古都を思い直し
私は産寧坂、二年坂を超えた先、ねねの道で私は亜美がトイレから出てくるのを待っていた。
私は一人、あまり訪れない観光地で異国の人々を眺めていた。彼らの姿は永遠の旅先に潜む異人なのであった。
私は先日、亜美の働く店に行った後、近いうちに亜美と遊びに行く約束を漕ぎ着けた。
連絡をし、その承諾の言葉を見た途端に私は遠い先にいた亜美の手を握ったような心持ちがした。どこに行くでもない、行きたい場所もお互いになかったが、目についた清水の写真が私をそこに行かせるのであった。
「お待たせ」
少しして、亜美は私の前に姿を現し、私達は歩き始めた。
石部小路へ私は訪れたことは無かった。写真などではよく目にするその細い曲がりくねった道は簡素なものであったが、清水が近くにあるとは思えない程、静寂に犯されてもいた。それを抜け、私達は逆戻りをし、騒がしい一年坂へ行った。
亜美は紺とシャツと黒のズボンを履き、髪を緩く縛っていた。その姿は店では見ることのない姿で私はつい、その目を引いてしまった。
私よりもその低い背に頭のつむじがよく見えた。大人っぽい外見とは裏腹にその背丈は可愛らしく思えた。
一年坂を通ると、八坂の塔が遠くから頭を建物から出し、やがて、歩くに連れて、建物と建物の間から目に見える程、大きくなっていった。
それがより、近いてるのだという実感をした時、その八坂の塔が立ち、私の目の前に広がる下り坂の光景が広がった。
「写真で見たことある!」
亜美はそう言って私に微笑んだ。彼女は私をしっかり見てくれていた。亜美の中ではこの景色の美しさよりも私と共有したことの嬉しさがあるのだろうか。私は自分の気持ちが亜美と同じであることが嬉しかった。
「人通りがやっぱ多いなぁ」
私と亜美は端に寄った。その間も、外国人や修学旅行生が私達と同じような感激の声を次々とあげ、それが途切れることはなかった。
私の左腕に亜美の身体が触れた。その柔らかさに私は彼女の胸元に触れたのかと思った。しかし、よく考え、恐らくは二の腕あたりであろうと思った。しかし、それを確認する勇気はなかった。
八坂の塔を越えると、宿はすぐそばにあった。私は亜美と部屋に入り、荷物を置き、壁を背に座った。亜美は仕事の影響か、私に茶をくれた。その申し訳なさと背徳感が私に小さき特異な思いを与えた。
「おおきに」
私がそう言い、亜美は笑い、私が亜美から目を離した後、三、四本の指先で私のつむじを撫でるようにつまんで触れた。
私はその急な緊張と驚きに目をやったせいでその時の亜美の表情が頭に無かった。
・
十八時を過ぎた頃、私は亜美と宿を出た。清水五条から祇園四条まで乗り、階段を登って外へ出ると、曇り空を一掃した夕空が遠くから姿を見せ、車が多く通る川端通りと四条通を歩く人々のその賑やかな街に私は心知れぬ輝かしいものを思った。鴨川の超えた先に東華菜館が厳格に佇み、後ろを振り向くと、南座の壁が立ちすくみ、北にはレストラン菊水が立っていた。橋の端々にこれらの建造物が守り神のように作られ、我々を見守っているような心安らぐ安心があった。
「まだ予約の時間まで全然あるし、時間潰そか」
「そうやね」
私は亜美を連れて、東華菜館を超え、その横を流れる小川沿いを二人で歩いた。その川にも立ち並ぶ小さな店を眺め、その静けさを包み込んだ川に反射する空に靄がかかっていた。
その川に掛かる橋に腰を掛け、私はなんて事のない話をして、時間を潰した。
暑くもなく寒くもない、ちょうど良い気温であった。一年中こうであれば私はどれだけ出掛けるのが楽になるかと思いながら、亜美の可愛らしい顔立ちを見て、十代の頃のような心が総立ちしてるのに気づいた。
十九時の十分前に私達は東華菜館へと出向いた。受付に名前を言うと、すぐにテラス席に通された。ここにある日本最古のエレベーターに乗ることはできなかった。私はそれを残念がりながらも亜美と共にテラス席に足を踏み入れた。
四、五段ほどの小さな階段を目の前に鴨川が音を立てて流れ、左には四条大橋、目の前には南座が立っていた。テラス席には私達以外にも何組かおり、奥側の方へ私達は通された。
