デートと手汗と普通の恋
あの夜会から数日。
怖いくらいにいつも通りだ。
衝撃の離婚発言。
発言のみ。実行はされてはいない。
喧嘩をしたわけでもないのに私は一体何をしてしまったのか未だに理解しかねている。
まぁ一つ変わったことと言えば、私と旦那様との間の壁がなくなったことだろうか。(物理)
出張だからと、旦那様に付いて出かけるよう言われ、泊りがけで出掛けていたが、帰ってきたらその有様だった。隣だった仕事部屋の壁がなかった。
元から壁などなかったかのように自然な内装。
思わず目をさすった私は悪くない。
そんな私の隣で旦那様が何事もなかったかのように部屋へと入っていったのは本当につい昨日のことだ。
だから、まぁ夜会から変わっていないというには語弊があったかもしれない。
正確には何かが変わりつつある最中らしい。
変わったと言えば旦那様の反応も変わった。
以前は休日の過ごし方なんて聞かなかった、というか暗黙の了解だったのに、帰ってくるなりさも世間話のように「今日は、何処に行っていた。」と聞いてくるようになった。
ただ、そこにちょっとした悪戯心で「デートです。」と答えた時の旦那様の顔はちょっと怖かった。
そういえばデートで思い出したけれど出張前にはデートにも誘われた。
街に行き、手を繋がれて歩きました。
ええ、手を繋がれてね…。
女学院育ちの私にはまだ手繋ぎデートはハードルが高かったらしく顔がずっと赤くて手汗もヤバかったように思えて本当にあれは死にたくなる。
あまりにもずっと顔が赤いから見かねた旦那様に「大丈夫か」と心配されたのも恥ずかしかった。いっそのこと倒れられた方が楽だったかもしれない。
免疫がついたと思ったけれど、なまじお顔が整いまくっているだけに至近距離の手繋ぎな旦那様を長時間はこたえた。
心の中も周りの視線もこたえた。
出張後はそういうお誘いもないが、正直心臓が持たないからやめていただきたい。
世の夫婦やいちゃラブなカップル凄い。
あと気のせいだろうか、旦那様のふとした仕草が可愛すぎる。
集中して買い物してると思ったらふいにこっちを見て「どうした?」と私にだけ聞こえるような声量で囁くのよ?
なにそれ超女子力高いんですけど。
あざとい、あざといよ。
女学院でも指折りの女生徒が使う技法だよ。(しかし美女に限る)
私はそれにオロオロするだけで…もしかすると側から見たら旦那様に興奮するキモい女に見えたかもしれない。
気をつけよう。
ほんともう私の女子力の低さが露呈した。
薄々気づいていたけれど完全に露呈した。
夜会の時の賢いだけじゃ云々という旦那様の言葉が脳内でひたすらリフレインする。
女学院で優秀=女子力の高さではない。
そうですねそうですね。
はぁ、と心の中でため息をつく。回想に浸っていた思考を目の前の出来事に戻した。
「答えはでたのか」
はいはい、意識飛ばしてました。
とは言えるわけもない。
後ろには馴染みのある壁、目の前には見慣れたような見慣れてないような旦那様。
脇にはそんな旦那様の腕。
女学院育ちにこの距離感はいただけない。
思考が飛んで心音が聞こえそうなくらいバクバクしてますよ。
ああ、まずい、顔が熱い。
答えなんて聞くまでもないんじゃないかな、と思うのは私だけでしょうか。
「おい、聞いてるのか」
あ、耳元で喋んないで。
いやもうこの距離じゃどこで喋ろうが一緒なんですけどね。
顔を覆いたい。
もう消えたい。
聞かないでというよりもう察して下さい。
きっともう耳まで赤い。
恥ずかしすぎて目が見れない。
普段は視線で追ってしまうのに。
「おい」
ああ下から覗き込まないで下さい。
顔が、近い、近すぎる。
まるであの時みたいで本当に、もう。
思い出すだけできゅっと胸が苦しい。
忘れられるはずもない。
離婚と言われた時とは違う胸の苦しみ。
ほらもうね、わかってるんですよ。
触れそうで触れない貴方の腕が少しもどかしいとか、あの時を思い出させるようなこの距離感とか。
きっと旦那様には全てお見通しなのだ。
馴れ合うつもりはないと言い放ったあの頃の旦那様はどこに行ったのだろう。
「おい、」
「は、はい…」
いい加減だんまりに限界を感じて返事をしてしまった。
どちらにせよ逃げ出せる環境ではない。
「待つのもごめんだし回りくどいのも止めだ。もう好きか、嫌いか二択で答えろ。」
ああ、旦那様はなんて酷いお人だろう。
好きか嫌いかなんてそんなの答えは決まっているのに。
私はゴクリと唾を飲んだ。
「だ…」
「だ…?」
視線がかち合う。
羞恥で泣きそうな情けない私の顔を見て旦那様は一瞬ぎょっと怯んだ。
でも言わねば。
言え言うんだ私。
私の心の居場所はどこにあるのかを。
「大好きです。」
言った瞬間にぎゅっと目をつむる。
これ以上視線を合わせてなどいられない。
緊張の糸が切れたように腰が抜けてずるずると崩れ落ちる。
酷く疲れた。
告白をしに行く女学生たちが泣きそうになっていた気持ちが今ならわかる。
一言、たった一言伝えるのにこんな気力と何かが消費されるなんて知らなかった。
力の抜けた私はゆるゆると顔を上げ旦那様を見上げた。
ああ、旦那様が笑ってる。
私もつられてふふと笑ってしまった。
壁から手を離した旦那様はしゃがむ。
同じ視線の高さになった所で身を乗り出しちゅっと軽いキスをした。
「結婚式、半年後に王都で挙げるぞ。」
「へ?」
未だ酸欠の如く回らない頭でぽかんとする私をよそに旦那様はにやりと笑った。
「愛する女を妻にする。手抜きをするつもりはない。」
「あ、あい…愛…えっと、それは私ですか…?」
「お前以外にいるわけがないだろう。」
旦那様はポケットからおもむろに小さな箱を取り出した。
「俺と結婚しろ。愛人は無しだ。」
ぱかりと開けられたそこにはキラキラと光るダイアモンドのそれ。
左手の薬指にきゅっとはめられたそれは女の子の憧れの存在。
「旦那様、これはッ」
「言っただろう手抜きをするつもりはない。お前の両親にも挨拶がまだだったな。それは王都に引っ越す前に行く。」
「…旦那様…」
「さっさと返事をしろ。これ以上待つつもりはない。」
私は私に問うた。
(今、私どう思ってる?)
いや、聞くまでもなかったかもしれない。
「喜んでお受けいたします。」
嬉しい。
涙が出るほど。
それが答えだ。
私は普通の恋がしたかった。
日常の中で出会って、恋をして、両想いになって、お付き合いをしてデートをして。
一年ぐらいしたら結婚なんかも意識しちゃったりして、そんな恋を夢に描いていた。
学院を退学してから随分と急激な近道と回り道を歩んできた気もするし、書類上はとっくに結婚しているのにプロポーズをされて…うん、これは普通の恋とは言えない。
言えないけれど。
でも私にとってきっと最高の恋。