↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
妖國事変  作者: MO2


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/2

灰燼の夜

 子供のころ、俺は平穏な日常というものが、いつまでも続くものだと信じていた。

 朝になれば太陽が昇り、夜になれば月が顔を出す。腹が減れば母さんの作った飯を食べ、父さんに仕事を押し付けられては文句を言い、日が暮れるまで村の中を駆け回る。そんな当たり前の毎日が、俺にとっての世界のすべてだった。


 平穏な日常とは、何よりも尊いものである。しかし、その尊さを知る者は多くない。それが当たり前のように続くと信じ、失われる可能性など考えもしないからだ。

 その価値を知るのは、いつだって平穏が脅かされたとき、あるいは、すべてを失ってしまった後なのだろう。今なら、そう思える。


 だが、あの日の俺は、そんなことを考えたことすらなかった。


「ヒガン! いつまで寝てるんだい!」


 聞き慣れた母さんの声が、開け放たれた窓から飛び込んできた。布団の中で小さく唸り、頭まで被っていた掛け布を引き下ろす。瞼の裏にまで差し込んでくる朝日が鬱陶しく、顔をしかめた。


「……うるさい、起きてるよ……」


「そう言って、さっきから全然出てこないじゃないか!」


「今行くよ……」


 仕方なく身体を起こし、大きく伸びをする。寝癖のついた髪を適当に手で整えながら窓の外を覗くと、そこには雲一つない青空が広がっていた。

 遠くでは鳥が鳴き、家の前を通る村人たちの話し声が聞こえてくる。どこかの家では朝餉の支度をしているのだろう、炊きたての米の香りが風に乗って漂ってきた。いつもと変わらない、穏やかな朝だった。


 身支度を済ませて家を出ると、母さんが庭先で洗濯物を干していた。俺の姿に気づくと、手を止めてこちらへ振り返る。


「おはよう、母さん」


「おはよう。まったく、ようやく起きたのかい。もう日がこんなに高いじゃないか」


「昨日は遅くまで起きてたんだよ」


「夜更かしするから朝起きられないんでしょう。朝ご飯は台所に置いてあるから、冷めないうちに食べなさい」


「分かってるって」


 いつもの小言を聞き流しながら家へ戻ろうとすると、背後から再び母さんの声が飛んできた。


「ああ、それとヒガン。食べ終わったら祠の掃除をお願いね」


「ええ……また?」


「また、じゃないの。今月はうちが当番なんだから、ちゃんと綺麗にしておかないと」


 村の外れにある祠は、昔から村人たちによって大切に守られてきた場所だった。特定の誰かが管理しているわけではなく、村の家々が月ごとに交代で掃除や供え物を行う習わしがある。今月は、どうやらうちの番らしい。


「別に、ちょっとくらい掃除しなくたって変わらないだろ」


「そういうことを言わないの。あそこは昔から、ご先祖様の魂を祀っている大切な場所なんだから」


 母さんはそう言って、俺の額を指先で軽く小突いた。


「痛っ! 分かったって!」


「分かったなら、しっかりお願いね」


 そう言って笑う母さんに、俺は小さくため息をついた。


 村の祠には、古くから魂の巡りにまつわる言い伝えが残されている。


 妖怪は死ぬと、その身体を大地へと還し、魂は世界を巡る。そして、幽玄郷の各地に存在する龍穴へと流れ込み、やがて新たな生命として生まれ変わるのだという。


 村の年寄りたちは、祠がその魂の旅路を見守ってくれるのだと話していた。もっとも、俺にはその話が本当なのかどうか、確かめる術などなかった。


「分かったよ。掃除してくればいいんだろ」


「ふふっ、お願いね」


 母さんは満足そうに笑うと、再び洗濯物へと向き直った。


 台所で朝飯を済ませ、箒を片手に村の外れへ向かう。村の道を歩いていると、畑仕事をしていた父さんがこちらに気づき、大きく手を振ってきた。


「おう、ヒガン! こんな時間にどこ行くんだ?」


「祠の掃除。母さんに頼まれたんだよ」


「はははっ! そいつはご苦労なこった!」


「父さんもたまには手伝ってくれよ」


「俺には畑の仕事があるからな。お前に任せた!」


 そう言って豪快に笑う父さんに、俺は呆れながら手を振った。父さんは昔からこんな調子で、何かにつけて俺をからかってくる。けれど、力仕事が必要なときには誰よりも頼りになる人だった。

