るでもなくただただ暢気に喜んでいるだけだった。
「そういうところも理解した上で、第一皇女殿下はヘロルフ殿の右腕にと私をお選びくださったのでしょう―――――まあ邪な気持ちを抜きにしてただ純粋に興奮するだけだったらたぶんきっとおそらく大丈夫」
「過ぎれば修羅場に至ると知れ」
べりょ、と粘着力がしつこいシールを力に任せて剥がす勢いで自分の婿と美貌の変態を分断したのは覇王の闘気を迸らせた美少女である。言わずと知れたアウフスタ皇女は突如その場に降臨しましたと主張せんばかりの神々しさでオリフィエルと対峙して雄々しく笑った。
「久しいな、オリフィエル・バルケネンデよ」
「お出迎えもせず申し訳ございません、ようこそお越しくださいました。ご無沙汰しております、アウフスタ・ヘインシウス第一皇女殿下」
「うむ。息災、何よりである―――――で?」
「承りました。つきましては本日この瞬間よりお仕えしたく」
「許す。既に手配は済ませておいたゆえ、我が夫のため存分に揮え」
「かしこまりましてございます」
ぽんぽんと進んでいく遣り取りは話が早過ぎていっそ怖い。しかしヘロルフは動じなかった。頭の良い人たちの会話ってすごい短縮されてるというかむしろ圧縮されてるんだな、みたいな感動を覚えるばかりで恐怖を感じる暇がない。それはそれとしてアホ過ぎてちょっと怖い気もするけれども。
「というわけで改めまして、本日より住み込みでヘロルフ殿のサポートを務めることになりましたオリフィエルと申します。バルケネンデの名はこの瞬間を以て永遠に捨てました。おそらくそのうち適当な爵位と家名が生えますが、それまではただのオリフィエルなのでお好きなように呼んでいただけますと幸いです我が君」
オリフィエル・バルケネンデ改めただのオリフィエル青年はそう言うが早いか優美な所作で跪く。どこぞのお姫様に求婚をぶちかます貴公子のような麗しさだった。夢見るような美貌を蕩かせて艶やかに満面の笑みを湛えている姿にヘロルフは目を瞬かせたが、なにがどうしてそうなったのかまで理解が及ぶ筈もない。
「え、え、え、どういう?」
「案ずるな、ヘロルフよ。帰りの馬車で懇切丁寧に私が説明してやろう―――――強いて簡潔に一言で表せばこの男をテイクアウトして帰るぞ」
「アウフスタ様そんな人様のお邸でご令息のことをポテトみたいに」
「分かり易かろう」
「はいとっても!」
無邪気に喜ぶ婚約者を優しく力強く伴って、アウフスタ第一皇女殿下はバルケネンデ邸を後にする。ハイスピードで成立してしまった主従関係を大歓迎して当たり前のように付き従っていくオリフィエル青年が今後二度とマジで生家の敷居を跨ぐ気がないことを知らないのはヘロルフだけだった。
次回、ホントに未定