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バタフライプリンセス  作者: 深水千世
12/19

煌めく火花

 人を意識するということは、こんなにも息苦しいものなのか。遼は人知れずため息を漏らした。

 今日のシフトはノブとキラ、そして遼だ。とうとう、ワタルから「もう三人体制でも大丈夫だね」とお墨つきが出て、今までの四人体勢からシフトが変わっていた。三人になるとどうしてもコミュニケーションが増える。ノブを意識しはじめた遼にとっては認められて嬉しい反面、困るのだった。

「これ、あちらのお客様にお出しして」

「えっと、これなんでしたっけ?」

「しっかりしろよ。ファジー・ネーブルだ。お前がオーダーとってきたんだろうが」

 呆れたようなノブの声が聞こえるが、その顔を見る勇気がない。

「は、はい! いってきます!」

 一刻も早く逃げ出してしまいたい衝動にかられ、客のところへ急いだ。会わない時間は「何をしているのかな」と気になるくせに、会ったら会ったで落ち着かないのだから心なんて勝手なものだ。深いため息をついていると、キラがぽんっと軽く肩を叩く。

「どうした? 具合でも悪いのか?」

「あ、いや、そんなんじゃないよ。ごめん、大丈夫」

 そう答えたものの、実際は心臓がどぎまぎしてノブと目を合わせられない。そのくせ、遠くからずっと見つめていたくなる。自分で自分に呆れてしまうのは、今までどうしてノブと普通に接してこられたんだろうということだった。二人きりで居残り練習したり、一緒に帰ったり、挙げ句の果てに泥酔したところを介抱されて、吐いているところも泣き顔も見られてる。もうかっこつけても意味がないとは思っても、上手に自分をコントロールできなかった。

 キラが心配そうに「何かあった?」と、囁く。

「大丈夫よ。ありがとう」

 慌てて笑顔を繕うと、キラは「なら、いいけど」と首を傾げた。そして、そっと遼に耳打ちした。

「……ショート、似合ってるよ」

 遼は思わず頬を染めた。髪型を変えて初めての出勤なのに、誰からも反応がなくて内心がっかりしていたのだ。

「セットが崩れるから今は頭わしわしできなくて残念だけど。さ、もう少し頑張ろうぜ」

 キラは白い歯を見せて笑っていた。


 その日の閉店後、遼は更衣室で着替えをしながら深いため息を漏らした。やっと終わったという安堵が、胸に広がる。今までこんなに時間の流れが遅く感じた日もなかった。ノブと目が合えば胸が狭くなって、口を開けば心臓が飛び出そうになるのだ。このままでは駄目だと、唇を噛む。鏡の中の自分を睨みつけて気持ちを切り替えてから更衣室を出た。

「お待たせしました」

 カウンターの端では既に支度を済ませたノブが待っていた。

「あれ、キラさんは?」

「外で待ってる」

 ノブが歩み寄り、遼の顔を覗き込んだ。

「……お前、調子悪いのか? なんか変だぞ」

 心配そうなノブの顔を見つめ、遼は思わず惚けてしまった。本当にどうして、今まで平気だったんだろうとぼんやりする。

「すみません。明日はもう大丈夫です」

「明日も大学の講義、早いんだろう? 今日は居残り練習もないんだから、ゆっくり休めよ。行くぞ」

「……はい」

 遼は自分のことばかりで、彼が気を掛けてくれていたのも気づかなかったことに恥じ入った。しゅんとして店を出ようとした間際、ノブが肩を掴んで声を潜める。

「おい、本当に大丈夫なんだな?」

「えっ?」

「辛かったら電話しろ。また泣き顔でも拝んでやる」

「もう、泣きませんよ!」

「なら、いいんだ。今日は送ってやるよ」

 遼の胸の奥がぎゅっと締めつけられた。廊下を歩くノブの広い背中を追いながら、いつか、この背中に思いきり抱きつける日がくればいいのにと願った。

 駐車場の前まで歩いていくと、キラが険しい声で「おい、あれ」と立ち止まる。彼の視線の先を追った遼が息を呑み、ノブはため息を漏らした。ノブの車のそばに藍良が待ち伏せていたのだ。

