第一話 化け物退治 壱
半月の弱い光を頼りに、与助は山を駆け下りた。汗が沁み、目が痛む。止まれば、握り潰される。指を広げた、巨大な掌の気配は消えない。
「里まで、あと暫く」
与助は、背に縛り付けた伝一へと声を張った。兜や胴、篭手、臑当。具足同士のぶつかり合う、落ち着きのない音だけが返ってきた。足を踏み出すたびに、伝一の頭が振り子のように大きくゆれる。兜を飾る前立が与助の首を打つ。
力を籠めて繰り出した伝一の槍は、たしかに大狒狒の腹を突いた。しかし、そこまでだった。おう、と放った気合いを、頭の芯まで響く硬く高い音がかき消した。槍は大狒狒の体を刺し通すことなく、腹の肉にはじき返されたのだ。
そこから先は一瞬だった。大狒々は、槍を両手で掴み、柄にしがみついた伝一を持ち上げたあげく、餅をつくかのように振り下ろした。身の丈が、人の倍を超える化け物だ。伝一の肥え太った体は、低く茂った夏草の上ではずんだ。兜がなければ、頭の骨は砕けただろう。伝一は白目を剥き、微動だにしない。口元に盛り上がった泡は、生みたてのかまきりの卵に似ていた。
十人の供の者たちが矢を放つのを横目に、与助は伝一を引き摺り、大狒狒から距離をとった。素早く背に乗せ、縄で固定する。駆け出して十歩も進まぬうちに、供の者の悲鳴を聞いた。
領主の屋敷にたどり着いても、与助の耳には、大狒狒の咆哮と続けざまにあがった命の底を打つ叫びが、こびりついていた。
与助は、山に寄り添うように建つ自らの小屋へと戻った。
「伝一様の無茶には、開いた口がふさがらねえ」
妻のおゆう相手に、力なく呟く。二人に子はない。ともに暮らし始めてまだ日の浅い夫婦だった。
大人ひとりを背に負い、山道を駆け通したのだ。如何に山で鍛えた若い木こりといえども、与助の体が痛むのは当然だった。親指で、太い腿を押している。
「そのようにおっしゃらなくても。伝一様は、村のためにひと肌抜いでくださったのではありませんか」
おゆうの眉がかすかに寄る。額に浅く皺の走った顔も美しい。
「いいや違う。あの人は村のことなんて考えていない」
「まさか。領主様の跡取りですよ」
「おれは道案内の時に、伝一様から直接聞いた。大狒狒を退治して、大名の大殿様に名前を売るのだと。目をかけてもらい出世するのだと」
ひとつ言葉を切り、頬が膨らむほどに強く息を吐いた。
「仮に大狒狒を成敗できなくても、勇ましく戦ったとふれてまわれ、と命じられた」
「わたしはてっきり、年に一度、村の娘が生け贄になるのを終わりにしてくれるのかと」
「まるっきり心掛けが違ったわけだ。やられてしまうのも無理はない。いや、心底、村のためだと槍を振るっても、大狒々は人の力で倒せない。おれは実際に見たからわかる」
おゆうの肩が、深く前にのめった。
「生け贄を捧げる山の祀り場で待っていたんだ。酒樽をあけてな。すぐに木の葉がざわざわと鳴って、鹿の腹を裂いた時よりも、もっと血なまぐさいにおいが鼻をついた」
「大狒狒ですか」
「ああ、ものすごい大きさだった。太さも熊どころじゃない。二本足で立って、がに股で歩くのは人にそっくりだが、体中が真っ黒な毛に包まれていた。月明かりを映した目が赤く光って、ふしゅるるるる……、と唾のまじった息を吐く。これがくさくて」
「逃げればよかったのではないですか」
「おれもそう思う。だがな、大狒狒の言葉を聞いて、伝一様は頭に血がのぼったんだ」
「喋るのですか、大狒狒は」
「聞き取りにくかったが、たしかに人の言葉だった。失せろ虫けら、と」
伝一が目を覚ましたと与助の小屋に使いが来たのは、大狒狒に蹴散らされてから三日後だった。
すぐに顔を出すよう命じられ、与助はその場で使いの者と小屋をあとにした。おゆうは夫の背中が道の果てに消えるまで板戸の前で見送り、……さらわれた。
屋敷の庭で頭を地面にこすりつけ、与助は領主である庄兵衛を待った。土のしめりけを存分に鼻の奥に収めたころ、障子の開く音を聞いた。
「山から生きて帰った供の者は、お前だけだ」
全滅……。山道を怯えながら登った若者たちの顔を思い出し、与助の胸は痛んだが、続く庄兵衛の言葉に耳を疑った。
「死んでくれてよかった。伝一の失態を知る者がおってはの。お前も……」
けっ。一段高いところから、強く息を吐く音が与助の鼓膜に届く。
「与助とやら。伝一のこと、誰にも喋ってはおらぬの」
妻に伝えたと口にするのは危険だと感じ、「はい」と偽りを返した。
「決して口外するな。ひと言でも漏らせば、殺す」
なんと勝手な。鼻息が熱くなるが、与助は額を土にめりこませる。
「おい、連れてこい」
庄兵衛が奥の間に荒れた声を投げた。幾人かの床を踏む音が近づき、ひれ伏した与助の前で止まる。
「顔を上げろ」
浅く頭を起こした与助の視界の隅に、見慣れた着物の裾が映った。
どうして。疑問が与助の背を起こす。
やはりそうだった。妻が縄を打たれ、男二人にはさまれ立っている。
「おゆう」
「お前の案内した場所が悪かったせいで、伝一は大狒狒を仕損じた。祀り場なら、わざわざお前を供に加える必要などなかったのだ。失態の責任を取ってもらう」
「そんな無体な」
伝一以上に肉を巻きつけた腹を突き出し、庄兵衛は顔をゆがめた。
「儂が道理に合わぬと言うのか。たわけ。今すぐ、夫婦揃って土に埋めてやろうか」
庄兵衛の横車で、命を落とした者が両手ではとても足りぬことを、村の者なら皆が知っていた。与助はすぐさま地面に額を押し付け、「お許しください」と叫ぶように言った。
「ならば冴をさがし出せ」
与助には、庄兵衛の命令に従うよりほか道がない。となると、問題が生じる。
「庄兵衛様。さえ、とはなんですか」
「用心棒だ。金さえ積めば、どんな厄介な仕事でも片づけると聞いた。大狒狒を始末させる」
「名前からすると、さえは女なのですか」
「知らん。ああいった稼業では符丁のような名を使う者も多いからの。弓が得意らしい」
「どこにいるのですか」
「それがわかれば苦労はせん。もうなにも訊くな。とにかく、五日後の日の入りまでに連れてこい。しくじれば、どうなるかわかっておるの」
与助は村へと駆け戻り、手当たりしだいに尋ねた。だが、首は横に動くばかり。木こり仲間や炭焼き小屋、窯元の男にも話を持ち掛けたが、実のある返事はなかった。
朽ち掛けた山寺で、棒になった足を休める。老いた住職は、親切にも水を一杯出してくれた。
「ありがとうございます。ところで和尚様、冴という名を聞いたことはありませんか」
今日でいったい、何度この問い掛けをしただろうか。
「いやあ、知らんのお」
この答えも、何度浴びただろうか。与助は目を閉じ、背中を丸めた。重い息がこぼれる。
「その、さえとやらは、なにをしておる者なのだ」
「用心棒だとか。弓を使うそうです」




