第九話 瓜姫 七
瓜姫から教わった岳雲寺は文字どおり、雲のかかる山の高みにあった。山の奥の奥に建つ古びた小寺まで、冴は一睡もせずに駆けた。三日三晩の道のりだった。
果てのかすむ石段をのぼる。山の頂を離れた朝の陽が、正面から冴を照らす。石の段に、長い影が折れた。
山門の手前で冴の足が止まった。本堂へと続く石畳の中央に人がいる。背が高い。薙刀を両手で持ち、刃を地に擦らすほどに下げている。ゆるい風に僧衣の裾や袖がゆれる。屋根のきつく曲がった本堂を背に、白い頭巾を巻いた女が立っている。静かで清らかな、一幅の絵のような光景だった。
冴はまなじりが裂けるほどに目を開き、かすかにふるえている。見間違えるわけもない。
「か……」
常ならば、硬く引き締められている唇が、ひと声もらしたきり力を失う。十文字槍が指を離れ、石畳の上でからりと乾いた音をたてた。
冴の左足が、弱く前に出る。歩く時も、弓を引く時も、槍で敵の胸を貫く時も、一度として芯を外したことのない体の軸が、左へと傾いた。
「母様」
求めるように腕を上げるも、腰のあたりで止まる。足を引き摺り前に出る。一歩、二歩。次はなかった。よろめき、両の膝を深く折る。地についた左の掌が、かろうじて体を支えていた。
「さえ」
薙刀を投げ捨て、母が駆け寄る。娘が倒れてしまわぬよう、抱きしめる。香の匂いを存分に含んだ僧衣に、冴はくるまれた。
「母様。母様」
泣いた。冴が泣いた。
「なにやら、途方もないものが近づいてくると思ったら」
眉、目、頬、口。すべてに穏やかな笑みをうかべ、母は指で娘の涙を拭う。
「さえ、子供みたいに泣かんで」
「生きておられた」
「龍に戻り、もうもうと上がる煙にまぎれて逃げたのだ。さえ、ごめんね。知らせにも行かんで」
「おりう。なんだそいつは」
薙刀や棒を持った女たちが、りうの後ろで人による垣根を作っていた。
「私の娘。さえ」
「はあ、おりうに子がおったのか」「おりうよりも大きいかね」「なんとまあ、そっくりだこと」
女たちが口々に言う。
「私はこんな顔になってしまったのに、似ているか」
りうが頭巾を剥ぐ。目じり、口元に皺はなく若々しい。切れ長の目は涼やかだ。しかし、燃える炎そのままを張り付けたような赤い痣が、顔の右半分を埋めていた。眉がない。髪は剃り落としたのではなく、生えてこないのだ。
「淵でずっとずっと眠り、目が覚めた時には火傷が癒えていた。治りきらんところもあったが、龍神とはしぶといの。あれだけ火にやられても、死なない」
冴がりうの痣を指先で撫でた。その手を、母はそっと包む。
「ここで駆け込み寺をやっておる。この世の難から逃れたい女や子供と一緒に暮らしているのだ。文句を言いに来た男は、私の面相を見たらたいがい帰っていきよる。たまに荒事になるが」
りうは居並ぶ女たちに目配せをし、手を伸ばした。ひとりが薙刀を持って早足で寄る。
「女房を連れ出そうとする男には、刃を振るっている」
「本当に斬るの」
冴の口調は、まるで子供だった。
「まさか。私はそこまで、心が強くない。髷を切り飛ばしたり、得物を打ち落とすくらいだ。それで怯えて逃げてくれるので、血を見ずに済んでおる。さあ、辛気臭い話はここまでだ」
りうは立ち、石突を地で鳴らす。剥き出しの刃が陽光をはじいた。
「さえ。昔のように稽古をせんか」
寺で寝起きする女、りうが面倒をみている子らが、二人を遠巻きに囲む。
「さえの槍を持ってきておくれ」
りうの声に女が三人、素直に動く。子供が五人、あとを追った。
「ほお、こんな槍、初めて見る」「十字になった刃とは珍しい」「よく使いこんである」
一本の槍を女三人が運ぶ。子供は指先で柄に触れては歓声をあげている。膝をついて動かない冴へ、そっと差し出された。
「あのころは、まだ私のほうが速くて強かった。今はどうかの」