十九時であるが、春の足先、夏の頭出し辺りはこの時間でも夕方の顔をまだ消してなかった。夕方の色彩に雨雲が陰鬱な色を見せていたが、雨は降りそうにもなかった。
風が強く、私と亜美の髪は流れるようであった。
「めっちゃ素敵な景色やん」
亜美は鴨川に目を向けていた。その言葉と共に私は亜美を眺めていた。
東華菜館ではコース料理が運ばれた。それとは他に亜美はビールを私はワインを頼んだ。
亜美が酒を飲むのを店以外で見るのは初めてかもしれなかった。
「亜美さんがこんな時にお酒飲んだはるの、初めて見るなぁ」
「私、元々お酒好きやで」
「普段の飲み会は車で来たはるからか。あんまり飲んだはるイメージがなかってん」
「多分そうやね」
亜美のビールを飲む姿は彼女が改めて大人の女性なんだと言うことを実感させられた。下戸の女性とばかりつるんでいた私にとっては亜美がやはり自分よりも高い位置にいるような気がした。少なくとも店で飲まされて強くなったわけではなかった。私はそれが亜美の意思であることに安堵を覚えた。決して、自分の知らぬ男のせいではなかったのだ。
十九時を過ぎると、端々の会話の間で私は夕空が消え掛かっているのを見た。 segregation そして夜はふと、気がついた時に広がっていた。
亜美はビールを飲み終え、再び、ビールを注文していた。
私はハーフボトルではあるのだが、まだワインが残っていた。亜美が飲むと言うので、グラスを一つ注文した。
私は亜美に助けられた。その行いは私を羞恥に包み込んだ。ワインの色がいつものように輝くのを見て、それは普遍的なものであると思い心を落ち着かせた。
コース料理と共にビールとグラスが運ばれ、亜美の飲酒量は私を超えていった。私の酔いは回っていたのだが、ワインが飲み切らないうちにレモンサワーを頼み、レモンサワーは思いのほか早く届いた。
「亜美さん、飲むの早いなぁ」
私がそう言うと、亜美はそうかなと言って微笑んだ。その強い余裕は私に焦りを感じさせた。彼女に届かねばならないと思った。
ビールを飲み終えた亜美はふと、私の口をつけてないレモンサワーを手に取った。
「中村くん、遅いからちょっと飲んじゃうで」
私は笑いながらちょっと待ってと言った。決して不快な思いなどはなかった。
「けど、中村くん、まだ残ってるやん」
「そうやけど、俺も飲む!半分残しといてや」
亜美はそれを了承し、レモンサワーを飲んでいた。不意な間接キスになる事も彼女は気にしないようであった。途方もない彼女らしい行いは私のような臆病者には自身を卑下したような心持ちになるばかりであった。
亜美には私に対する性の自制がないのであろうか。私に好意を持っているとはこの時点ではまだ言えないが、少なくとも嫌悪しているわけではないということは明白であり、歓喜は私の心に芽生えたのであった。
「あぁ、もう夜やな」
ふと、そんな歓喜を忘れたように私は言った。
「あっという間やね」
私達はその夕空の変わり果てた暗い空を見上げ、私は夜的肌寒さに冬の足先を思った。
・
「祇園の方まで歩いてかへん?」
私は東華菜館を出たその時に、亜美に言った。
「ええよ。行こ」
街の騒がしさに埋もれるように私には亜美の声が聞こえた。四条通をそのままに歩き、人々の群れに身を任せると花見小路は姿を見せた。
私達はそのまま花見小路を歩いた。時間は二十一時であり、車の通りが一番多くなる時間帯であった。道の端を歩く私達のすぐそばを何台ものタクシーが通り、その走る音と、眩しいまでの光は静寂とは対比していた。
「あ、舞妓さんや」
亜美はそう言って、私の肩を軽く叩いた。
「どこ?」
私がその方を向いた時には見えなくなっていた。
「おったん?」
「おったよ。ほんまに」
「そうなんや」
私は幾分か興味がないように答えた。その様子を亜美はどのように思って見ていたかは知らない。ただ、彼女がそれで不愉快になるとは思えなかった。