 藍良はツカツカと歩み寄り、遼たちの前に立ちはだかる。

「ノブ、どういうこと? その子とつき合ってるって?」

 思わずノブよりも先に遼の口から「はぁ?」という間抜けな声が漏れた。藍良が苛立たしげに唇を歪ませる。

「店が終わってからもしばらく二人で出てこないって。二人揃って帰るからできてるんだろうって噂だけど?」

「こいつは新人だから、ときどき居残り練習してるだけだ」

 うんざりした顔のノブに、なおも彼女が食いつく。

「どうしてノブだけが教えるのよ? 他の人だって教えたらいいでしょ?」

「俺がスカウトしたんだ。俺が責任持って教えるのが筋だってワタルと話した結果だ。お前には関係ない話だろう」

 藍良が「だって」と反論しかけたときだ。

「お前には一切、関係ない」

 ノブが声を荒らげた。

「大体、あの話なら俺は断ったはずだぞ。いい加減に諦めてくれ」

「……どうしても、私と一緒に東京には行けないっていうのね」

 思いがけない言葉に遼とキラがぽかんと口を開ける。ノブは吐き捨てるように言った。

「俺にはこの街ですることがある。第一、お前には旦那さんがいるだろう。どうして俺がそばにいなくちゃならないんだ。常識でものを考えろ」

 藍良は躊躇していたが、やがて覚悟を決めた顔で「別れたわ」と、呟く。愕然とするノブに、藍良が静かに畳みかけるように言った。

「別れたのよ。これであなたが私を拒む理由はないはずでしょ?」

「お前、正気かよ? あんなにいい旦那さんだったじゃないか」

「あなたにはよく見えても、私には物足りないの。本当は二人で話し合えたら言おうと思ってたけど、いつまでたっても会ってくれないんだからしょうがないわよね」

 ちらりと藍良は遼に視線を走らせ、「それに、油断大敵みたいだし」と、まるで泥棒猫でも見るような冷たい目をした。ノブが遼を目で指しながら言い捨てる。

「こいつとは、そういう関係は一切ない。飲み屋街の噂に振り回されるなんてバカじゃないのか」

 『一切ない』という言葉を聞いた途端、遼の胸がえぐられたように痛み、ぽろっと涙が落ちた。

「あ、あれ?」

 慌てて涙を拭う遼を、ノブとキラは驚いた顔で見ている。ただ藍良だけは『やっぱりね』とでも言いたげな顔で腕組みをしながら、その姿を睨んでいた。

 ここで泣いては駄目だ。そう自分に言い聞かせれば言い聞かせるほど、惨めになる。藍良が一人になったのなら、元の鞘に納まってもいいはずだ。だが、それが嫌なのだ。どうしようもなく涙が溢れてくる。

