1.ヒースコール邸へ
その後、ソフィアは発作を起こすこともなく、退院して日常生活に戻ることになった。
「ソフィアさん? 着替え終わったかな?」
「はい、お待たせしました」
カラスマ中佐は病室に入ってきて、ソフィアの姿を見るなりパッと明るい笑顔を見せた。
「お、丁度よさそうだね。これで街を歩いても大丈夫そうかな?」
「はい。わざわざ用意していただいて、ありがとうございます」
舞踏会からすぐに病院に運ばれていたソフィアには、退院の時に着る服がなかった。
それでは困るだろう、とカラスマ中佐は新しい衣服を持ってきてくれたのだ。
何着か用意してもらったものの中からソフィアが選んだのは、質素なフリルスカートと、これまた質素なブラウスだった。
「この服はカラスマ中佐が選んでくださったのですか?」
「まっさかあ。イオリにそんなセンスがあるわけねーだろぉ、けらけらけ」
「うるさいな、お前は。……センスがないのは事実だけど」
カラスマ中佐は口を尖らせ、けらけら笑っている傍らのヌイを軽く睨む。
「医療部隊の同僚に選んでもらったんだ。こういうのって、男の感性で選ぶとろくなことがないからさ」
「つまんねえなあ。ろくでもない服選んできたら面白くなったのによ。こいつ、冷静に最適解を選びやがった」
「なにが『つまんねえ』だよ。お前は僕をどうしたいんだ」
「けけけのけ。んじゃあ、一応フォローしてやるよ。その日傘、イオリが選んだんだぜ。日差しを遮る魔術を施した、職人の一点モノだってよ」
「これですか?」
ソフィアは渡された日傘を開いてみる。
ほんのりと魔力の気配を感じる麻の生地――そこへ重ねられた白いレースには、粗雑な量産品にはない、職人の繊細な仕事ぶりが伺える。
内側から覗けば、細かなレースの影が生地に映って見えて、実に美しい。
自分の中の乙女心が久しぶりにときめいているのを、ソフィアは感じた。
「ソフィアさん、昼の日差しが眩しいって言ってたから、こういうのがあれば便利かなって思って」
「覚えていてくださったんですね……」
魔蝕症の中でも吸血型のソフィアは、昼の太陽の光が少し苦手だ。
入院中に何気なくこぼしたことだったのに、とソフィアは彼の気遣いに感動を覚えた。
「何から何までありがとうございます、カラスマ中佐」
「ああ、イオリでいいよ。階級もつけなくていい。僕も君のことはソフィって呼ぶから」
しがない平民の自分が軍属を呼び捨てにするなんて、果たして世間が許すだろうか。
けれど、彼自身がそう望んでいるのなら、なるべく応えるべきだろう。
男性をファーストネームで呼んだことのないソフィアとしては、いささか勇気のいることだったが、それでも意を決して、えいやっと口にした。
「い、イオリ…………さん」
「ぷ、ははっ! 呼び捨ては厳しそうだね?」
たっぷり間を開けてから、小さく『さん』を付け足すと、彼は可笑しそうに笑い出した。
上手く希望に沿えず、「す、すみません……」と萎縮するソフィア。
「呼びやすい範囲でいいよ。じゃあ、そろそろ出ようか。ヌイ、影に戻って」
「へぇい」
カラスマ中佐――もとい、イオリは、特に気にした様子もなく、黒いジャケットを羽織って歩き出した。
その足元の影に、ヌイがするっと潜り込む。
(こんなに優しい人が、どうして『死神』なんて怖がられているんだろう)
苛烈な戦いぶりと、浮世離れした白黒の見た目は、確かに死神を彷彿とさせるかもしれない。
けれど、彼が悪逆非道の術者だなんて、ソフィアには到底信じられなかった。
*
ソフィアを運ぶ自動車は、コトコトと小刻みに揺れていた。
馬車のような快適な乗り心地と、蒸気自動車のような自走性を併せ持つ画期的な乗り物に、ソフィアはしきりに感心していた。
「すごい……! 軍人さんって、魔力自動車まで動かせるんですね!」
