23.夢のような現実を
「オーレン」
彼の横に並び立つことで、かろうじて耳に届く囁き。
夢ではなくて現実なのだと実感ができる、今の感情が込められた声音。
私をみて、と。
そう言われているような気がした。
「君のお気に入りの場所を案内してほしいな。君が何を見て過ごしていたのかを私は知りたいんだ」
見上げたマルティエナは分厚い眼鏡越しの翡翠の瞳を見つめる。
マルティエナが女学院で主に過ごしてきた場所はパーティーの会場に使われている煌びやかなホールや庭園とは異なる、静けさの際立つ講堂や図書室、そして研究室や資料室。
ヴァルトセレーノ王立魔法学院とは規格が違うから、あちらに慣れた者にとってはどこも手狭に感じてしまう場所。その分だけ古びた本の匂いや、清潔に保たれた消毒液の匂い、どこを向いても目につく研究資料から積み重ねた歴史を感じられて好きだった。
(私が過ごしてきた場所は面白みもない。此処でも勉強ばっかりしてたから)
けれどもアスタシオンの求める意味合いは違う。
ただ、知りたい。
マルティエナが第二王子としてのアスタシオンを知りたかったのと同様に、アスタシオンも思ってくれた。
そのことがどうしようもなく嬉しかった。
◇◇◇
ゆったりとした足取りの靴音が二人分、細長い回廊に反響する。
「私が頼んだとはいえ、会場以外も自由に見て回れるなんて驚いたな」
「学生が案内することが条件で、申請したら今日だけ許可していただけるんです。……離れた位置に必ず付添人がおりますので、悪さはできませんしね」
マルティエナとアスタシオンの後方には、女学院の使用人が一人ついている。
声量を落とした会話なら聞こえない程度の感覚をあけて、良からぬ事態が起きないよう静かに見守ってくれているのだ。
例え会話が耳に入ったとしても、耳を閉ざしたふりをする。心に留めず聞き流す。そうした教育をされた使用人なのだが、二人にとって安心とは程遠い。
早々と防音の魔法を薄く展開したマルティエナに気づいて、アスタシオンも魔法に手を加えた。
おかげで人に聞かれて良い会話を意識する必要はなくなっている。
「なら仮面の間にでも行こうか?」
アスタシオンが戯けて笑む。
「クレイグから聞いたんですね」
「私に知らないでいてほしかった?」
「いえ。ですが、殿下には相応しくない場です」
知られてもいいけど、行ってほしくはない。
我儘な本音を口にしたくないから、彼の身分を利用した。
アレッタなら素直に告げるのだろう。こういったところが可愛くないと自分でも思う。
「私はオーレンとだから興味があるんだよ」
視線を歪ませる眼鏡をかけてくれていて助かった。
今だけはそんなことを殊更に思う。
窓から射しこむ光にレンズが照らされて、目が合っていても、そうではない可能性を浮かべられる。
「いけませんよ、殿下」
瞳の奥の熱情に気づかない振りをしていられる。
そうでなければ、いとも簡単に流されてしまいそうだ。
それに――
「夢なら、もう見させてもらっていますから」
最初で最後の、夢を見る場所――マルティエナはそうクレイグに伝えた。
もう何度目か分からないほど夢のような時間を過ごして、終わりを迎えたと思っていた。
それなのにまだ終わりではないのだと、もう一度の機会をくれたのだから。あえて赴く必要はないだろう。
「それでも私は今以上を望んでしまうよ」
耳からこぼれ落ちていた横髪がアスタシオンの手によって掬われる。
これが限界だから。
言い聞かせるようなゆったりとした手つきで耳にかけて、あっさりと彼は離れてしまう。
触れてもいない彼の体温を錯覚して、マルティエナの頬は朱に染まった。
「私も欲深いので、偽らずにお会いできる場を無謀にも望んでしまいました」
「――そうだったね」
頷いたアスタシオンの静寂が憂いを帯びていた。
「嬉しかったよ、オーレン。エレノア嬢付きの女官に選ばれたと知った時は驚いたな」