 村の誰かが困っていれば真っ先に駆けつけ、面倒な仕事も笑いながら引き受ける。そんな父さんのことを、俺は密かに誇らしく思っていた。


「帰ったら畑も手伝えよ!」


「ええ!? まだ仕事あんのかよ!」


「若いうちは働け、働け!」


 背後から聞こえる父さんの笑い声に、俺は肩をすくめた。まったく、調子のいい人だ。


 村の中心を抜け、細い道を進んでいく。道の両脇には青々とした草が生い茂り、風が吹くたびに葉擦れの音が響いた。木々の隙間から差し込む日差しが地面にまだらな模様を作り、足元では小さな虫たちが忙しなく動き回っている。


 やがて、木立の向こうに小さな祠が見えてきた。


 古びた石段を上がった先にあるそれは、長い年月を経て屋根の一部が色褪せ、柱にもところどころ傷がついていた。それでも荒れた印象はなく、誰かが定期的に手入れをしていることが分かる。

 祠の前には、昨夜の風で落ちたのか、枯れ葉がいくつも積もっていた。


「……うわ、結構あるな」


 俺は箒を持ち直し、石段の下から順番に掃き始めた。乾いた落ち葉が地面を擦る音だけが、静かな木立の中に響く。


 しばらく掃除を続け、ようやく祠の前まで辿り着いたところで、何となく中を覗き込んだ。

 薄暗い祠の奥には、古びた木札が置かれている。そこには、魂の巡りにまつわる古い言葉が刻まれていた。


『身は土へ、魂は龍脈へ。巡り巡りて、再び命となる』


 幼い頃から何度も聞かされてきた言葉だった。


「……生まれ変わる、ねえ」


 俺は木札を眺めながら呟いた。


「本当にそんなことがあるのかね」


 当然、返事などなく、俺は再び箒を動かした。


 死んだ後のことなんて、今の俺には想像もつかない。


 それが、これから起こる惨劇と深く関わっているなど、このときは知る由もなかった。


 異変が起こったのは、その日の夜だった。


 最初に聞こえたのは、何かが砕け散るような轟音だった。続いて地面が大きく揺れ、家の柱が軋む音が響く。


「……なんだ?」


 布団から飛び起きた直後、窓の外が赤く染まった。


 火事だ。


 それも、ただの火事ではない。


 村のあちこちから炎が上がり、夜空へと黒煙が立ち上っていた。遠くからは人々の悲鳴が聞こえ、何かが激しくぶつかり合うような音まで響いてくる。焦げ臭い風が窓から吹き込み、喉の奥がひりついた。


「ヒガン!」


 部屋の戸が勢いよく開かれ、父さんが飛び込んできた。その顔には、これまで見たこともないほどの焦りが浮かんでいた。


「すぐに逃げるぞ!」


「父さん、何が起きてるんだ!?」


「分からん! だが、何者かが村を襲っている!」


 俺は慌てて立ち上がり、父さんの後を追って家を飛び出した。外に出た瞬間、熱風が頬を打ち、思わず顔を背ける。見慣れた村の景色が、炎に包まれていた。


 家々は炎に包まれ、道には壊れた荷車や瓦礫が散乱していた。昼間に挨拶を交わした隣人の家は屋根が崩れ落ち、そこから噴き出す火の粉が夜空へと舞い上がっている。


 逃げ惑う村人たちの向こうには、見慣れない黒い装束を纏った者たちの姿があった。頭から深く布を被り、顔の半分を覆い隠したその姿は異様で、袖や胸元には血を思わせる暗い朱色の紋様が刻まれていた。


