侵影
出発の日。
フリッスの入り口には、人が集まっていた。
親。
兄弟姉妹。
それぞれが、大切な誰かを見送りに来ている。
「気をつけてね」
「ちゃんとご飯食べるのよ」
「帰ってきたら話聞かせてくれよ」
あちこちで交わされる言葉。
笑顔と、少しの寂しさ。
その光景の中で――
ソラは、少し離れた場所に立っていた。
隣には、レア。
二人とも、誰かに見送られることはない。
ぽつん、と。
周囲から切り離されたような空間。
風が静かに吹き抜ける。
(……こういうの、久しぶりだな)
王都を出てから。
フリッスに来てから。
いつの間にか、こういう“送り出される側”になることも増えていた。
だが――
今は、違う。
誰も来ない。
そう思っていた、その時。
「ソラお兄ちゃーん!!」
聞き慣れた、元気な声。
ソラははっと顔を上げる。
視線の先。
人混みをかき分けるように走ってくる、小さな影。
「……ミナ?」
その後ろには、アイネの姿もあった。
少し息を切らしながら、こちらへ歩いてくる。
「二人とも、来たのか」
ソラは目を少し見開く。
アイネは肩をすくめて笑った。
「この子がどうしても行きたいって言うから」
その隣で、ミナは満面の笑みを浮かべている。
「ソラお兄ちゃん!」
ぴょんっと目の前まで来る。
「楽しんできてね!」
真っ直ぐな言葉。
迷いも、曇りもない。
ソラは、少しだけ目を細めた。
「ああ」
優しく答える。
そのまま、ミナの頭に手を乗せた。
くしゃっと撫でる。
「お土産、たくさん買ってくるからな」
その一言で。
ミナの顔が、ぱあっと明るくなる。
「ほんと!?」
目を輝かせる。
「やったー!」
小さく跳ねるように喜ぶその姿に、ソラは思わず笑った。
(……やっぱ単純だな)
でも、その単純さが。
今は、ありがたかった。
ふと。
横を見る。
レアは少し離れた位置で、その光景を静かに見ていた。
何も言わず。
ただ、じっと。
その表情は、やはり変わらない。
だが――
ほんのわずかに。
何かを感じ取っているようにも見えた。
その時だった。
「そろそろ出発します」
ハバープルの声が響く。
一斉に空気が引き締まる。
「乗車してください」
その一言で、生徒たちが動き出した。
名残惜しそうに、家族と言葉を交わす者。
笑って手を振る者。
泣きそうな顔をしている者もいる。
ソラは、ミナとアイネの方へ向き直る。
「……じゃあな」
短く言う。
ミナは少しだけ寂しそうにしながらも、笑った。
「うん!」
大きく頷く。
ソラは次に、アイネを見る。
「アイネ」
「みんなを頼んだぞ」
少しだけ真面目な声。
アイネは一瞬きょとんとして――
すぐに、ふっと笑った。
「誰に言ってるのよ」
軽く言う。
「任せなさいって」
その言葉は、いつも通りで。
だからこそ、安心できた。
ソラは小さく頷く。
そして、背を向けた。
馬車へと向かう。
木製の車体。
パークスから来た、立派な造り。
乗り込む。
中では、すでに何人かが座っていた。
イナミが手を振る。
「おー、ソラ!」
ドミニクも軽く視線を向ける。
ソラはそれに応えながら、席に着いた。
窓の外。
ミナとアイネが見える。
ミナは両手を大きく振っている。
「ソラお兄ちゃーん!!」
その声が、少し遠くなる。
ソラも手を上げて、振り返す。
アイネはその隣で、静かに手を振っていた。
そして――
馬車が、ゆっくりと動き出す。
軋む音。
揺れる景色。
フリッスの門が、少しずつ遠ざかっていく。
見慣れた街。
過ごしてきた場所。
そのすべてが、後ろへ流れていく。
(……行くのか)
ソラは静かに息を吐く。
視線を前へ向ける。
これから向かうのは――
水城都市パークス。
美しい水の都。
そして。
過去と、何かが交差する場所。
隣では、レアが静かに座っていた。
何も言わず。
ただ前を見ている。
その横顔を、ソラは一瞬だけ見る。
(……お前も)
同じなのか。
それとも、全く違うのか。
答えは、まだ分からない。
馬車は速度を上げる。
フリッスを離れ――
新たな場所へと進んでいく。
馬車が走り出してしばらく。
フリッスの街並みは、すでに見えなくなっていた。
窓の外には、なだらかな道と草原が広がっている。
車輪の音が、一定のリズムで響く。
その中で――
一台の馬車。
ソラたち四人が乗っている空間は、妙に静かだった。
「……えっとさ!」
沈黙に耐えきれなくなったのか、イナミが声を上げる。
無理に明るくした声。
「パークス行ったらさ、水の上歩けるらしいぜ?」
ちらっとレアを見る。
「なんか魔法でさ、観光客でもできるやつあるらしくて――」
話を広げようとする。
だが。
「……」
レアは、何も答えない。
窓の外を見たまま。
視線すら向けない。
「……あー、えっと」
イナミの笑顔が、少し引きつる。
「あとさ、飯もめっちゃうまいって聞くし!」