りうは笑っている。笑顔は赤い痣に埋められていても、冴には昔のままに見えた。夢中で母に棒切れを打ちこんだ子供のころを思い出す。
「ほら、いくよ」
感傷にひたる間もなく、薙刀が閃いた。まだ立ちもしない娘の首を、母は薙ごうとする。大刃がひょうと高く鳴く。
膝を地から離し、冴は滑らかに下がる。すかさず腕をあやつる。りうが首を曲げ、穂に空を突かせた。横に張り出した刃のぶんも、ぬかりなくかわしている。申し合わせたように、二人の動きは拍子が合っていた。
りうがにこりと笑う。冴もまた、笑っている。
腰をかがめ、薙刀を頭上に素通りさせる。母の刃を追うように槍を突く。りうは柄をまわし、娘の繰り出す穂をはじいた。途切れのない攻防が続く。両者が攻め、受け、かわし、そして守るのと同時に攻撃へと転じる。
触れれば切れる刃を、神速で薙ぎ、突く。ただ、見る者の胆が縮むことはない。縦、横、斜め。人の目には、閃きが映るだけ。くるりくるりと親子はまわる。銀の花を交換し合う母と娘。気脈の通じ合った者同士でしか成り立たぬ、刃の舞いだった。
かつんと乾いた音をたて、脛を狙った薙刀と槍の柄が交わる。二人は同じ形で止まった。
左手は柄を握り、右の腕は天をさす。たたんだ左の膝が高く上がり、足首は伸びている。袴に通した脛と、足袋でくるんだつま先が真っ直ぐな線を描いていた。
高い背。長い手足。細くしなやかな胴。衣服の違いはあれど、二人の姿はまるで鏡に写ったかのようだ。
区切りがつき、双方が同時に一歩引く。親子での舞いは終わりを告げた。
「さえ、強くなったね。もう私じゃ、どうにもならん」
冴は目を伏せ、小さく頷く。傍目にはまったくの互角に見えた二人の仕合は、この母娘にしかわからぬ優劣があった。
「二度貫かれ、腹を一度裂かれたね」
これにも冴は首を縦にふる。子供のころは力を加減してもらっての稽古だったが、今では冴が打ちに手心を加えねばならないのだった。
「龍神そのものの私より、人の血の入ったさえのほうが強い。どれほどの試練があったのか。どれほどに修錬を積んだのか。想像もできん」
「人に、教えを乞うて」
「そう。良かった。人に頼ることができたのね」
うん。幼子のように、こくんと短い垂れ髪が上下する。人の肌を粟立たせる殺気も威圧も、きれいに失せていた。
朝は女たちと飯を炊く。昼は里で売るための薬草を摘む。夜は子供たちを寝かしつける。冴はすぐ、寺での暮らしに馴染んだ。りうと同じ白と黒の僧衣をまとい、寺の内外でたち働く。母と顔をあわせるたびに笑みを交わした。
五度ほど、男と対峙した。手にした薙刀は、一度としてふったことがない。冴が切れ長の目を光らせるだけで、男は退散するのだ。
草叢で鳴く虫が消え、山の木々は葉のない枝を空へと伸ばす。冴が井戸水で小さな背中を拭けば、子は「冷たいよお」と笑いながら身をよじる。雪合戦では子供たちの的になる。するりするりと雪玉をかわす。幾つかはわざと当たる。その都度、境内は笑い声でいっぱいになった。冴も笑っている。
冷えて締まった空気にほぐれを覚える日も増え、ふきのとうや気の早いたらの芽が夕餉にならぶ。
澄んだ星空をひとりで眺めた翌日、冴は十文字槍を手にした。背に掛かった髪を断ち、腕、脚、胴を褪せた緑と土色の生地で覆った。
察していたのだろう。山門のわきに背の高い影がある。空が白み始めている。
りうはとめない。何故行くのだ。どこに行くのか。とも問わない。
「辛いお役目、ご苦労様」
「たまに寄ってもよいか」
母は目元をゆるめ、ゆっくりと顎を引く。
「では」
丁寧に頭をさげ、山門をくぐる。滑るように足を運び、石段をおりる。陽が昇る。山の頂を越えた朝の陽が、冴を照らす。明け方の風が、短い垂れ髪を割った。白いうなじにも陽は注ぐ。石段に伸びる影を追い、冴は進む。背中が縦にも横にもゆれない。




