第9話 潮風の街と、白く死んだ大地
ルタ村を出発して数日。
山を下るにつれて、乾ききっていた風に少しずつ湿り気が混じるようになってきた。
「カイ、見て! 海よ!」
小高い丘を越えた瞬間、レイラが弾んだ声を上げた。
眼下に広がっていたのは、太陽の光を反射して青く輝く広大な海。
そして、海岸線に沿って扇状に広がる巨大な街並みだった。
「あれが、海の街イサウィラ……」
俺は街の景色を見て、小さく息を呑んだ。
石と泥の家しかなかったルタ村とは、まるで別の星のようだ。
レンガ造りやコンクリートの建物が立ち並び、舗装された大きな道路を、黒煙を吹き上げる古いガソリン車が何台も行き交っている。
港には巨大な鉄のクレーンまで見えた。
(やはり、前の世界から数十年、いや百年近く文明が後退したような歪な世界だ。だが、物資と技術が集中する場所には、これだけの活気があるのか)
「すごいわね……! 私、こんな大きな街、初めて見た!」
レイラが目を丸くしてはしゃいでいる。村娘という役割を演じきっている、その演技力には感心する。
街に足を踏み入れると、潮の香りと魚が焼ける匂い、そして人々の喧騒が押し寄せてきた。
活気ある市場の通りを歩きながら、俺はすれ違う商人や港の労働者たちに声をかけ続けた。
「すまない、黒髪でこれくらいの背丈の女を見なかったか? 名前はカオルというんだが」
「黒髪の女? さあな、この港には毎日いろんな奴が流れてくるからな。酒場の親父にでも聞いてみな」
その間、レイラはずっと一歩後ろを歩いていた。
俺がカオルの名前を口にするたびに、彼女が小さく息を呑むのが聞こえた気がしたが、振り返る余裕はなかった。
港の人間には手がかりがなかった。
宿を探しがてら街の外れへと足を向けると、ふと、奇妙な光景が目に留まった。
街の活気とは裏腹に、海沿いに広がる広大な「農地」が、ひどく淀んだ空気に包まれていたのだ。
「……なんだ、あの土は」
俺は吸い寄せられるように畑に近づいた。
水路は整備され、水は豊富にある。
だが、植えられている作物はどれも葉が黄色く変色し、干からびるように枯れ果てていた。
そして何より異常なのは、土の表面だった。まるで雪でも降ったかのように、地面全体が「真っ白な粉」で覆われている。
「うわぁ……土が白いわ。これ、全部お塩?」
レイラが不思議そうにしゃがみ込む。
「ああ。塩害だ」
俺は白い粉を指先でなぞり、顔をしかめた。
「海に近い土地で、地下水脈に海水が混ざっているんだろう。強い日差しで水分だけが蒸発し、土の中に含まれる塩分が地表に吸い上げられ、蓄積してしまう。こうなると、植物は根から水を吸うことができず、逆に水分を奪われて枯れてしまうんだ」
俺はしゃがみ込み、白い粉を指先につけて舐めてみた。強烈な塩辛さと共に、不自然な苦味が舌を刺す。
「フロ。成分の裏付けを頼む」
『ピロリン♪ さすがはマスターの舌! 土壌の塩分濃度は植物の致死レベルを大幅に超え、さらに微量の重金属汚染も検知しました!』
「どうにかならないの、これ?」
「……かなり厄介だ。水で洗い流そうにも、排水設備が整っていなければ地下の塩水がさらに上がってくるだけだ。土壌改良剤を大量に投入するか、塩に強い特殊な――」
俺が技術者としての思考をフル回転させていた、その時だった。
「ちょっとアンタたち! そこで何してるのよ!」
鋭い声が飛んできた。
振り返ると、作業着の袖を捲り上げた、勝ち気そうな女性が立っていた。
年はレイラと同じか、少し上くらい。青みがかった銀色の短い髪と、海のように深い青の瞳を持っている。
「ただのよそ者が、勝手に私の畑に入らないでくれる?」
彼女は苛立った様子でツカツカと歩み寄り、俺とレイラを睨みつけた。
「すまない。あまりにも見事な塩害だったから、つい見てしまった」
「……見事な塩害って、アンタねぇ……」
女性は呆れたようにため息をつき、枯れ果てた作物を見てギリッと唇を噛んだ。
「ただでさえ、街の連中からは『港の工業と魚の取引だけで食っていけるのに、土弄りなんて無駄な足掻きだ』って馬鹿にされてるのよ。これ以上、冷やかしなら帰ってちょうだい」
「冷やかしじゃない。俺は……」
俺は彼女の目を見て、言葉を飲み込んだ。
彼女の瞳の奥にある悔しさは、ルタ村で最初に会った時のザキと同じだ。自分の土地を諦めきれない、本気の目だった。
「あんた、名前は?」
「……セリアよ。この農区の管理を任されてるわ」
「そうか。セリア、一つだけ言っておく」
俺は足元の白い土を指さした。
「あんた、毎朝この畑に大量の水を撒いているだろう? それが、一番の逆効果だ。塩を地表に呼び寄せているのは、あんたのその水やりだ」
「なっ……!?」
セリアの顔色が変わる。
「じゃあ、どうしろって言うのよ! 水をやらなきゃ、干からびて死んじゃうじゃない!」
「だからこそ、やり方を変える必要がある」
カオルを探すのが最優先だ。
だが、目の前で死んでいく土と、それに立ち向かおうとしている人間を見捨てることなんて、技術者のプライドが許すはずもなかった。
(それに……農区の管理者なら、街の人間関係や物流の動きにも詳しいはずだ。この畑を蘇らせて恩を売れば、カオルの情報も手に入りやすくなる)
俺は頭の中で冷徹な計算を弾き出しながら、静かにセリアを見据えた。




