最終ゲーム「嘘つきの鏡」④
「いいえ。私は麗香さんを死なせません」
麗香が目を見開いて手を止めた。
碧は二つのカップを見た。
なぜ二つなのか。
その疑問が、碧の頭から離れなかった。敗者が飲むカップは一つでいい。なのになぜ、最初から二つ用意されているのか。
碧は考え始めた。そしてその思考は、今夜最初のゲームへと遡っていった。
「麗香さん。少しだけ、聞いてください」
碧は言った。
「最初のゲームの話です。角砂糖のゲーム」
麗香が碧を見た。
「あのとき、毒は砂糖の中にあると私たちは思っていた。五つの砂糖のうち一つに毒が入っている、と。だから毒の砂糖を引いた佐藤さんが死んだ、と思っていた」
「ええ」
「でも」碧は言った。「本当に、毒は砂糖の中にあったのか」
麗香の目が動いた。
碧は続けた。
「ルールには、砂糖をコーヒーに溶かして飲む、と明記されていた。砂糖を選ぶのは自由だった。でもコーヒーに溶かすことは、逃れられない手順だった」
「……ええ」
「五つの砂糖と、五つのカップ。砂糖は一対一でカップに対応していた。でも、もし毒が砂糖ではなくコーヒーの方に仕込まれていたとしたら」
麗香の扇子が、静かに止まった。
「五つのコーヒーのうち、一つだけに毒が入っている。どの砂糖を選んでも、毒入りのコーヒーに溶かして飲めば死ぬ。砂糖を選ぶという行為には、最初から意味がなかった」
碧は続けた。
「マスターは『砂糖の一つに毒が入っている』と言った。コーヒーに毒があるとは、一言も言っていない。でも聞いた側は全員、毒が砂糖の中にあると信じて疑わなかった」
「……砂糖を選ぶことに必死になって」麗香はゆっくりと言った。「カップを、誰も見なかった」
「はい」碧は言った。「もし誰かが最初にそれを疑っていれば、五つのカップのうちどれが毒かを見極めて、残りの四つを五人で分け合うことができた。砂糖なんて、最初から関係なかった」
店内が、静まり返った。
麗香は動かなかった。しかしその目が、ゆっくりと今夜の最初へと遡っていた。今夜ずっと見せてきた計算の目ではなく、何かを本気で考え直している目だった。
「……わたくし、麗香の判断能力でコーヒーの毒を見抜けたはずですわ」麗香は静かに言った。「角砂糖の光の反射の差異まで見えていたのに。コーヒーカップを、一度も疑わなかった」
「砂糖を見ていたから」
「ええ」麗香は目を伏せた。「マスターが用意した舞台の上で、マスターの見せたものだけを見ていた」
「砂糖をコーヒーに溶かさなければ」碧は言った。「それだけで、助かる道があった」
その言葉が、二人の間に静かに落ちた。
麗香の声から、少しずつ温度が消えていった。それは怒りではなかった。もっと静かな、取り返しのつかない何かに触れた声だった。
碧は続けた。
「ハンドベルのゲームです。ベルは鳴らさなければならなかった。でも私は生き残った。扇子で気流を操作して、ガスの拡散を防いだ。あの方法は私だけのものじゃなかった。全員が同じようにすれば、全員が助かった。私がもっと早く、全員に伝えることができた」
麗香は何も言わなかった。
「次は箱のゲームです。銀の皿がテーブルの上に、最初からあった。全員が使えば、ミカさんも死ななかった」
「ミカさんは知っていた」麗香が静かに言った。「あなたが伝えた。でも使わなかった」
「はい。それはミカさんが選んだことです。でも私はもっと早く、全員に伝えることができた」
二人の間に、しばらく沈黙が降りた。
「マスターはいつも、逃げ道を用意していた」碧は言った。「気づいた者だけが使える道を。でもその道は、見つけにくい場所に置かれていた。気づかなければ死ぬ。気づいても確信が持てなければ動けない。動かなければ、気づかなかったのと同じ結果になる」
「……そして」麗香が静かに続けた。「助かる道があったのに、それをしなかった愚か者だと。そう罵るための悪意で、このゲームは設計されている」
碧は麗香を見た。麗香の目に、今夜初めて見るものがあった。傷のような何かだった。
「そして、このゲームも」
碧は二つのカップを見た。
「なぜカップが二つ用意されているのか。勝者にカップは要らない。飲まなくていいはずだ。でもマスターは最初から二つ並べた」
碧は麗香を見た。麗香も二つのカップを見ていた。
「混ぜるため」
麗香が言った。碧より先に、静かに。
碧は頷いた。
「一方のカップに毒。もう一方のカップに、毒を中和する何かが入っている。二つを混ぜれば、どちらも飲める。最初のゲームと、逆の構造です」
麗香の目が、細くなった。
「……最初のゲームでは、五つの中の一つを避ければ助かった。このゲームでは、二つを合わせることで助かる」
「はい」碧は言った。「マスターはずっと、同じことをしていた。答えは目の前に置かれている。でも誰もが、マスターの用意した問いの形でしか考えられなかった」
麗香はしばらく、カップを見ていた。
その目が、ゆっくりと碧に向いた。
「……わたくし、気づかなかった」麗香は言った。その声に、これまでなかった響きがあった。「今夜のゲームを通じて、ずっと死ぬことを前提にしていた。勝者が生き残り、敗者が死ぬ。その構造を疑わなかった。わたくしはこのゲームに出資した側なのに、マスターの設計した前提を、一度も疑わなかった」
「私も、今さっきまで気づかなかった」碧は言った。
「何が気づかせましたの」
「なぜ二つあるのか、という疑問です。それだけです。答えは最初から、目の前に置かれていた」
麗香は目を伏せた。
「……佐藤さんも」麗香は静かに言った。「ミカさんも」
「答えは最初から、目の前にあった」
取り返しがつかない、という事実が、二人の間に静かに横たわっていた。
碧は麗香を見た。
「ただのコーヒーだったら、二人とも死にますよ」
碧は静かに言った。
麗香が碧を見た。
「はい」
即座に、迷いのない声だった。
「なので」碧は言った。「もう二度と、こんなゲームはしないって約束してください」
麗香は少しの間、碧を見た。
それから、今夜初めて、声を出して笑った。扇子のない口元で、計算のない笑いだった。
「……あなたという人は」
麗香は首を振った。笑いが収まると、その目に静かな光が戻った。
「約束しますわ」
碧は一方のカップを取った。麗香が残りのカップを取った。二人は互いのカップを傾け、一つの白磁のカップの中で、二つのコーヒーが合わさった。
黒い液体が、静かに混ざり合った。
碧はそれを二つに分けた。一方を麗香に渡した。
「……本当にただのコーヒーだったら、笑えませんよ」
「笑えますわ。あなたと一緒なら」
麗香が先に口をつけた。碧もそれに続いた。
コーヒーの苦みが、喉を通った。
その瞬間、碧の体に、猛烈な眠気が押し寄せた。
まともに立っていられなかった。体が椅子に沈んでいく。
(毒じゃない。これは……眠り薬)
思考が、霞の中に溶けていく。
麗香の顔が、遠くなっていく。麗香は碧を見ていた。その目は静かだった。穏やかだった。今夜一度も見せなかった、素直な顔だった。
碧は声を出そうとした。しかし言葉は出なかった。
意識が、ゆっくりと落ちていった。