「それまでお聞きになられなかったのですか?」
ジェナミアから推薦状を送り、王宮で挨拶をし、それから採用の通達が届くまで約一週間かかった。
エレノアと同年で学院生活を送ったアスタシオンなら、女官の選考にも何かしら関与していると思っていたのに。
「私が関わると無駄に思考を巡らせる者もいるからね。……私は王位なんて望んでいないのに」
感情の失せた吐露。
一段と声を潜ませた呟きをマルティエナは聞くだけに留める。
「女官になったオーレンは、エレノア嬢に尽くすのだろう? お兄さんにそうしたように」
次いで言葉が紡がれた時には、マルティエナの知る普段通りの彼だった。
「私に出来ることはエレノアさんにとって些細なものですが、出来る限りのことはしたいと思っています」
エレノアは強い。
それは、単に光の魔法の使い手だから――ではない。
入学当初は『第一王子の弟子に選ばれた、光属性の魔力を有する将来有望な人物』という肩書きが一人歩きして、実力よりも高い評価と期待をされ、なかには落胆し、あざけ笑う者もいた。心許ない言葉を耳にしてしまうこともあっただろう。
直向きに努力して良い成績を収めても、それは当然と見做される。
人の目が怖くなる可能性だってあったのに、エレノアは苦しい状況であっても、人をよく見ていた。
楽し気な会話に加わって、困っている人には手を貸して、不思議な行動をしている者には声をかける。
他人から知人になって、友人に変わって、守り守られる仲間になる。
そうして増えた仲間が、今後立ち向かう苦境から彼女を守ってくれるのだろう。
だから、エレノア付きの女官は自分でなくてもいいはずだ。
誰かの息がかかった者が女官になったとしても、エレノアには、惹かれずにはいられない芯の強さがあるのだから。
(それでも、私だから力になれることもあるかもしれない)
『マティアス・オーレン』としてエレノアの人となりを見てきたから。
エレノアにはない闇属性の魔法を使えるからこそ、助けになれる危機があるのかもしれない。
(正当化したいだけ……なんだよね)
不純な動機で選んだ道だからこそ、勝手に恩を感じて、報いたいのだ。
「君のことだから、危険を承知の上なんだろうね」
「はい」
「もし命の危機に晒されても、私は君を守れない。兄の王位継承を望まぬ者たちに都合の良い契機を与えかねないから」
マルティエナが王宮に上がることをアスタシオンは喜んではいなかった。
身を案じてくれているから、引き返す選択を与えようとしてくれている。
それが嬉しくて、不釣り合いな笑みを浮かべてしまう。
「気に病まないでください。私欲のために選んだ道ですから、覚悟はできています。――私のために、殿下は手を出さずにいてください」
「オーレンは勝手だよ」
「そうですね。すみません、殿下」
泣いてるのではないか。
震えた息に不安になって、眼鏡の奥の表情を覗き込む。
青みを帯びた透き通るエメラルドの瞳を直にみたい。
今になって、仮面の間への誘いを断ったことを少し後悔した。
「そんな君にひとつだけ。私から言葉を贈るよ」
記憶に焼き付いた台詞だった。
あの日は、危うい立場にいる現状を知らしめる忠告だった。
今度はなんだろう。
「――私は君を待つ。私も勝手に決めたからお互い様だ」
開けた回廊の窓から風が吹く。
「兄にとって、代えのきかない存在になるんだ。今までのように君らしく過ごせばいいよ」
ひと息で身体中を満たしていく陽気が、彼との日々を呼び起こす。
「オーレンならできる。私にとってそうなようにね」
――私は、そう信じて待ち続けるよ。
音として聞こえずとも伝わる言葉がある。
マルティエナにとってのアスタシオンはいつも、本心を伝えてくれる。
重い期待が突き進む決意になる。
止まることなく季節は巡る。
颯爽と舞う風は新たな種を飛ばして、光射す大地に定着させるのだ。
それは、新たな幕開けの合図だった――