幼い頃に何度か乗った、蒸気で動く車の乗り心地は、筆舌に尽くしがたいほど酷かった。
蒸気の耐えがたい臭いと、整備されていない悪路を走るような揺れを体感する度に、「自動車になんか二度と乗るものか」と思っていたくらいだ。
けれど、魔力を動力源とするこの自動車は、それらの不快な要素が一切ない。
「軍から借りたものだけどね。こんな高級品、王家か公爵家でもなければ所有できないよ」
王都全体では、まだまだ蒸気機関車が主流だ。
魔力を動力源とする機械は、使っている素材が貴重な鉱物だったりする関係で、軒並み高い。
なので、こういった魔力自動車は、雲の上の人々だけに許された特別な乗り物といえる。
こんなものに乗れる日が来るなんて、と感動していたソフィアだが、傍らのイオリがくすくす笑っているのに気づくと、ハッと口元を隠した。
「あ……すみません。思わずはしゃいでしまって」
「全然。ソフィが楽しそうでなによりだよ」
これでは没落貴族どころか貧乏人のようだ。
みっともないところを見せてしまった、とソフィアは小さくなった。
「家に帰る前に、ヒースコール邸に寄ろうと思うんだけど、なにか持ってきたい私物はある? 差し支えなければ、僕が代わりに回収してくるけど」
王都の郊外にやってきたところで、イオリが言う。
「……父と母の形見の品を。ただ、あれは分かりにくい場所に隠してあるので、私が直接行かないと」
メイド以下の扱いを受けていたソフィアの私物など、ろくなものがない。
けれど、二人の形見だけは絶対に持ち出さなければ、リリアーネや夫人が何かしでかしそうで恐ろしい。
もし、両親の遺品を踏みにじられるような真似をされたらと思うと、ソフィアはいてもたってもいられなかった。
「家には誰がいそうかわかる?」
「使用人を除けば、旦那様と奥様だけかと。お嬢様は魔法学校に通われているはずです」
使用人のほうからソフィアに何かをすることはないだろう。
男爵夫妻さえいなければ、ソフィアが一人でこっそり回収してくることは可能なはずだ。
「了解。じゃあ、僕は男爵夫妻と話をしているから、その隙に行っておいで」
「ありがとうございます」
ヒースコール邸に着き、先に車を降りたイオリが、男爵夫妻のいる応接間に向かう。
その様子を窓から確認してから、ソフィアは人の少ない裏手へ回った。
途中、屋敷のメイドと何度かすれ違うが、言葉を交わしているいとまはない。
(元の場所にちゃんとあればいいのだけど……)
もし、先に誰かに見つかっていたらどうしよう。
他のメイドがもし、掃除をした時などに見つけていたら……と一抹の不安を感じつつ、ソフィアは屋根裏部屋に急ぐ。
階段を上り、ベッドがそのまま放置された屋根裏部屋に入り、祈る気持ちで床板の一部を外す。
その裏に貼り付けた封筒を剥がし、中身を確認して、ソフィアはようやく安堵した。
(よかった……気づかれてなかった)
封筒の中から出てきたのは、少し白濁した、緑色の魔石の指輪――それと、古びた手帳。
傷ついたソフィアの心を支えてきた、父と母が生きていた証明だ。
それらの品々を封筒に戻すと、ソフィアは急いで階段を駆け下りた。
早く外の車に戻らなければ、と息を弾ませながら一階までにやってきたところで、
「あっ……」
とソフィアは固まった。
視界の先、屋敷の裏手へと続く扉の前に……白い猫を抱えた少女の人影がある。
「そんなに急いでどこへ行くの?」
可愛らしい少女の声が、ソフィアの胸をぐさりと突き刺す。
ソフィアの進路を塞ぐようにして、彼女はそこに立っていた。
「お、嬢様……今日は、学校に行かれていたはずじゃ……」
「おあいにく様、今日は休校日なの」
可憐な顔に邪悪な笑みを浮かべて、リリアーネがソフィアに近づいてくる。
けれど、ソフィアは動けなかった――足が震えて、まったく動かなかった。