遭逢
暗闇だった。
上下も、前後も、存在しない。
ただ“そこにある”としか言いようのない空間。
ソラは、ゆっくりと目を開けた。
(……ここは)
声を出そうとする。
だが――
音が出ない。
喉は動いているはずなのに、何も響かない。
それでも、不思議と“感覚”はあった。
見えている。
立っている。
存在している。
なのに同時に――
何も感じていない。
(……なんだ、これ)
寒くもない。
暑くもない。
重さも、空気も、ない。
だが確かに“そこにいる”。
矛盾した感覚が、身体の奥で渦巻く。
(現実じゃない)
そう思う。
だが同時に――
(現実だ)
とも感じている。
正と負が、同時に成立しているような。
あり得ないはずの状態が、当たり前のように存在していた。
その時だった。
ソラの視界の先に、“それ”はいた。
黒とも白ともつかない輪郭。
人のようで、人ではない。
形は曖昧で、しかし確かに“存在”している。
(……あの時の)
王都での戦い。
あの異様な気配。
記憶の奥に焼き付いている存在。
ソラはそちらへ歩こうとする。
だが、距離の概念すら曖昧だった。
近づいているのか、遠ざかっているのかすら分からない。
それでも、確実に“向き合っている”。
ソラは口を開く。
(お前は――)
問いかける。
だがやはり、声は出ない。
それは反応しない。
ただ静かに、そこに在る。
次の瞬間。
それが、動いた。
ゆっくりと腕を上げる。
ソラとは反対の方向へ。
そして――
何かを“唱えた”。
音は聞こえている。
だが意味が理解できない。
言語ではない。
それでも――
どこかで“知っている”。
そんな感覚が、脳の奥をかすめる。
(……なんだ、この感覚)
理解できないのに、理解している気がする。
知らないのに、知っている気がする。
その矛盾が、さらに強くなる。
やがて。
それの動きが止まった。
沈黙。
その瞬間だった。
暗闇が、わずかに揺らぐ。
そして――
一人の少女が、現れた。
遠い。
ぼやけている。
輪郭が定まらない。
(……誰だ)
ソラは目を凝らす。
視界が、ゆっくりと“合っていく”。
焦点が近づく。
少しずつ、形が見えてくる。
長い髪。
細い体。
そして――
見慣れないはずの服。
(……制服?)
どこかで見たことがある。
だが、この世界のものではない。
日本の学生服のような装い。
その少女は、静かに立っていた。
目を閉じたまま。
まるで、そこに“置かれている”かのように。
(……なんで)
ソラはさらに視線を向ける。
あと少し。
あと少しで、はっきり見える。
ピントが合う。
輪郭が、完全になる。
その瞬間――
少女の目が、開いた。
合った。
視線が。
完全に、ソラと。
ゾワッ――
全身に走る感覚。
言葉にできない何かが、心臓を掴む。
(この顔――)
見たことがある。
確実に。
どこかで。
だが――
思い出せない。
その一瞬で。
世界が、反転した。
視界が白く弾ける。
次の瞬間。
ソラはベッドの上にいた。
「……っ」
荒く息を吐く。
見慣れた天井。
いつもの部屋。
さっきまでの空間が、嘘のように消えている。
ソラはゆっくりと身体を起こした。
手を見る。
震えてはいない。
だが。
確かに“何か”が残っている。
「……今のは」
夢か。
そう思おうとする。
だが――
あまりにも“現実すぎた”。
ソラは目を閉じる。
思い出す。
あの存在。
あの言葉。
そして――
少女。
(……誰だ)
頭の奥で、引っかかる。
もう少しで思い出せそうな感覚。
だが届かない。
霧がかかったように、輪郭がぼやける。
「……くそ」
小さく呟く。
確実に、知っている。
だが出てこない。
ソラはゆっくりと窓の方を見る。
外はまだ、薄暗い。
夜と朝の境目。
静かな時間。
そんなことを考えていると、
バンッ!
