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バタフライプリンセス  作者: 深水千世
11/19

さなぎが割れる

 北海道にも遅い春の足音が聞こえてきた。道路の道幅を狭めていた雪はすっかりかさを減らし、あれだけ刺すように痛かった風が柔らかくなっていた。

 藍良は相変わらず姿を見せることもなく、ノブも何も言わない。それどころか誰もその話題に触れることがなかった。

 遼に訪れた変化といえば、仕事に慣れてきたことと、ビルの英会話教室が始まったことだった。開店前の三十分という短い時間でワンフレーズずつ覚えようというのんびりしたものだ。

「What would you like to drink?」

 ビルが見本を示せば、遼が「ほわっと、うっじゅうらいく、とぅどりんく」と、たどたどしく繰り返す。

 キラが傍らでケラケラ笑っていた。

「お前、発音ひどいなぁ」

「言語なんて、要は通じればいいのよ」

 ふくれっ面の遼に、ビルが「まぁまぁ」と微笑んだ。

「これはあんまり使わないと思うけど、keep the changeも覚える?」

「どういう意味?」

「お釣りはいりません」

「却下。こちらから言うことはないわ」

 ワタルが楽しげな遼たちを遠巻きに見ていたが、不意に話しかけてきた。

「リョウ、だいぶ慣れてきたね」

「はい。英語って意外と面白いですね」

「いや、ロータスに慣れてきたねって言ったんだよ。あれ、英語のつもりだったの?」

 ワタルは歯に衣着せぬ性分で、なおかつ皮肉屋だ。童顔に似合わぬ辛辣さを発揮するときがあるが、遼はそこが気に入っていた。

「だいぶ一人でカクテル作れるようになったしね」

「みなさんのおかげです」

 遼が面映ゆそうに言うと、ワタルがくいっと眉を上げる。

「違うでしょ。君の頑張りでしょ」

 そう言うワタルも、盛りつけのコツやちょっとした料理を教えてくれる。だが、自分たちの労力を顧みず、本人の頑張りだといたわってくれるのだ。

「ありがとうございます」

 心から礼を言った遼を、ワタルがじっと見つめている。

「何か顔についてます?」

 きょとんとすると、彼は「いや」と目を伏せた。

「なんでもないよ。さぁ、開店準備しようか」

 不思議な人だと、遼は首を傾げる。ワタルはいつも一歩引いたところから周りを見回している。彼の本音は誰にもわからないのだ。飄々とした言葉と態度はいつものことでも、このときは一層、何かをはぐらかされた気がした。

