第24話 テウマ峠の贅沢な悩みと、一途なサウナーの記憶
赤土の旧都マ・カレシュを離れ、俺たちは南の砂漠へと続く唯一の難所――標高四千メートル級の峰々が連なるテウマ峠へと足を踏み入れていた。
麓の熱気が嘘のように、峠道は切り裂くような極寒の風が吹き荒れている。
岩肌が露出した峻険な斜面を登りきると、そこに、山の傾斜にへばりつくようにして身を寄せ合う石造りの集落が姿を現した。
「さ、寒いわね……。同じ国とは思えないくらい空気が冷たいわ……」
レイラが褐色の肌をぶるぶると震わせ、厚手のマントに身を包みながら呟く。
「標高が高いからね。でも、不思議だわ……。こんなに寒いのに、あちこちから水の流れる音が聞こえる」
セリアが耳を澄ませた通り、集落のいたる路地には、山頂の白雪から溶け出した豊かな雪解け水が、清烈な小川となって勢いよく流れ落ちていた。
この水が地下へ潜り、巡り巡ってマ・カレシュの地下水になっていくのだろう。
だが、村に入った俺たちを待っていたのは、活気とは程遠い、住民たちの沈んだ顔だった。
村の集会所らしき建物から漏れ聞こえる悲痛な声に導かれ、中へ入ると、疲れ果てた表情の村長が俺たちを迎え、事情を話してくれた。
「見ての通り、このテウマ峠の村は水だけは贅沢なほどある。だが……多すぎるのだ。この山は活火山でな、地下の地熱のせいで雪解けの勢いが強すぎる。おまけに地層が脆い。水が土をグズグズに腐らせ、毎年のように大規模な地滑りが起きて、数少ない畑や放牧地を飲み込んでいくんだ」
村長は窓の外の、無残に崩落した斜面を指さした。
「このまま無計画に水が流れ続ければ、あと数ヶ月……次の大雨の時期には、村ごと地滑りで崖下に崩落するだろう。だが、別の場所へ移住する金も、俺たちにはない……」
水がないイサウィラやマ・カレシュとは真逆の、水が多すぎて滅びゆく村。まさに、贅沢すぎる致命的な悩みだった。
「地滑り、か……。フロ、マークが残していった広域地質スキャンのログを起動。この山の深層データを展開しろ」
『イエッサー! 深層探査を開始します!』
俺の左腕から放たれた青いホログラムが空中に広がり、テウマ峠の断面図を立体的に映し出す。突然現れた光の図面に、村長や近くにいた老人たちが驚いて息を呑んだ。
そのデータを解析していた俺とフロの動きが、同時にピタリと止まった。
「……マスター。このデータ、奇妙です。地下二百メートル付近、火山性の熱源に隣接する形で、異常に高濃度のナトリウムとミネラルを含む巨大な地層があります。これは――」
「岩塩層か!」
俺は思わず声を上げた。
かつて海だった場所が、数千万年の時を経て隆起してできた山脈。その胎内には、太古の海が凝縮された塩の塊が眠っている。
活火山の熱で温められた雪解け水が、その岩塩層を溶かしながら地表へ向かって湧き出そうとしているのだ。
「カイ、それがどうしたの? 塩の山があるなら、また塩害が起きちゃうんじゃ……」
不安そうにホログラムを見つめるレイラに、俺は首を振って、かつてないほどニヤリと笑ってみせた。
「いや、違う。熱源と、岩塩。つまり、この山の地下を流れる水は、ただの雪解け水じゃない。ミネラルが豊富で、適度な塩分を含んだ、年間通して暖かい――温泉だ」
「オンセン……?」
レイラとセリア、そして村長までもが、聞いたこともない単語に首を傾げ、怪訝な顔で俺を見つめている。
だが、彼らの視線など、今の俺の耳には届いていなかった。
温泉。
その響きだけで、俺の胸の奥に、前の世界での切なくも愛おしい記憶が鮮烈に蘇ってきたからだ。
幼馴染のカオルは、昔から無類の温泉好きで重度のサウナーだった。
子供の頃は家族ぐるみでよく温泉旅行に行かされたし、大きくなってからも、「あそこの新しいサウナ付き銭湯、水風呂の温度が最高らしいから付き合いなさいよ!」と、半ば強引に連れ回されていた。当時は『やれやれ、またかよ』と呆れていたものだが……。
(……待てよ。俺、なんであんなにカオルの趣味に大人しく付き合ってたんだ?)
この過酷な異世界で、毎日必死に生き抜く中でふと思う。
あの時、カオルがサウナから上がって、上気した顔で美味そうにフルーツ牛乳を飲んでいた姿を、俺はいつもどんな気持ちで眺めていたっけ。
ただの幼馴染、家族みたいな存在、そう思っていたはずなのに。
(……いや、あれは、やっぱり――)
自分の胸の奥にある「本当の気持ち」に気づきそうになり、俺は慌てて首を振って思考を打ち消した。
何にせよ、カオルは温泉とサウナのためなら地の果てまで行くような奴だ。
ここにそれを作れば、カオルがもしこの山脈を越えるとき、絶対に噂を聞きつけて立ち寄る。
これは村を救うインフラであり、俺から彼女へ向けた、最高に巨大なメッセージになる。
「カイ……? なんだか、急にものすごい熱血モードになってない?」
セリアが、俺のただならぬ目つきに一歩引きながら呟く。その声で、俺はハッと現実に戻った。
目の前では、村長がまだすがるような、けれど諦めきったような目で俺の次の言葉を待っていた。
俺は背負っていたリュックを床へ降ろし、村長へ真っ直ぐに向き直った。
「村長、この村は捨てさせない。水が多すぎて崩れるなら、その水を適切に逃がす『逃げ道』を作り、ついでにその湧き出る温水を使って、この村を世界中の旅人が押し寄せる場所に変えてやる」
まだ見ぬカオルの笑顔を思い浮かべながら、俺はテウマ峠の極寒の風が吹き込む集会所で、熱く宣言した。
農業の枠を超えた、「温泉郷開拓プロジェクト」が、今ここに幕を開けた。




