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エピローグ

目が覚めたとき、碧は自分の部屋にいた。


天井が見えた。見慣れた天井だった。染みの形も、照明の位置も、何も変わっていない。窓から朝の光が差し込んでいた。カーテンの隙間から、白い光の筋が一本だけ床に落ちている。


碧はしばらく、動けなかった。


体が重かった。腕も、足も、瞼さえも、水を吸い込んだ綿のように重かった。呼吸するたびに、肺の奥に昨夜の空気がまだ残っているような気がした。コーヒーの香り。琥珀色のランプの光。雨音。


頭の中に、昨夜の記憶が断片的に浮かんでいた。


ハンドベルの音。銀の小箱。麗香の扇子が風を起こすときの、乾いた音。コーヒーカップ。伏せられたカード。そして麗香の、最後の笑い声。


夢だったのかもしれない、と思った。


しかし思った瞬間に、それが逃げだと分かった。夢であってほしいという願望が、そう思わせているだけだ。


碧は体を起こした。


頭に血が上る感覚がして、一瞬目の前が暗くなった。眠り薬の残りが、まだ体の中を流れているのかもしれなかった。碧はベッドの端に手をついて、ゆっくりと状況を確認した。


そして気づいた。


制服を着たまま、眠っていた。


碧は自分の制服を見た。ブレザーのボタンが一つ、はずれかかっていた。スカートの裾に、わずかな汚れがあった。ざらりとした手触りの灰色の汚れ。昨夜の喫茶店の床の埃に似た色だった。


碧は手を見た。


右手の人差し指の腹に、小さな赤みが残っていた。皮膚の表面がわずかに荒れている。カードを何度も握り、縁に押しつけた跡だった。


夢ではなかった。


碧はしばらく、自分の手を見つめた。


この手は昨夜、何度カードを握ったのだろう。何度迷い、何度止まり、何度間違えそうになったのだろう。最後に赤のカードを選んだとき、この手は震えていた。確信があったわけではなかった。外れれば死んでいた。


それでも、選んだ。


佐藤さんが死んだ。ミカさんが死んだ。九条さんが死んだ。


三人の顔が、順番に浮かんだ。


佐藤さんは、最初に限界を迎えた人だった。恐怖を抑えきれず、怒鳴り、椅子を蹴り、そして誰よりも早く自分の判断を信じて行動した。その判断が間違っていた。でも碧には、佐藤さんを笑う気にはなれなかった。あの瞬間、自分だって似たような選択をしていたかもしれない。恐怖は人を、誰かの裏をかこうとする方向へ追い込む。佐藤さんはただ、その追い込まれ方が少しだけ早かっただけだ。


ミカさんは、泣きながら最後まで生きようとしていた。「死にたくない」と言いながら、それでも毎回、ゲームを諦めなかった。銀の皿のことを碧から聞いて、使わなかった。それはミカさんが選んだことだと碧は言った。本当にそうだろうか。もっと早く、もっと強く伝えていれば、ミカさんは使ったかもしれない。分からない。でも分からないまま、この問いは碧の中に残り続けるだろう。


九条さんは、最後まで自分の論理を手放さなかった。麗香さんを「ブラフを使うプレイヤー」という枠に押し込もうとして、その枠からはみ出した何かを見ようとしなかった。論理は武器になる。でも武器は、持ち方を間違えれば自分を傷つける。九条さんはきっと、賢い人だったのだと思う。だからこそ、自分の賢さを疑えなかった。


碧は生きている。


その事実の重さを、碧は今朝初めて、正面から受け取った。昨夜はゲームの中にいたから、考える余裕がなかった。次の一手のことしか考えられなかった。今は朝で、静かで、碧一人だった。その静けさの中で、三人分の椅子が空になった円卓の光景が、ゆっくりと実体を持って迫ってくる。


なぜ自分が生き残ったのか。


運なのか。それとも何かを正しく選んだから、なのか。


碧には分からなかった。最終局面で赤を出したのは、麗香さんの目が「待っている目」だったからだ。計算のない麗香さんが自然に選ぶ色を読もうとした。でも、それが本当に正しかったのか、今でも確信を持てない。麗香さん自身が「最後に計算を捨てたつもりはなかった」と言った。だとすれば、あの読みは当たっていたのか、それとも全く別の理由で結果が一致しただけなのか。


(答えは最初から、目の前にあった)


あの言葉が、碧の胸の中で繰り返された。


最初のゲームのこと。五つのカップの中に毒が仕込まれていた。砂糖を選ぶゲームだと全員が思い込んでいたから、カップを誰も見なかった。答えは最初から、テーブルの上にあった。それを見るための問いを、誰も立てなかっただけだ。


マスターはいつも、そういう設計をしていた。


気づかなければ死ぬ。気づいても確信が持てなければ動けない。動かなければ、気づかなかったのと同じ結果になる。そしてその全てが、参加者自身の選択の結果として記録される。