「この子はそういうつもりじゃないみたいだけど?」

 藍良の声は嫉妬にまみれてぎらつきながら、遼の心臓を突き刺す。

 そのときだった。

「あぁ、もう……」

 キラが不意に遼の肩を抱き寄せ、不敵な笑みを浮かべた。

「あんまり俺の女をびびらせないでくださいよ。彼女、繊細なんですよ。こういう修羅場に慣れてませんしね」

 遼は自分の耳を疑った。おかげで涙は止まったものの、口があんぐり開いたまま動けない。

「ほら、泣くなよ。びっくりしたろ」

 キラが両手で頬を包み込むようにして涙をぬぐい取る。

「キラ、それ、何の茶番?」

 藍良が鼻で笑う。ノブは凍りついたまま、二人を凝視していた。

「まぁ、内緒にしてましたから」

 キラが飄々とした顔で遼の頭をぐりぐり撫でた。セットが乱れるのもお構いなしだ。

「本当かしら? その割に彼女、ずいぶん驚いた顔よ?」

 嘲笑を浮かべる藍良に、キラが「しつこいですね」と、にやりとした。

 次の瞬間、キラが遼をぐいっと引き寄せ、唇を塞いだ。遼が目を見開いた途端、すぐに彼の胸に顔を押しつけられる。唇に残る感触が、胸を締めつけた。

「……これでいいでしょ。彼女、恥ずかしがり屋なんで、これ以上は勘弁してくださいよ」

 ふと、大きな音を立てて脈打つキラの鼓動に気づき、遼は彼のジャケットを握りしめた。藍良が「わかったわよ」と肩をすくめる。

「それにしても、そんな子がキラの好みだと思わなかったわ。ずいぶん男らしいのが好きなのね」

 余計なお世話だと遼が口を開くより先に、キラが抱きしめる手に力をこめて言う。

「確かにこいつは中性的だから客の嫉妬を浴びないように選ばれたけどな、俺にとってはいつだって女の子なんだ。それに、誰に嫉妬されようが、リョウなら誰もが納得するくらい、いい女なんだよ」

 その声に強い怒りが滲んでいる。ノブが藍良を睨めつけた。

「そういうことだ。誰かに言いふらしたら容赦はしない」

 遼は思わずぎゅっと拳を握りしめる。ノブがどんな顔をしているか見えないが、その声はぞくりとするほど冷たい。さすがの藍良も「わかったわよ」と渋々答えていた。

 遼はやっとキラの手から解放されると、おそるおそるノブの顔を見て息を呑んだ。彼は今、ただただ寂しそうな顔をしているのだ。そして、キラに「リョウを頼む」と短く言うと、こう呟く。

「アイラ。少し話をしよう」

 藍良が遼たちを一瞥し、ノブの後を追った。二人が車に乗り込むと、やがてエンジン音がして、遼たちの前を車が通り過ぎる。つんと澄ました助手席の藍良を見ながら、まるで映画か何かのシーンをスローモーションで見ているようだと思った。

 『行かないで』という子どもじみた言葉が口をついて出そうで、思わず手で覆った。みるみるうちに、また視界が滲んでいく。

「ごめんは言わないよ」

 キラは苦々しく笑っていた。

「……お前さ、ノブのこと好きなんだな」

 何も答えられずにいると、キラはため息まじりに言った。

「今日なんだかおかしかったのも、あいつのせいだろ? 俺とは普通だったしさ。見てたらわかるよ」

「お客様も気づいたかな?」

 もしそうなら、店に迷惑がかかる。そう焦ったが、キラの声はどこまでも優しかった。

「いいや、俺だから気がつくんだよ。だって、俺、リョウのこと見てるから」

「えっ?」

「あ、いや、ワタルもビルも勘がいいから気がつくかもだけど、でも俺はお前をいつも見てるから。さっきキスしたのだって芝居なんかじゃなくて、本気だからな」

「へっ?」

 間抜けな声を上げる遼の頭を思いっきり撫で回し、彼は照れ笑いを浮かべた。

「何回言わせれば気が済むんだよ。俺はお前が好きなの!」

「えぇ?」

 夜の駐車場に遼の素っ頓狂な声が響き渡った。

「ほら、俺さ、アズサのことで感謝はしてたんだけどさ」

 歩き出すキラを、遼が慌てて後を追う。

「だんだんお前が自信に満ちた目をするようになって、綺麗な子なんだなって気づいたんだ。なのに当の本人は自分のそういうところ全然気づいてないのが可愛くて。でも、お前が変わったのって、ノブのおかげだってこともわかってた。それがすごく悔しかったんだ」

 キラの背中が、街灯に照らされている。彼はいつになく饒舌だった。

「ノブがアイラとどんな話し合いをするのか知らないし、お前をどう思っているかはもっと知らないけど、俺はリョウが好きなことには変わらないし、ていうか、そんなに簡単に割り切れる程度の気持ちじゃないし。でも待っているだけってのも俺らしくないなって思ってたところなんだよな」