「魚とか有名らしいし!」
再び振る。
が。
「……」
反応なし。
完全な無反応。
空気が、じわじわと重くなる。
(うわ……)
イナミの心の声が聞こえてきそうだった。
ソラは少しだけ目を逸らす。
ドミニクも無言で腕を組んでいる。
馬車の中に、再び沈黙が落ちる。
ギシッ、ギシッ、と車輪の音だけが響く。
(……気まずいな)
ソラは内心で呟く。
別に嫌なわけじゃない。
ただ――
会話が成立しない。
それだけで、ここまで空気が重くなるのかと実感する。
イナミはとうとう、完全に黙り込んだ。
さっきまでの勢いはどこへやら。
「……はぁ」
小さく息を吐く。
その時だった。
「……ゲームでもするか」
ぽつりと。
ドミニクが口を開いた。
三人の視線が、そちらへ向く。
「ゲーム?」
イナミが食いつく。
ドミニクは軽く頷いた。
「このままだと持たないだろ」
淡々とした言い方。
だが、状況は的確に捉えている。
ソラは少しだけ口元を緩めた。
(助かるな)
イナミはすぐに乗っかる。
「いいじゃん!何やる?」
一気に表情が明るくなる。
ドミニクは少し考えてから言った。
「シンプルなのでいい」
「“しりとり”」
一瞬の沈黙。
「……いや、普通すぎない?」
イナミがツッコむ。
ドミニクは肩をすくめた。
「だからいいんだろ」
「誰でもできる」
確かに、その通りだった。
ソラも頷く。
「まあ、いいんじゃないか」
イナミは少し考えて――
「……よし、やるか!」
立ち直りが早い。
「じゃあ俺からな!」
すぐにテンションを戻す。
「りんご!」
勢いよく言う。
「……ご、か」
ドミニクが続ける。
「ゴーレム」
「お、いいね!」
イナミがすぐに反応する。
「む……む……ムカデ!」
少し悩んだ様子。
そして、三人の視線がソラへ向く。
「で?」
イナミがニヤッとする。
ソラは少し考えて。
「……データ」
ぽつりと答える。
「お前そういう単語出すよな……」
イナミが苦笑する。
だが、空気はさっきよりずっと軽かった。
そして――
最後に残る一人。
視線が、レアへ向く。
一瞬の間。
レアは、ゆっくりと視線を動かした。
そして。
「……タ、ですか」
小さく呟く。
「……太陽」
静かに言った。
その瞬間。
イナミの顔が、ぱっと明るくなる。
「お、喋った!」
思わず声が弾む。
レアはそれに反応しない。
だが――
確かに、参加した。
ほんのわずか。
それだけで。
空気は、確実に変わっていた。
ソラはその様子を見ながら、少しだけ息を抜く。
(……少しはマシになったか)
馬車は進む。
揺れの中で。
――その頃。
フリッスから遠く離れた地。
隣国リズナドル。
その山頂。
冷たい風が吹き抜ける中、数人の人影が立っていた。
全員が、黒いフードを深く被っている。
顔は見えない。
身体には、ぴったりとした黒の装束。
まるで影そのもののように、そこに溶け込んでいた。
その視線の先。
遠くに見えるのは――
フリッスの街。
穏やかな空気を纏った、小さな都市。
だが。
その景色を見つめる者たちの目は――
穏やかとは程遠かった。
先頭に立つ、三つの影。
フードの奥から、かすかに顔が覗く。
ユイ。
ルカ。
そして――レオン。
ユイが、静かに口を開いた。
「あそこがフリッスで間違いないね」
淡々とした声。
感情は抑えられている。
だが、その奥にあるものは隠しきれていない。
ルカが続く。
「……やっと見つけた」
小さく呟く。
「ずっと探してた」
視線は逸らさない。
ただ、フリッスを睨みつける。
「ソラの居場所」
その言葉が落ちた瞬間。
空気が、わずかに歪む。
二人の表情。
そこにあったのは――
喜びではない。
再会への期待でもない。
ただ。
濁った感情。
積み重なった何か。
「……」
ユイの指先が、わずかに震える。
ルカの拳が、静かに握られる。
その顔に浮かんでいるのは――
憎悪にも似た、歪んだ感情だった。
そして。
その隣で。
レオンが、一歩前に出る。
風が、フードを揺らす。
その奥の目が、わずかに見えた。
かつて。
仲間と笑い合っていた時の光は、もうない。
優しさも。
迷いも。
そこには残っていなかった。
ただ――
冷たい決意だけがあった。
レオンは、ゆっくりと口を開く。
「……さあ」
低い声。
「やるぞ」
短い言葉。
だが。
その一言で、すべてが決まった。
後ろにいた影たちが、わずかに動く。
空気が、張り詰める。
フリッスの平穏とは、対照的に。
この場所では――
確実に“何か”が動き始めていた。
レオンは、もう一度フリッスを見た。
その視線の奥にあるものは。
かつて守ろうとしていたものではない。
ただ――
壊すための目だった。
風が強く吹く。
黒い影たちは、そのまま動き出した。
静かに。
確実に。
フリッスへ向かって。




