小さな羽音
あの夜、奈緒美は妙に静かだった。
晩ご飯の準備もせず、窓の外をずっと見ていた。
「どうした?光が寝たぞ。何かあったのか?」
直哉の声にも、彼女はすぐには反応しなかった。やがて、小さな声でつぶやいた。
「今日…知らない男が来たの。政府のバッジを持ってた。」
直哉の背中に冷たいものが走った。
「なんて言われた?」
「『余計なことを調べるな』って。それだけ。」
奈緒美は笑って見せたが、その目は震えていた。
「何を調べたんだ?奈緒美、何を見たんだ?」
彼女は言葉を飲み込んだ。だが、ほんの少しだけ、核心に触れかけた。
「光の出生記録。…あれ、おかしいのよ。病院の登録が、抜け落ちてる。あたしたちの子なのに…何かが違うの。」
直哉の喉が鳴った。だが、彼は何も言えなかった。
本能的に「それ以上は聞くな」と警鐘が鳴っていた。
「政府の人間は…それを知られたくなかったのね。だから来たんだわ。」
奈緒美は、何かを悟ったように、ただ一点を見つめていた。
「ねえ直哉。あの子、本当に私たちの子なの?」
その問いは、彼の中に沈んでいた疑念を突き刺すようだった。
だが、直哉はただ「そんなわけない」と答えるしかなかった。そう言わなければ、すべてが崩れてしまう気がしたのだ。
その日の夜、奈緒美は急に笑顔を作って直哉に近づいてきた。
まるで、何かを決意した人間のように。
「ねえ、これ。あなたに渡しておきたいの。」
手にしていたのは、彼女がずっと使っていた古い裁縫箱だった。木製で、角にひびが入っている。
「どうしたんだ?急に」
直哉がそう尋ねると、奈緒美は少しだけ目を伏せて、それから微笑んだ。
「光の服、ボタン取れたりしたときにさ。あたしがいなくても、あなたが縫えるように。」
「…縫えないよ、俺は。」
「なら、練習して。父親なんだから」
そう言って、彼女は箱を直哉の胸に押しつけた。いつもより力強くて、少しだけ手が震えていた。
直哉はそのとき、それが“別れ”のように感じた。でも気づかないふりをした。
奈緒美の微笑みが、あまりに綺麗で、壊れそうで――怖かったから。
「大丈夫。私がいなくても、あなたはちゃんと、あの子を守れる人だから。」
その言葉だけが、なぜか耳に残った。
まだまだ頑張りマンモス