私と亜美は建仁寺の突き当たりまで歩いた。そして、そのまま、安井金毘羅の方まで行けば宿に戻れるのだが、一日歩いた私達には疲労のせいでそんな元気はなかった。足先に痛みが生じていた。その為、再び、私達は引き返す事にした。
花見小路を照らす灯りには眠気を呼び起こした。
「ここらへんはスナックが多いんやね」
「亜美さんここに転職しぃや」
私の冗談に亜美はうっすらとした笑いを見せた。
「そしたら、中村くん来られへんやん」
「いや、半年に一回は行くわ」
「それやったら、稼げへんやん」
私はそのように亜美と笑い合った。
花見小路には帝国ホテルがあり、祇園の街並みの中に大きく聳え立っていた。その、帝国ホテルの外観を見て、私は小学生の時にここを訪れたのを思い出した。
それは小学校の行事であったが、深くは思い出せなかった。ただ、その時はまだ帝国ホテルではなく弥栄会館であり、そこで棒縛を見た記憶だけが更地の上に置いてある大きな石のように覚えていた。
「ここ昔来たことあるわ。小学生の時に、急に記憶が弾けたみたいに思い出してん」
私は独り言のように言った。
その後、再び祇園四条駅から清水五条駅まで行き、その途中で酒を買った。宿に戻って、私達は買った酒を飲んだが、やがて亜美は風呂にも入らず眠りに入った。
・
私は六時過ぎには起き出し、朝風呂に入った。宿に泊まった時には必ず行う私の習慣は亜美がまだ眠っている中でも彼女を起こさぬように行った。
部屋にある風呂場には扉がなく、簾が付いているだけであった。その為、亜美が起きることがないよう、私は出来る限りの物音を最小限に努めた。
そして風呂を上がると、その日の着替えに着替え、一人こっそりと祇園の方へ足を運んだ。
昨日とは反対に一年坂の方から歩き、八坂の塔から目指した。その途中に、雀のような鳥が道端で死んでいるのを見つけ、私は悲しげな思いを急に感じた。それも静かではないこんな騒がしい場所で命を失ってしまう事に悲観的にも憐れにも思えた。私の朝の散歩はそのような陰鬱な思いをどこか希望に見出したようの思いになってしまった。
亜美は十時過ぎに起き、風呂に入り、化粧を終えると十一時頃に宿を出た。雨雲がその日は空全体を覆っており、亜美は傘を持っていった。
その足で安井金毘羅まで歩き、そこで良縁のための札を買った。私は亜美との縁を思っていたが、彼女が何を思ったかは知ろうとはしなかった。
安井金毘羅には縁おみくじと普通のおみくじがある。私は縁おみくじの方を買ったが、亜美はただのおみくじを買った。その差異に私は亜美との心のズレがあるような気がした。彼女は縁を求めていなかったのだ。
安井金毘羅を後にする際に、亜美はふと
「中村くんは彼女おるの?」と聞いた。
それにどんな意味を持たせているのか。私が望むようなものか、それともただの好奇心か。
「おらんで。しばらくね」
以前にも亜美に同じ事を聞かれた。その際に気になる人はいるのかと聞かれ、今はいないと嘘をついた。この時は気になる人がいることは聞かれずに済み、私の良心は痛むことはなく、安堵した。
そのまま昨夜歩いた花見小路を通り、祇園四条駅から烏丸駅まで乗り継いだ。向かうのは以前にも二人で訪れたイノダコーヒ本店であった。
イノダコーヒに来るのは一年半振りで亜美と来た時以来私はここを訪れてなかった。
イノダコーヒに来る際、私は道路側に立って歩いていた。人通りは多く、車も良く通っていた。
「ちょっと道路出てるで」
亜美はそう言って、私の左手を握った。私はその不意な行動に驚きをしたが、それを見せまいと努めた。亜美の手は暖かく、私の手からはその緊張が伝わって来るかのようだった。私は手を握られたままであったが、しばらくして私も亜美の手を握った。
私は今、私達は恋人のように見られているのだと思うと長い間、自分がなす事がなかった境地に立った思いをした。
イノダコーヒへは前来た時と同じ席に座りたかったが、通されたのは二階の席であった。
先程までの私の緊張はまだ続き、亜美にはそれがどう感じているのかは私にはわからなかった。ただ、その不意な行動に彼女の私への感じ方に触れたように思えた。少なくとも友人ではあるのだと。