なんて、周到な悪意だろう、と碧は思った。


そしてその悪意に出資していたのが、麗香さんだった。


碧は窓の外を見た。


空は薄曇りで、光は柔らかく拡散していた。近くの電線に雀が二羽止まっていて、体を丸めていた。


麗香さんは、今どこにいるのだろう。


その問いに、碧は答えを持っていなかった。眠り薬で意識が落ちていく直前、麗香さんの顔が遠くなっていくのを見た。その目は静かで、穏やかで、今夜一度も見せなかった素直な顔をしていた。碧を見ていた。


あの目に、何があったのだろう。


満足だったのか。安堵だったのか。あるいは碧には名前のつけられない、別の何かだったのか。


約束した、と麗香さんは言った。もう二度とこんなゲームはしない、と。


あの笑い声を碧は今も耳の奥に覚えていた。扇子のない口元で、計算のない笑いだった。今夜初めて聞いた笑い声だった。あの人がああいう笑い方をするとは、ゲームが始まった時には想像もしていなかった。


約束が守られるかどうか、碧には分からなかった。


麗香さんは西園寺という檻の中で育ち、本物を求めてあのゲームに出資した。その渇きが、一夜で消えるとは思えない。でも麗香さんは「約束する」と言った。躊躇なく、静かに。あの人が嘘を嫌いだということを、碧は昨夜の長い時間をかけて知っていた。


信じるしかない、と思った。


信じるというのは、証拠がないのに信じるということだ。根拠が薄くても、自分を信じる。それは昨夜碧が麗香さんの言葉を信じたときと、同じことだった。


碧は窓を開けた。


冷たい朝の空気が、部屋に流れ込んできた。昨夜の雨はもう止んでいて、空気は少しだけ澄んでいた。どこかで、鳥が鳴いていた。


碧は制服のまま、窓枠に手をついて外を見た。


いつもと同じ朝だった。電柱が立っていて、アスファルトが濡れていて、向かいのアパートの窓に洗濯物が干されていた。誰かがカーテンを開ける音がして、猫が塀の上を歩いていた。


昨夜あれだけのことがあって、世界は何も変わっていなかった。


それが当たり前のことなのだと、碧は知っていた。世界は碧一人のために止まらない。三人が死んで、一人が生き残って、それでも朝は来る。電車は走る。誰かが洗濯物を干す。


でも碧は変わった。


何がどう変わったのか、言葉にはできなかった。でも昨夜の自分と今朝の自分が、同じ人間だとは思えなかった。あのゲームの中で、碧は何度も諦めかけて、何度も手が震えて、それでも動いた。麗香さんの目を読もうとした。答えを見つけようとした。死ぬかもしれないと知りながら、赤のカードを出した。


それは碧が今まで生きてきた中で、したことのない種類の選択だった。


父が借金を残して消えたとき、碧は何もできなかった。ただ書類に判を押されて、数字の重さだけが残った。あのとき碧は、自分には何もできないと思っていた。選べる場所に立っていないと思っていた。


でも昨夜は選んだ。


間違えながら、読み違えながら、それでも諦めずに選び続けた。その積み重ねの先に、今朝の自分がいる。


ただ、コーヒーの苦みが、まだ喉の奥に残っていた。


あの苦みは昨夜のものだった。眠り薬の入ったコーヒーの苦みだった。でも碧には、それが昨夜のゲーム全体の味のように感じられた。怖くて、痛くて、取り返しのつかないことがあって、それでも最後に誰かと笑った、あの夜の味。


窓の外で、鳥が鳴いていた。


世界は朝だった。いつもと同じ朝だった。


碧だけが、変わっていた。


碧は窓を閉めた。制服を脱いで、畳んで、椅子の背にかけた。洗面所に行って、顔を洗った。鏡に映った自分の顔を見た。目の下にうっすらと隈があった。頬に、昨夜泣いた跡が残っていた。いつ泣いたのか、碧には覚えがなかった。


鏡の中の自分を、碧はしばらく見つめた。


この顔が昨夜、あのゲームの中にいた。この目が麗香さんの目を見た。この手がカードを握った。


碧はゆっくりと息を吐いた。


今日も、世界は続く。学校があって、借金があって、解決していない問題が山積みのまま続く。昨夜のゲームで借金がチャラになるという話だったが、本当にそうなるのかも分からない。マスターの言葉がどこまで信用できるのか、碧には判断する材料がなかった。


でも今日は、まず朝ごはんを食べよう、と思った。


それだけでよかった。答えは全部、今すぐ出なくていい。昨夜学んだことがあるとすれば、それだった。答えは目の前に置かれている。でも見つけるには、まず動くことが必要だ。動かなければ、気づかなかったのと同じ結果になる。


碧は洗面所を出て、台所へ向かった。


冷蔵庫を開けた。卵が二つと、使いかけのバターと、牛乳があった。碧はフライパンを取り出した。


窓の外で、また鳥が鳴いた。

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