88.王の品格
88.王の品格
メリーが靴を鳴らすと、地面が生まれた。粘土によって生まれた、メリーの空間だ。
花音はその上に乗っていた。間一髪の所だったらしい。しかし、命がただ一秒伸びただけだ――百夏の攻撃は既に始まっていた。
混沌の海から生まれる、七本指の手、肥大化した頭、内蔵の触手がうごめいては結合と分裂を繰り返している。
「―――――――ひっ――――――」
花音が慄いている間にも、銃弾は百夏を撃ちぬいていた。しかし、一向に効果は無い。
「どう……? 私の、アブホースの変幻世界は? 気に入っていただけたかしら?」
「――面白く無いわ。知っていて? あまりにも真に迫った怪物の言われる、その名前を?」
「―――言ってごらんなさい」
「B級ホラー」
「――賞賛と受け取りましょう。それでは、あなたのはC級ということね?」
「いいえ――最も美しい――A級……!」
「はは……愚かしい……!」
二人の嗤い声だけが、暗闇を伝っていく。それを割る、花音の言葉。
「――あなたに聞きたいことがあります――答えなさい」
百夏の声が途絶え、変わりに鬼を思わせる怒気が辺りを包みこむ。
「何かしら……くだらない事を聞いたら、分かって?」
「いいえ、くだらないことではないわ……とても、重要なこと。あなたが私に聞いたことを、私が聞きたいのです―――何故、『暗黒のアブホース』に取り込まれることを選んだのですか? 神を信じていたあなたならば、邪神などに仕えることを考えず、死を選んだはずです……それは、あなた自身に反することではないのですか?」
女の顔は、よくぞ聞いたと言わんばかりだ。その眼光はまっすぐ花音を射抜いた。
「――そう、私は神を信じていた……あの頃は、非常に幸せだった……そう。すでに過去の出来事に過ぎないのですよ。この世界に今、どのくらいの信者が居るでしょうか? 恐らく、だれもがこの暗黒の世界に心落ち着くことができず、明日の幸せよりも明日の食い扶持に悩む、辛辣な世界。そこのどこに、神が居るのでしょうか?
いいえ、居ないのですよ。どこにも、誰のもとにも、神は訪れないのです。
――しかし、私の元には舞い降りた……気高く美しい『暗黒のアブホース』。その神が。
私は神託を得て―――日本では、神! そのものなのです」
闇の中で反芻を続ける汚泥が、百夏の背後で広がっていく。密度を増す邪悪な気配に、周りの空気が重くなっていく。すでに生身の人間であれば、この腐臭のただなかでは原型を保つことができない。かろうじて人間の姿のままであるのは、体の中に眠る怪物の力によるものだ。しかし、主神を前にして、いつまで半怪物の肉体が持つだろうか?
花音が反撃に口を開こうとするが、密集した瘴気に当てられ、立ち眩みを起こしていた。
「私はこの力を持って、世界の王へと君臨するのです――それは、我が主アブホースの願いでもあり、私の願いでもある……この混沌の世界。全てを統べる、主が必要なのです」
「主なら居るじゃない。『暗黒のアブホース』。あなたの主神は『原初の―――』」
「そう。主なら居るのです―――邪魔な、主神が」
メリーが眉根を寄せる。百夏の陶酔は、絶頂を迎えた。
「私達が成し得ること――それは! 世界を我が物にするため――『原初のアザトース』を穿つ! ……その一つだけなのです!」
百夏の言葉に、周りの暗黒が唸りを上げる。深淵まで届く怨嗟の声は、高らかに、それこそ天蓋で待つ『原初のアザトース』まで聞こえんばかりだった。
「――くだらない……兄弟喧嘩も、規格を間違えると、滑稽だわ」
「滑稽? いいえ可能なのですよ! 『揺籃の姉妹』よ! あなたのその力があれば! 分かりませんか? あなたの『揺籃』そして付き人の『天界』。その二つの持つ強大な力!
今や、貴方達はクロノスに閉じ込められた残念な兄弟であり、姉妹なのです! ならば、私が貴方達を親から救うゼウスとなって差し上げましょう」
彼女が手を伸ばす。
「さあ、手を取りなさい。そして共に『原初のアザトース』を討つのです」