亜美と私は注文をし、そのお互いに目を合わせた。
「ここ来るの久しぶりやね。中村くんはあれからここ来てたん?」
「いや、俺もあれ以来来てへんなぁ」
「そっか」と亜美は髪をいじりながら言った。柔らかいボブを見るたびに私は彼女の奔放な性格をよく現していると思った。
亜美はあの時のままであり、私も変わっていないと感じた。その変わりない私達がこうして再びここに来れていることが私は何よりも嬉しかった。
「次どこ行きたい?」
「そうやね。金閣寺とか行ってみたいなぁ」
私の心の中の騒音を他所に亜美とはそんな他愛もない会話をして、私は頼んだコーヒーとトーストを口にしていた。十三時を回っており、朝を抜いた私にはこれだけでも結構なお昼ご飯になっていた。
私達はその後に亜美が希望した金閣寺を目指して言った。烏丸御池駅から北大路駅に行き、そのままバスに乗った。窓際に亜美が座り、私は通路側に座っていた。私はふと、亜美が傘を持っていない事に気がつき、彼女の周りをじろじろを見回した。
「亜美さん、傘は?」
亜美は驚き、辺りを見回した。
「ない、イノダコーヒに忘れたかも」
申し訳無さそうにする亜美を私は気にしないでと慰めた。
金閣寺前に着くと、亜美はイノダコーヒに電話をし、電話を終えた後にイノダコーヒに傘の忘れ物があった事を伝えた。
「とりあえず見つかったから良かったやん」
「ごめんね。ほんまに」
「大丈夫、大丈夫」
亜美は申し訳無さそうにしていたが、私としては本当に気にしてはいなかった。恐らくは帰りには烏丸御池には寄らなくては宿に戻れなかったのである。
私と亜美は傘のことを忘れ、金閣寺を見物した。その時、天気は晴れ始め、私はその時に一瞬、傘の存在を忘れるのも無理はないと思った。
金閣寺を出た後に、龍安寺か仁和寺に行こうかと話していたが、バスがだいぶ遅れ、時間が無くなり始めたので、そのまま北大路駅までバスで戻り、地下鉄で烏丸御池駅に降り、再びイノダコーヒへと向かった。
イノダコーヒで傘の忘れ物を預かり、私達は祇園四条駅へ行くために再び烏丸御池へと向かった。
「傘あって、よかったなぁ」
「ほんまにご迷惑をお掛けしました」
「ええよ。どっちみち烏丸御池は寄らんとあかんかったし」
亜美は親しい相手でも敬語を使う事がある。知り合った頃は気を遣われているのかと思っていたが、付き合いが長くなると、それは彼女の口癖のようなものと知るのである。ただ、気を遣われているという気持ちは今でもある。それがいつかは無くなればいいと思う。
祇園四条駅では東華菜館のすぐ近くの店で夕食をした。そして、酒を買って、宿に戻った。その日は二人ともすぐには寝ず、買った酒を飲んでいた。
「亜美さん、スナックは大変?」
「セクハラが多いわ。お尻はよう触られるかなぁ」
「やっぱりあるんや。ひどいなぁ」
亜美は嫌悪の表情を示した。父親よりも年上の男に性的な悪戯をされるのは不愉快であるのは明白であったが、それを我慢して仕事できるのは亜美の心の強さなのか。亜美はこの他にアルバイトを二つ行い、三つの仕事を掛け持ちで行っている。これも生活の為なのはわかるが、生きすぎているように思えた。いつか、彼女が壊れてしまうのでは無いかと思ってしまうのである。
亜美は酒のせいなのか、これらの仕事の愚痴を吐いており、職場の人間関係や、客のセクハラの話などを洗いざらい話していた。私はただそれを聞いているだけで、亜美のように生きていない自分が惨めになった。自分のような人生はまだ人に甘えており、亜美のように一人で強く生きている人にはなれないのかもしれないという不安を感じた。亜美と私が眠りについたのは二時を過ぎてからであった。
・
旅行最終日に私は五時半に目を覚ました。しかし、眠気はまだあり、三時間半しか寝ていないということを寝ぼけながら朧げに思っていた。私は無理には起きず、再び横になったが、眠りにつけずにいた。そして六時半まで待って眠れなかったら起きてしまおうと思った。
私は六時二十分までは起きていたが、六時半になる頃には眠りについていた。目が覚めると七時半になっていた。
