第13話 皿と心の重さ
憎しみよりも、誰に好かれているか――その問いが色兵衛を変えた。
長屋の薄暗い夕暮れ、庄屋の丹波色兵衛が柿崎源之助の住まいへとやってきた。
戸口に立つその姿は、人なのかと見返すほどに、闇が濃く滲み、景色さえも淀んで見えた。
色兵衛の目は、鋭くもどこか空虚で、源之助の家族をじろりと見据えた。
「源之助、月々の弁済金、1貫だ。さあ、持ってこい。」
その声は低く、まるで井戸の底から響くようだった。
源之助は膝をつき、頭を下げた。
「色兵衛さん、申し訳ねえ。この月は雨が多くて、駕籠かきの仕事が思うようにできなかったんだ。
どうか、もう少し待ってくれねえか。」
その懇願は、隣の部屋に住むお徳の耳にも届いた。
お徳は、釜の火をかきながら、独り言のように呟いた。
「色兵衛も、今ではあんなだが、あたしが病になった時なんざ、四つ辻の道祖神に毎日手を合わせてくれる子だったよ。
あたしゃ、あの子の乳母だったから、よう知っとる。あの子の父親が、どこぞの藩と悪巧みをして、家が傾いた。一家離散だよ。
それを元に戻そうと頑張ったのが色兵衛さ。でも、元通りにはならんかった。その頃から、あの子の心に悪いモノが住み着いた。
幸せな夫婦を見ると壊したくなる衝動に支配されて、ああして家庭を壊すことを繰り返してるんだ。だから、はなから3両なんて
金は無意味なんだよ」
新左衛門は、お徳の言葉を聞きながら、懐に握りしめた3両の重さを感じていた。
伊庭道場で手に入れた武術交流試合の賞金だ。
源之助の窮地を救うため、隣の部屋へ向かおうと立ち上がったその時、源之助の声が再び響いた。
「色兵衛さん、頼むよ。子供の太助も、お光も、俺には宝なんだ。どうか…」
新左衛門は我慢できず、戸を叩くように開け、源之助と色兵衛の間に割って入った。
手に持った3両を色兵衛に突き出すと、
「これでどうだ、庄屋さん。源之助さんの借りを返す足しにしてくれ。」
源之助が目を丸くして叫んだ。
「新左衛門さん、そりゃいけねえ!そんな金、どこで…!引っ込めてくれ!」
新左衛門は静かに首を振った。
「源之助さん、そもそも私の早とちりで斬っちまったのが、全部の始まりだ。
江戸に来て、お前さんたちと出会えたことが、私の今を作ってくれた。この3両は、私のケジメだと思ってくれ。」
色兵衛は、3両を手に取るでもなく、冷たく笑った。
「ケジメだと?ふん、そもそもあの絵皿は30両の値打ちだ。欠けた分で3両と言ったまでで、残り27両が足りねえな。」
源之助が声を荒げた。
「そりゃおかしいだろ!その証文、見せてみろ!」
色兵衛は懐から証文を取り出し、薄笑いを浮かべながら広げて見せた。
そこには確かに、月に1貫の弁済、遅れればお光を奉公に出すという理不尽な条件が記されている。
新左衛門は再び二人の間に踏み込み、色兵衛をじっと見据えた。
そして静かに口を開いた。
「庄屋さん、私はね、藩主の毒味役の家に生まれた人間だ。会津の遠山様って御仁をご存じか?
まぁ、あなた以上に悪いお人だったよ。あの方を心から好いてた人など、居なかったのではないかなぁ。
とにかく、毒味をすると、毎度何かしらの毒が入ってる。
最初は役目だから、どんな小さな毒も見逃さず、事細かに報告してた。
けれど、その都度、誰かが処分される。料理人も、給仕も、時には無関係な者までさ。
それが嫌で、私は考えを変えた。何膳も食事を作らせて、毒の入っていないものだけを組み合わせて、
藩主に出すようにしたんだ。あの遠山様、今も生きていらっしゃるのか。」
新左衛門は一息つき、色兵衛の目を見つめた。
「庄屋さんはどうだ?どれだけの人に好かれてる?そして、どれだけの人に憎まれてる?
人の女房を欲しがったり、金に執着したりするより、私は大切なものがあると言っているのだよ。
国元に藤川義高って奴がいてね、こう見えて私は敵も多いのだが、あいつは私に『生きろ』って言ってくれた。
それが嬉しくて、ついここまで逃げてしまった。今は、静かに追っ手が来るのを待ってる。
そして、潔く斬られるつもりだ。あいつとは、尻を並べて野ぐそしたこともある。
そんな友がお前さんにはいるかね?もう一度聞く。
お前さんを好いてくれてる人間は、どれだけいるんだ?それが、私の思う宝だ。」
色兵衛は新左衛門の言葉を聞き終えると、黙ってしまった。
その目は、お徳の方へと向いた。
長屋の薄暗い灯りの下で、お徳の顔には、かつての乳母としての優しさと、色兵衛への複雑な思いが混じる。
色兵衛は無言のまま踵を返し、長屋を後にした。
だが、半刻ほど経つと、再び戻ってきた。その手には、あの絵皿が握られていた。
長屋の住人たちが息を呑む中、色兵衛は皿を地面に叩きつけ、粉々に砕いた。
そして、懐から証文を取り出し、皆の前で引き裂いた。
「源之助、すまなかった。」色兵衛の声は震えていた。
「こんな俺だが、許してくれるか。」
源之助は呆然としていたが、すぐに破れた皿の破片を拾い集め始めた。
「何も皿まで割ることねえのに…。この破片、売ったら幾らになるかな?」
その言葉に、長屋の住人たちはどっと笑い声を上げた。
お光が太助を抱きしめ、お徳は静かに目を細めた。
新左衛門は、笑い声の中で、ふと四つ辻の道祖神を思い出した。
あの苔むした石に、色兵衛の幼い日の姿が重なる。
人は変わる。だが、変わらぬ何かを取り戻すこともできるのかもしれない。
その夜、長屋の喧騒が静まる頃、新左衛門は懐に残る藤川義高の紙をそっと握りしめた。
義高の声が、耳の奥で響く。「生きろ、新左衛門。」
だが、遠くで馬の蹄の音が聞こえた気がした。
黒崎左京か、あるいは別の追っ手か。
新左衛門は箸を握り直し、夜の闇を見据えた。長屋の灯りが背後で揺れ、試練の足音は近づいていた。
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