 はは、と笑うキラは飲み屋街を抜けて、いつもなら右に曲がるはずの交差点を、左に折れた。

「あの、キラさんの家、こっちじゃないですよ」

 すると、キラはふっと眉を下げて立ち止まった。

「今日くらいは送らせてよ。ノブに頼まれたからじゃなくて、俺が送りたいの」

 こういうとき、なんと言えばいいのだろう。戸惑った遼に、彼は隣に立って歩き出すよう、背中をぽんを叩いて促した。

「うん、わかってるよ。お前がノブを好きなのは」

 並んで歩きながら、遼は申し訳なさに項垂れた。キラがめいっぱい緊張しているのが伝わるのに、自分はこうしてキラと一緒にいながら、頭からノブの後ろ姿を追い払うことができずにいる。

「ごめんなさい」

 思わず呟いたそのとき、軽く頭を小突かれた。

「自惚れるなよ! 俺がお前を好きでいるのは俺の自由だし、気持ちの整理ができるまでだからな。あとから好きになっても遅いこともあるんだぜ」

 彼は歩きながら、そっと遼の手を取った。振り払ったほうがいいのか戸惑う遼に、ふとキラが呟く。

「……さっきはよく頑張ったな。辛かっただろ」

 ぐっと胸が苦しくなる。この人はどこまでお人好しなのだろう。そう思うと、じんわり涙が溢れて、どうしようもない。キラはつないだ手に力をこめて、無言で『泣いてもいいよ』と言っているようだった。

 田村空手道場の看板が見えると、キラの手が離れ、すっかりぬくもった手を夜風がひやりとかすめていく。

「あの、色々とすみませんでした」

 慌てて頭を下げると、キラは「謝ることじゃないよ」と笑う。

「明日は仕事休みだろ?」

「うん」

「ゆっくり休めよ。あとはなるようになるさ」

「……ありがとう」

 遼は小さく微笑んだ。キラは優しい。そして強い。しかし、その強さは強要するものではなく、ただただ芯があって強いから優しいのだ。遼も片想いの辛さを知らないわけではなかった。今の彼の行動がどれだけの自己犠牲の上にあるのか痛いほどわかる。

 キラは遼の笑みを見ると、咄嗟に彼女を抱き寄せて囁く。

「本当に俺のものになったらいいのになって思うけどね。お前が笑ってくれるなら、もうなんだっていいや」

 遼の耳元を深いため息がかすめ、胸の奥をじんと熱くさせた。

「おやすみ……ハルカ」

 その声は、まるで慈しむようだった。そして、そっと前髪に触れるだけのキスを落とす。さっきの強引さはなく、慰めるような優しいキスだった。

 キラは体を離して後ずさりすると、まるで降参するように両手を挙げる。

「歯止めがきかなくなる前に退散する」

 思わず顔が赤くなった遼を見た彼は小さく笑う。そして、「じゃあな」とひらひら手を振り、元来た道を歩き出した。

 街灯で照らされる背中が小さくなっていくのを見送りながら、遼は「おやすみなさい」と、掠れた声で囁く。抱きしめられたのが夢のようで、頭の奥が痺れている。

 前髪を指でなぞり、思わず唇を噛んだ。もし、今走り寄ってあの背中に抱きつけたら、どんなに楽だろう。キラとの毎日は大口を開けて笑いながら過ごせる居心地のいいものに違いない。たまには派手にケンカもするだろうが、きっと大切に想ってくれるはずだ。それが目に見えてわかるのに、それでも足が動かない。駆け出す衝動を呼び起こすスイッチは、自分でも知らない間に、ノブの手の中に預けてしまったらしい。