一時間でも眠りにつけた事に安堵し、私はその眠い目を起こした。亜美はまだ寝ていた。寝顔を見るようなことはせず、私は朝風呂へと急いだ。
チェックアウトは十時なのでそれまでに起きて出られる準備ができていればよかった。私はまだ亜美を起こすことはせずにいた。亜美は九時頃には起き出した。
それから一時間のうちに着替えと化粧を終えた。
「中村くん、化粧してるとこ見んといてな」
「了解」
私はそう答えたが、化粧しているところを見られるのはそんな不快なものなのか、しかし、私が髭を剃るところを見られるのは確かに良い気持ちはせぬものであった。
チェックアウトを終えると、私達は伏見稲荷大社を目指した。清水五条駅から東福寺で乗り換え、一度京都駅に行き、そこでスーツケースを預かってもらった。そこから再び、稲荷駅まで電車で向かった。
稲荷大社に着く頃には天気は快晴であった。この旅行では三日間とも曇り後雨という予報であったが、これがことごとく外れた。私としては曇りは気圧などで気が滅入ることがあるので、晴れるのは歓迎していた。
日曜だからか、以前来た時よりも観光客が多く見受けられ、千本鳥居に行くまでにも時間を要した。しかし、千本鳥居はふと、その顔を見せ、それに近づくにつれ、後ろの鳥居が神々しいような影の色を作っていた。
朱色に照らされた影の色はどことなく派手な色合いで地面に写り、その鳥居の中を通ると、どこか静寂な声が響く。涼しさが蔓延り、その冷たい空気が私の肌に吹きかけ、汗を流れたような消し去った。
千本鳥居の階段は時々下る時がある。上のに疲れた時の下りは足の疲れを少しだけ休ませてくれる。
「中村くん、私、下りる時バランス崩しそうやから、手握ってもええ?」
それは突然であった。昨日の時のは違い、今は亜美が手を握りたいという意思を表して聞いてきている。
「ええよ」
「おおきに」
亜美は私の差し出した左手を緩やかに握った。亜美の手は暖かく、私は昨日のような恋人のように再びなれている事に少しずつ慣れていることに気がつき、この耐性ができていることの安堵と、寂しさを味わった。
私達は人の流れに沿って、千本鳥居を抜けていった。しかし、ある所で、私達の他に人は少なくなり、私達は山から出され、東福寺の道に出ていた。まるで神隠しにでもあったようにそこに千本鳥居の道は無くなっていった。その呆気のない静けさに私は馬鹿馬鹿しさと困惑が交差し、亜美に苦笑いを浮かべた。亜美も同様で、そのまま私達は伏見稲荷大社を後にし、東福寺から近くにある鳥羽街道駅へと向かった。
静かな住宅街で、私達は時折言葉を交わすがその静寂を味わいながら歩いた。
「ほんまに神隠しかなぁ?」
「どうやろ?でも、ここに二人で出たのも何かの縁なんかねぇ?」
私は確かに不快な気持ちなどなかった。騒がしさから静寂に投げ出されても、亜美と二人でいられる事が何よりも嬉しかった。
私達は近くに位置する鳥羽街道駅まで歩き、そこから東福寺駅に降り、京都駅行きの電車に乗り換えた。伏見稲荷大社に行ったはずが、知らない場所に投げ込まれた不思議な感覚が京都駅の騒がしさに打たれながらも未だに続いていた。
これで私の亜美への思いを控えた旅行は終わりを告げた。
「一緒に旅行できて、楽しかったわ」
「俺も楽しかった。また行こなぁ」
亜美は優しげな笑みを向けていた。私は亜美とイノダコーヒに初めて行ったあの日を思い出した。あの日と比較すると、亜美との関係は進んでいたように思う。しかし、この思いを私は亜美に打ち明けることはなかった。その勇気がない私が臆病者なのもあるが、打ち明けない事が私や亜美の今後の関係のために良いと思ったのだ。
私は最後に亜美の姿を目に映そうと亜美を見た。蓬色の爪の色が冷たくも輝かしく陽の光に粒の光のように私の目を刺激した。
電車に乗る前に亜美はゴミを捨てに行くと言い、その場を後にした。
私は亜美の荷物を持ったまま彼女を待っていたが、彼女は電車の時間になるまで、神隠しにでもあったように私の前に現れることは無かった。