勢いよく扉が開いた。
「ソラお兄ちゃーん!!」
元気な声と同時に、ミナが部屋に飛び込んでくる。
だが。
「……あれ?」
ミナはその場で止まった。
ベッドの上。
すでに起き上がっているソラと目が合う。
沈黙。
ミナの表情が、みるみるうちに曇っていく。
「……えぇー……」
露骨に残念そうな声。
その手には――
フライパンが二つ。
しっかりと握られていた。
ソラは思わず苦笑する。
「それで起こすつもりだったのか?」
ミナはぷくっと頬を膨らませた。
「そうだよ!」
「この音でソラお兄ちゃん起こそうと思ってたのに!」
少し不機嫌そうに言う。
カンカン鳴らす気満々だったらしい。
ソラは小さく笑う。
そして、ミナの頭に手を乗せた。
「ごめんな」
軽く撫でる。
「今度お菓子買ってやるから」
その一言で。
ミナの表情が一変した。
「ほんと!?」
ぱあっと顔が明るくなる。
さっきまでの不機嫌はどこへやら。
「やったー!」
そのままくるりと振り返り、元気よく走り出す。
「アイネお姉ちゃん!ソラお兄ちゃんお菓子買ってくれるってー!」
リビングへと消えていく声。
ソラはその後ろ姿を見ながら、くすっと笑った。
(単純だな……)
だが、その無邪気さが心地よかった。
ふと。
視線が、部屋の壁へ向く。
掛けられているカレンダー。
そこに記された日付。
――10月11日。
ソラは、少しだけ目を細めた。
(……今日か)
この街に来た日。
フリッスに、初めて足を踏み入れた日。
あの日から――
ちょうど一年。
ゆっくりと息を吐く。
(もう一年か……)
思い返す。
ウェルカムハウスでの生活。
ミナや住人たちとの日常。
ガウマでの学校。
イナミ、ドミニク、アイラ。
ハバープルの授業。
くだらない会話。
笑い合った時間。
気づけば。
王都クレアレスで過ごした時間よりも――
長くなっていた。
クレア。
ユイ。
ルカ。
レオン。
大切な人たち。
忘れたわけじゃない。
今でも、はっきり覚えている。
それでも。
(……ここも)
胸の奥に、何かが芽生えている。
(捨てたくない)
この日常を。
この場所を。
この関係を。
そんな気持ちが、確かにあった。
ソラは軽く頭を振る。
「……行くか」
いつも通り。
そう言い聞かせるように。
部屋を出た。
――そして。
学校。
いつもと変わらない朝。
教室に入ると、すぐに声が飛んできた。
「お、ソラ!」
イナミが手を上げる。
「今日は早いな」
ドミニクがちらりと見る。
アイラも笑う。
「おはよー」
ソラは軽く手を上げて応える。
「おはよう」
席に着く。
自然と、会話に混ざる。
昨日の話。
授業の愚痴。
他愛もないやり取り。
その時間が、当たり前になっている。
(……ほんとに)
少しだけ、思う。
(ここにいるのが普通になってるな)
そんなことを考えていると――
ガラッ。
扉が開いた。
ハバープルが入ってくる。
「席に着いてください」
いつも通りの声。
生徒たちがそれぞれ席に戻る。
だが。
その後ろに――
もう一人、いた。
少女。
ゆっくりと歩いてくる。
その姿を見た瞬間。
ソラの思考が、止まった。
(……え)
心臓が、大きく跳ねる。
視線が釘付けになる。
長い髪。
整った顔立ち。
そして――
どこか見覚えのある、その雰囲気。
(……まさか)
脳裏に蘇る。
あの暗闇。
あの空間。
あの視線。
少女が教壇の横で立ち止まる。
ハバープルが口を開く。
「今日は転入生を紹介します」
だが。
その言葉は、ほとんど耳に入っていなかった。
ソラの視界には――
ただ一人。
その少女しか映っていなかった。
(同じだ)
間違いない。
夢。
いや――
あの“場所”で見た少女。
その姿と。
完全に、一致している。
少女が、ゆっくりと顔を上げる。
そして。
その目が、ソラを捉えた。
――合った。
視線が。
ゾワッ。
背筋に、あの時と同じ感覚が走る。
現実と、非現実が。
この瞬間、繋がった。
ソラの喉が、わずかに動く。
だが。
言葉は出なかった。
ただ一つ、確かなことがあった。
これは――
偶然じゃない。
運命的な、何かだ。
ソラは目を見開いたまま、少女を見つめ続けていた。