「馬鹿だ、私」

 あんなに優しい人は、そういない。顔は笑っていても、どんなに傷ついているだろう。それでも違う背中を欲しがっているのだ。

 そのとき突然、携帯電話の着信音が鳴り響いた。画面に表示された名前を見て、遼の目が見開いた。

「……もしもし」

 ためらいがちに出ると、少しの沈黙のあとで、ノブの声がした。

「俺」

「はい」

 また沈黙が走る。すると、いつもの咳払いが聞こえた。

「今日はすまない。結局、送ってやれなかったな」

「いえ、キラさんが送ってくれました」

 さっきのキスがよぎって妙にどぎまぎするのを押し隠しながら答えた。

「……そうか」

「あの、アイラさんは?」

「さっき、家まで送って来た」

「ノブさん、東京に行っちゃうんですか?」

 ぽろっと涙がこぼれ落ちる。一体全体、いつの間にこんなに涙もろくなったんだろうと思う。しかし、気持ちが溢れて追いつかないのだ。

 すると、ノブが「ばかだな」と笑っている。

「話を聞いてなかったのか? 行かないよ」

「でも、藍良さんは納得しますか?」

 ノブが「あぁ」と電話の向こうで頷いたようだった。

「俺にはまだ打てる手があるから、大丈夫だ」

 そして唱えるように繰り返す。

「大丈夫だよ。リョウ、大丈夫」

「はい」

 慌てて涙を擦ると、彼がふとこう言った。

「お前、明日は大学終わるの何時だ?」

「えっと、明日は三時には終わります」

「じゃあ、千歳駅に五時に来られるか? 話があるんだ」

「えっ? はい」

「じゃあ、ロータリーに迎えに行く。じゃあな」

「あ、ちょっと」と、慌てたものの、電話はプツリと切れてしまった。

「もう!」

 思わず口が尖るが、それでいて胸が膨らむ。携帯電話を握りしめ、ふふっと笑みが漏れた。

「初めて電話しちゃった」

 たったそれだけのことが、こんなにも嬉しい。「行かないよ」という一言だけで、ほっとしている自分がいる。しかし、彼の話が何なのかと思うと今度は重苦しさに包まれた。

 道場の看板を見ながら、遼は呟く。

「父さん。私はまだまだ強くなれないわね」

 本当の強さは力ではなく、心から。父はいつもそう言っていた。遼はノブのおかげで強くなった途端、脆くもなった。すぐ泣いたり、揺らいだり、本当の強さにはまだ手が届かない。彼女はため息を漏らして、玄関に向かったのだった。


 翌日、大学の学食で、千夏が「馬鹿ねぇ」と繰り返していた。

「なんでそっちを選ぶのよ。絶対、キラさんのほうが健全で安全だって!」

 口にハンバーグの欠片を放り込み、彼女は呆れ顔で息巻いてる。

「そのアイラとかいう女と妙な繋がりがあってきな臭い男よりも、断然優しいし、好いてくれるっていうんだからいっとけばいいでしょ! 本当、馬鹿ねぇ」

「いや、うん、でもね」

 遼が思わず苦笑しながら箸を置いた。

「自分に嘘はつけないし。気持ちをこうしてぐらつかせる人って、大事だと思うのよ」

 はぁっと長いため息を漏らし、千夏が頬杖をつく。

「んで、今日はその男と会うから化粧が濃いの?」

「え? そんなに濃い?」

「いつもよりチークがね」

 千夏は「しょうがないな」と、フェイスパウダーとブラシでうまく誤摩化してくれた。

「まぁ、化粧するようになっただけ進歩したよね。あんた、髪も切って綺麗になったって評判なの、知ってる?」

「本当に?」

「うん、ショートにしたらかえって女っぽくなったって」千夏がにやりとし、声を落とした。

「最近、美香が不機嫌なのはそのせいかな」

「太一とどうなったか知らないけれど、とにかくもう関わり合いになりたくないわ」

 千夏は鈴を鳴らすように笑っていたが、不意にその顔から笑みが消えた。

「……そうもいかないみたいね」

 振り返った遼は、思わず息を呑んだ。背後に立っていたのは太一だった。気まずそうな顔をして、遼を見下ろしている。

「ちょっと、いいか?」

「えっ? あぁ、うん」

 戸惑いながら頷くと、千夏が「いってらっしゃい」と野次馬根性丸出しの笑みを浮かべていた。


 学食を出ると、太一は辺りを見回してから、空いている講義室に滑り込む。

「ここなら誰にも聞かれないから」

 太一はそう呟くように言って、端の席に座った。遼は黙ったまま前の席に横向きに座り、太一の顔を見る。間近で彼の顔を見るのは別れ話をしたとき以来だったが、こんな顔だっただろうかと、思わず言葉を失っていた。彼はどこかやつれていて、生気がない。