 彼らは逃げ惑う村人たちを追い回し、容赦なく斬り捨てていた。命乞いをする者も、抵抗する者も関係ない。倒れた者には一瞥もくれず、次の獲物を求めて歩き出していく。


「逃がすな! 一人も残すな!」


 黒装束の一人が怒声を上げた。


 その声に応じるように、別の者たちが逃げ遅れた村人へと襲いかかる。悲鳴が響き、地面に倒れた者を助けようとした村人までもが斬り伏せられていった。


 彼らが何を目的としているのか、俺にはまるで分からなかった。


「何なんだよ……これ……」


「ヒガン! こっち!」


 母さんが俺の手を掴んだ。その手は微かに震えており、普段の穏やかな表情は見る影もなかった。


「母さん、みんなは……!」


「今は逃げるの! お願いだから!」


 俺たちは燃え盛る村の道を走った。途中、何人もの村人とすれ違った。泣き叫ぶ子供を抱えた者、家族の名前を呼び続ける者、傷を負いながらも必死に逃げる者。その誰もが、恐怖に顔を歪めていた。


 俺は何度も振り返った。朝まで人々の笑い声が響いていた村は、もはや別の場所のようだった。道の形も、家の並びも知っているはずなのに、どちらへ逃げればいいのかさえ分からなくなっていた。


「……止まれ!」


 突然、父さんが声を上げた。


 道の先には数人の人影が立っていた。見覚えのない装束を纏った者たちで、そのうちの一人がこちらに気づき、ゆっくりと顔を向ける。


「……まだ残っていたか」


 低い声が響いた。


「父さん……?」


「お前たちは下がっていろ」


 父さんは俺たちを庇うように前へ出た。いつも畑仕事で使っている太い腕が、今は俺たちを守るために広げられている。


「お前ら、何者だ! どうして村を襲う!」


 返事はない。


「何が目的か知らんが、これ以上好きにはさせんぞ!」


 その言葉を聞いた相手は、面倒なものを見るように父さんへ視線を向けた。そして、片腕を持ち上げる。


 次の瞬間、父さんの身体が何かに弾かれたように吹き飛んだ。


 何が起こったのか、理解できなかった。


 父さんは道の端に積まれた瓦礫へ激しく叩きつけられ、そのまま地面へ崩れ落ちた。


「父さん!!」


 俺は駆け寄ろうとした。しかし、母さんが俺の腕を強く掴み、その場に引き留める。


「駄目! ヒガン、逃げて!」


「でも、父さんが!」


「お願いだから、逃げて!!」


 母さんの悲痛な声が響く。


 その直後、背後から足音が聞こえた。


 振り返るよりも早く、母さんが俺を力いっぱい突き飛ばした。


「ヒガン!!」


 地面へ倒れ込んだ俺の視界に、母さんの背中が映る。


 ずっと見てきたその背中は、血が滴る刀で貫かれていた。


「……母、さん?」


 返事はない。


 母さんはそのまま地面へ倒れ、二度と動かなかった。


 目の前で何が起きたのか、頭では理解していた。けれど、心がそれを受け入れようとしなかった。父さんと母さんが倒れている。ついさっきまで、俺の名前を呼んでいたのに。今朝だって、いつもと同じように笑っていたのに。


「なんで……」


 俺は這うようにして母さんのそばへ近づいた。肩に触れ、何度も身体を揺する。けれど、いつもなら鬱陶しいほど返ってくる小言が返ってくることはない。


「起きてくれよ」


「母さん……!」


 何度呼びかけても、二人が起き上がることはなかった。


(……なんで)


 喉の奥から、掠れた息が漏れた。


(なんで……こんなことに……)


