乖離
結界の破片が、静かに降り続ける。
校庭は、完全な沈黙に包まれていた。
誰も動かない。
誰も声を出せない。
ただ――
ソラだけが、そこに立っていた。
緑に光る瞳のまま。
その光景を。
上階の窓から、アバンは見ていた。
「……はは」
小さく、笑う。
だがその声は、いつもの軽さとは違っていた。
わずかに――震えている。
アイネがその横で眉をひそめる。
「……何が起きてるの」
アバンは答えない。
ただ、目を細めてソラを見つめる。
「……なるほどね」
ぽつりと呟く。
「そういうことか」
アイネが鋭く言う。
「説明して」
その声に、アバンはようやく口を開いた。
「僕は最初ね」
「ただ“上書き”してるだけだと思ってたんだ」
「既存の魔法式を、より高精度で再現してるだけ」
視線は外のまま。
「でも違う」
一拍。
「彼は――」
「“履歴”を使ってる」
アイネの表情が固まる。
「……履歴?」
アバンは頷く。
「世界式に書き込まれた魔法式にはね」
「全部“記録”が残ってる」
「誰が、いつ、どんな式を書いたか」
静かな声。
だが内容は異常だった。
「普通の人間は、それを“参照できない”」
「そもそも存在すら認識できない」
ゆっくりと、言葉を重ねる。
「でもソラは違う」
「過去に書き込まれた魔法式を遡って」
「そこから直接“発動”してる」
アイネの目が見開かれる。
「……それって」
アバンが続ける。
「つまり」
「ソラが“見た魔法”は――」
少しだけ笑う。
「全部、無条件で使えるってこと」
沈黙。
アイネの思考が止まる。
「……は?」
理解が追いつかない。
アバンはさらに言う。
「しかもね」
少しだけ声が低くなる。
「もっとやばいのはそこじゃない」
その一言で、空気が張り詰める。
「普通、魔法っていうのは」
「世界式に“書き込む”ことで発動する」
「だから魔力を消費する」
指を軽く鳴らす。
「でもソラは違う」
目を細める。
「すでに書かれている式を“引き出してるだけ”」
「新しく書いてない」
ゆっくりと、はっきり言った。
「だから――」
「魔力を消費しない」
その瞬間。
アイネの背筋に、ぞくりと寒気が走る。
「……そんなの」
「ありえない」
小さく呟く。
だが。
目の前で起きている。
アバンは肩をすくめる。
「厳密にはね」
「“式眼”の発動にだけは魔力を使ってる」
「でもそれ以外は――ほぼゼロ」
視線をソラに向ける。
「つまりあの子は」
静かに言う。
「実質、“魔力なし”で」
「最終種級すら撃てる」
言葉が落ちる。
重く。
深く。
アイネは何も言えなかった。
ただ、外を見る。
結界を砕いた少年。
その存在が――
もはや“人間”の枠に収まっていないことを理解していた。
その時。
アバンの口元が、ゆっくりと歪む。
「……最高だ」
楽しそうに笑う。
だが。
その額に。
一筋の汗が、流れた。
ほんのわずか。
だが確かに――
ざわめきが広がる。
「すげぇ……」
「今の、何なんだよ……」
「結界、壊したぞ……?」
生徒たちが口々に言う。
誰もが、目の前の少年から目を離せない。
ハバープルも言葉を失っていた。
「……あなた、本当に――」
言いかけて、止まる。
何と呼べばいいのか、分からなかった。
その時。
「いやあ、やってくれたね」
軽い声が響いた。
全員が振り向く。
そこにいたのは――アバン。
ゆっくりと歩きながら校庭へ入ってくる。
生徒たちが道を開ける。
アバンはそのままソラの前まで来た。
そして、空を見上げる。
砕けた結界。
歪んだ“偽りの空”。
「うーん」
少し考えるように首を傾げる。
ソラが苦笑いを浮かべる。
「……すみません」
アバンはちらりとソラを見る。
そして、ふっと笑った。
「いいよ」
軽く言う。
「むしろ面白かったし」
そのまま、校庭の中央へと歩く。
周囲が静まる。
アバンは立ち止まると――
空へ手をかざした。
その瞬間。
空気が変わる。
静かに。
だが確実に。
“何か”が動き出す。
アバンが口を開く。
「――――」
言葉が紡がれる。
だが。
誰も理解できない。
音として聞こえているはずなのに――
意味として認識できない。
「……え?」
イナミが戸惑う。
ハバープルも眉をひそめる。
(今の、何の言語……?)
違う。
言語ですらない。
“概念”そのものを直接叩きつけられているような感覚。
ソラも目を見開いていた。
(……読めない)
式眼が反応している。
確かに“何か”は見えている。
だが――
理解できない。
解析できない。
今まで見てきたどんな魔法式とも違う。
次の瞬間。
空が、震えた。
ヒビの入っていた結界が。
まるで時間を巻き戻すように――
再構築されていく。
破片が消える。
歪みが消える。
そして。
完全な“空”が、再び広がった。
青。
雲。
何事もなかったかのような光景。
静寂。
誰も、声を出せない。
アバンはゆっくりと手を下ろした。
「はい、修復完了」
軽く言う。
まるで、当たり前のことのように。
その時。
ソラは動いていた。
(……今の)
式眼を通して。
その“魔法”の履歴を追う。
世界式へアクセスする。
だが――
「……っ」
止まる。
見えているはずなのに。
理解が、拒絶される。
構造が分からない。
意味が分からない。
そもそも――
“式として成立していない”ようにすら見える。
(なんだ、これ……)
初めてだった。
ソラが“理解できない魔法”に出会ったのは。
その時。
アバンがこちらを見た。
そして。
ゆっくりと笑った。
「どうしたの?」
楽しそうな声。
「見えなかった?」
ソラは何も答えられない。
アバンは目を細める。
「そっか」
一歩、近づく。
「まだそこは――届いてないか」
その言葉は。
優しくもあり。
同時に、明確な“線引き”でもあった。
ソラの知らない領域。
ソラがまだ触れられない世界。
それを、アバンは知っている。
そして――
扱っている。
ソラは無言でアバンを見る。
アバンは、いつものように笑っていた。
だがその奥に。
ほんのわずかに――
“底知れなさ”が滲んでいた。