「ごめん。いきなり」

「いや、いいけど。何か話でも?」

 ふっと太一が鼻を鳴らす。

「今更だよな」そう言って、遼の顔をじっと見つめた。

「……お前、綺麗になったな」

「自分ではそんなに変わったつもりないわ」

「うん、きっと、俺が見抜けなかっただけなんだ」

「何かあったの?」

 太一が少し躊躇った後、思い切って「お前、男できた?」と切り出した。

「はっ?」

「いるのか? いないのか?」

「本当に今更ね。どういうつもりよ」

「変な噂を聞いたから」

「何よ?」

 出回っているのは、綺麗になったという噂だけではないらしい。それがあまりよい噂でないことは、目を伏せた太一の顔つきが物語っていた。

「美香の先輩に、千歳のスナックでバイトしてる人がいてさ。お前が飲み屋街で男をとっかえひっかえしてるって教えてくれた」

「はぁ? とっかえひっかえできるほどモテたことないけど?」

 だが、心当たりがないわけでもなかった。ロータスの仲間と一緒にいるところを、誰かが面白おかしく言いふらしているのだろう。和久井あたりが食いついてきそうな話になっていると、ため息が漏れた。

「それで? あんたは私がそういう女だって思うわけ?」

「思わないよ!」

 思わず大声を上げた太一は、我にかえって弱々しく俯いた。

「……ただ、俺のせいでヤケになったのかって思って」

「ずいぶんと勝手な自惚れね。私、そんなに強くないけど、そこまで脆くもないわ」

「うん、だよな。ホッとした」

「ばかばかしい」

 ふんと鼻を鳴らし、頬杖をつく遼に、太一は「だよな」と苦笑いしている。遼はそのまま帰ろうかと思ったが、ふと、目を伏せてぽつりと言った。

「でも、心配してくれてありがとう」

 別れた後でも少しは心を砕いてくれたのだと思うと、ほんの少し嬉しかった。離れてから姿を思い描いたことがあるのは、自分のほうだけではなかった。どこか切ないが、それでも嬉しいには違いない。

「やっぱり、お前、変わったよ」

 太一が目を細めている。

「なんか、ちょっと丸くなった。前だったら『何言ってんのよ』って殴り掛かってきそうなくらい怒っただろうに」

「うん、私さ、ちょっと思ったんだ。素直になれなくて、太一に刺々しい態度をしていたかもしれないって。愛想がなかったって、少しは悔いたの。ごめんね。別れる前から本当は辛かった?」

 太一は何も言わない。けれど、それこそが返事だ。

「それじゃ」

 すっと立ち上がると、腕を掴まれた。太一が真顔で遼を見上げている。

「俺、お前が惜しいよ」

「ふざけないで。やっと吹っ切れたのよ。これ以上ひどい思い出にさせないで」

 それに、もう別の人が心に住んでいる。彼女はノブの顔を思い出し、思わずふっと笑ってしまった。それを見て、太一がゆっくり手を離す。

「美香とはうまくいってないの?」

「まぁな。潮時だと思う」

「そう。健闘を祈るわ」

 振り返ることはなかった。廊下に出て次の講義がある講堂に向かう。

 太一という男は、本当は弱いのだ。寂しがりやで自信がなくて、でもお人好しだった。遼はそれを知っていたはずなのに、自分の気持ちばかり優先してきたのだと痛感した。別れる前に、彼がどんな顔をしていたか思い出せもしないのだ。まるで梓にしがみつく相川のように。

 階段を駆け下りながら、ぎゅっと唇を噛み締めた。

 きっと、太一との航路はいっときは一緒だったものの、目指す港が違っていた。ただそれだけなのに、どうしてこんなに切ないのだろうか。人は別れに慣れることはないんだろうか。ふと、そんなことを思った。

 藍良の散らす火花、キラの思いがけない火花、そして太一の過ぎ去った火花。いろんな想いが絡まった火花が遼の胸を焦がす。だが、本当に欲しい火花だけは、さらに遠くに隠れて見ることすらかなわない。

 約束の五時までが、やたら長く感じた。


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