「まだ一匹残っているぞ」


 その声に、俺は顔を上げた。目の前には、父さんと母さんを殺した者たちが立っていた。


 胸の奥から、どうしようもない怒りが込み上げてくる。今すぐにでも飛びかかって、こいつらを殴り倒してやりたかった。


 けれど、分かっていた。


 父さんでさえ、何もできずに倒されたのだ。俺が立ち向かったところで、結果は目に見えている。


「……お前ら、何が目的なんだ」


 震える声で問いかける。


 相手は少し意外そうにこちらを見たあと、小さく笑った。


「何だ? 命乞いでもするつもりか?」


「……違う」


 拳を強く握りしめる。爪が掌に食い込んだが、不思議と痛みは感じなかった。


「こんな小さな村を襲って……父さんも、母さんも、何も悪いことなんてしてないだろ……」


 声が震える。


 情けないことに、涙が止まらなかった。


「……どうして、殺したんだよ」


「知る必要はない」


 返ってきたのは、あまりにも冷たい言葉だった。


 男はゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。


 逃げなければ。


 そう思った。


 けれど、足が動かなかった。


 怖かったからなのか。それとも、二人を置いて逃げることができなかったからなのか。自分でも分からなかった。


「……そうかよ」


 俺は俯いたまま、小さく呟いた。


「……お前らのことは、絶対に忘れない」


 相手が鼻で笑う。


「それで?」


「……それだけだよ」


 今の俺には、何もできない。

 こいつらを倒す力も、父さんと母さんを助ける力もない。

 そんなことは、嫌というほど分かっていた。

 それでも、目の前の連中を許すことだけは、どうしてもできなかった。


 男が片腕を持ち上げる。


 その動きを見ながら、俺は悟った。

 もう、逃げられない。


(……父さん、母さん)


 目を閉じかけた、その時。

 乾いた金属音が響いた。

 次の瞬間、俺の目の前に立っていた襲撃者の身体が大きく傾き、地面へと崩れ落ちる。


 何が起こったのか理解できなかった。襲撃者の背後には、いつの間にか黒い外套を纏った一人の男が立っていた。その右手には一振りの刀が握られ、刃先から赤い雫が静かに滴り落ちている。


 深く被ったフードによって顔の大部分は隠されていた。しかし、その暗がりの奥から覗く二つの瞳だけは、燃え盛る炎に照らされ、はっきりと見えた。


 赤い瞳だった。


 男の外套が夜風に揺れる。その袖口から覗いた腕には、奇妙な刺青が刻まれていた。円環の中に、時の流れに逆らうような線が描かれた、不思議な紋様だった。


「何者だ、貴様!」


 残された襲撃者の一人が叫んだ。しかし、男は答えない。ただ静かに刀を下げ、目の前の敵を見据えていた。


「答えろと言っている!」


 怒声とともに襲撃者が飛びかかった。振り下ろされた刃が男の頭上へ迫る。しかし、男は僅かに身体を傾けるだけでそれを躱し、すれ違いざまに刀を一閃させた。


 襲撃者が声を上げる間もなく倒れ込む。その光景に残りの者たちが一瞬怯んだが、すぐさま武器を構え、男を取り囲んだ。


「囲め! 逃がすな!」


 合図とともに、男たちが四方から襲いかかる。


 だが、黒い外套の男は一歩も退かなかった。


 迫る刃を最小限の動きで躱し、あるいは受け流しながら、確実に刀を振るっていく。


 一人、また一人と襲撃者が倒れていった。その剣技には派手さも、荒々しさもなかった。ただ相手の動きを見極め、必要な瞬間に必要なだけ刀を振るう。まるで幾度となく同じ戦いを繰り返してきたかのような、迷いのない動きだった。


 最後の一人が地面へ崩れ落ちると、男は刀についた血を振り払い、静かに鞘へと収めた。


 辺りに、奇妙な静寂が訪れる。遠くでは家屋の焼け落ちる音や人々の悲鳴が響いているというのに、俺の耳には刀が鞘へ収まる小さな音だけが、妙にはっきりと残っていた。


 男はゆっくりとこちらへ振り返った。


 炎に照らされたその姿は、まるでこの惨劇の中に突然現れた亡霊のようだった。フードの奥にある赤い瞳が、倒れた父さんと母さんを一瞬だけ捉え、そして俺へと向けられる。


 その眼差しには、勝利の喜びも、敵を倒した高揚もなく、ただ言葉にできないほどの疲労と、深い悲しみだけが滲んでいるようだった。


 男は何も言わず、静かにこちらへ歩み寄ってくる。そして、俺の前で足を止めると、ゆっくりとフードへ手を伸ばした。


 黒い布が持ち上がり、その下に隠されていた顔が露わになる。


 目元には深い隈が刻まれ、頬は痩せこけていた。長い年月を生きてきたかのような疲労が、その顔には色濃く滲んでいる。


 しかし、俺が息を呑んだのは、そんなことが理由ではなかった。


 その顔には、見覚えがあった。

 いや、見覚えがあるどころではない。


 目の形も、鼻筋も、そして燃えるような赤い瞳も。そこに立っていたのは、毎朝鏡の中で見ている自分自身と、あまりにもよく似た男だった。


 ただ一つ違うのは、その顔が俺よりも幾分か大人びているということだけだった。


 俺は声を失い、ただ目の前の少しだけ大人になった俺自身を見つめていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。