 しかし、たいして気にもとめず店を開ける。

 まだ少し距離を感じはするものの、ワタルともだいぶ話しやすくなってきた。そんな穏やかで平和な変化を嬉しいと思っていた頃、彼女がやって来たのだった。


 その日はノブとビル、キラ、そして遼のシフトだった。

 閉店間際、カウンターの端で眠り込んだ最後の客をキラが叩き起こしてタクシーに乗せる。

「今日はもう終わりだな」

 ノブがパラパラと伝票をめくりながら、そう呟いたときだった。

 扉が開き、背の高い女性がにこやかに入ってくる。顔立ちの派手な美人だった。

「いらっしゃいませ」

 声を上げたのはなぜか遼一人だった。きょとんとしてノブたちを見ると、穴があくほど女性を見つめている。

「こんばんは」

 彼女の声は落ち着きがあり、耳に心地いい。だが、ノブが厳しい口調でこう言い放った。

「ここには来るなと言ってあるはずだぞ、アイラ」

 遼がハッとして彼女を見つめる。藍良は飄々とした笑みを浮かべた。

「あら、一杯だけ飲んだら、おとなしく帰るわよ」

「……仕方ないですね」

 彼女を席に案内したのは、ビルだった。

「どうぞ、カウンターへ」

「ありがと。ビルは相変わらず紳士ね」

「いいえ、本当は飲まなくても、おとなしく帰っていただきたいんですけれど」

 ビルが珍しく嫌味を言うが、藍良はふっと笑うだけで席に着く。キラは黙りこくってカウンターの端から彼女の様子を窺っていた。

「どうぞ」

 遼がおしぼりを差し出すと、藍良がそっと微笑んで受け取った。

 藍良はとても魅惑的な女性だった。すっとした鼻筋と眉に男性的な強さがあるのに、その仕草や雰囲気は妖艶だから不思議だ。

「ありがとう。あなた、新しい子ね」

「リョウと申します。よろしくお願いします」

「そう、リョウさんっていうの。よろしくね」

 そう言うと、おしぼりで手を拭く。その指は細くてまるでピアニストのようだ。そんな藍良に、ノブがため息を漏らす。

「本当にしつこいな。もう関わらないって決めたはずだぞ」

 藍良はまるで猫のように涼しい顔をしていた。

「相変わらず冷たいのね」

「お前は相変わらず天の邪鬼だ」

 ノブが諦めたように肩をすくめる。

「……で、何を飲む?」

「そうね。ボウモアをいただくわ」

 ノブは飲み方を訊かずにロックグラスを手にした。いつもなら率先して腕をふるうキラとビルも、今はじっとそれを見つめているだけだ。

 藍良は差し出されたボウモアをくいっと傾け、満足そうに目を細める。

「やっぱり、美味しいわね」

「ウイスキーが好きなところ、変わらないな」

「たった一年じゃ人は変わらないわ」

「そうかな。一日で変わるのを見たことがあるが」

 それを聞いた途端、藍良がぴくりと眉を上げ、ノブを睨んだ。

「憎らしいところ、あなたも変わらないわ」

 ノブはくっと唇を歪ませ、「そうはどうも」と、笑う。カウンターで互いの腹のうちをさぐるような二人は、まるで、剣士が切っ先を突きつけてにらみ合っているようだった。

 先に目をそらしたのは藍良だった。そしてその目は店を見渡し、しまいに遼をとらえる。

「この店だって何も変わらないわ。ただ一つ違うのは志帆さん以外の女性バーテンダーがいるってことね」

 遼が会釈すると、藍良の形のいい唇がつり上がる。

「……素朴な子」

 馬鹿にされたのか、褒められたのかわからず、遼は呆けていた。妖艶な女性とはこういうものかと、藍良をしげしげと見つめる。その仕草や声色、視線が言葉にならない重圧を人に与えるのだ。美しさで見る人を従えてしまうような、そんなしたたかさがあった。

「アイラ、もう閉店だから、それを飲んだら帰れ」

 ノブの目は厳しく、ぞっとするほど冷たい。藍良は「意地悪ね」と呟き、財布から抜き取った五千円札をカウンターに置いた。「お釣りはいらないわ」そう言って席を立つと、ノブにちらりと視線を走らせる。

「少しは連絡を返してちょうだい。あまり私を惨めにさせないで欲しいわ」

 ため息と共に、ノブが首を振る。

「アイラ、お前が執着すればするほど、俺は逃げて行くだけだ。俺はあの頃も今も、ずっと一人だ。俺自身がそれを選んでいるんだから。わかるだろ?」

 藍良の唇が歪み、声もなく笑った。だが、その凄みは一瞬で消え、人なつこい笑みを遼に向ける。

「またね」

「あ、ありがとうございました」

 しどろもどろで遼が礼を言う間に、藍良の靴音が扉の向こうに消えた。その途端、ノブが更衣室の扉にもたれかかる。そして、そのままずるずると、カウンターの陰にうずくまり、まるで吐き気をこらえるように口元を手で覆った。

「ノブさん!」

 慌てて遼が顔を覗き込むと、まるで生気を吸い取られたように青ざめている。

「どうしました? 大丈夫ですか?」

「……あぁ」

 ノブの指の隙間から、長いため息が漏れる。キラが外灯のスイッチを手荒く消しながら、吐き捨てるように言った。

「もう店閉めるぞ。塩でもまいてやろうか、まったく」

 その声に遼が立ち上がろうとすると、くいっと腕を掴んで引き寄せられた。

「へ?」

 ことん、と遼の腕にノブの頭がのしかかる。彼は目を閉じ、「もう少し」と小さく囁いた。もたれかかる重みに言葉を失った遼の顔が、みるみる赤くなる。

「サボってないで働け!」

 キラがむすっとした顔で、ノブの頭をぺしりと叩いた。

「ひでぇな。やきもちかよ」

 ノブは何事もなかったかのように立ち上がり、モップを取りに行った。取り残された遼はぼうっとした頭でグラスを洗いにかかる。

 キラが唇を尖らせて「一体、藍良はどういうつもりだろうな」と言うと、ビルが半ば呆れたように肩をすくめた。

「そんなの、ノブに会いに来たに決まってるじゃない」

「連絡ないんだったら諦めろよな。鬱陶しい女だ」

 思わずビルがぷっと噴き出す。

「キラは本当にあの人が苦手なんだね」

 椅子を整えながら、キラが鼻を鳴らした。

「今日はもう一つ目的があったと思う」そう答えたノブの目が遼を捉える。

「えっ? 私?」

 グラスを洗っていた手を止め、遼は素っ頓狂な声を漏らした。

「あぁ。どこかで女性バーテンダーが入ったって噂でも聞きつけたんじゃないか? 俺の近くにいるもんだから気になって偵察に来たんだろう」

「そんな、困ります! 偵察に来られても」

 慌てる遼を見て、ビルが「あぁ」と頷く。

「それだったら、きっと僕たちと一緒にいるリョウを見たからだよ」

 駐車場でノブに抱きつく藍良を思い出し、ぐっと遼の胸が狭くなった。ノブが「はぁ」とげんなりした顔でぼやく。

「リョウ、気をつけろよ。あいつは面倒だから」

 そう言われても、どう気をつけろというのだろう。むうっと唇を尖らせていると、キラが刺々しく言い返した。

「ノブ、あんまり脅すなよ。お前がさっさと片をつければ済む話だろ?」

「わかってるよ」ノブが肩をすくめる。

 キラは遼に向かって「気にするな」と笑みを繕った。

 だが、遼は押し黙ってグラスをすすぐ。気にするなと言われても、気になるのだ。藍良は『素朴な子』だと自分を評した。もしかしたらノブに近づく危険もなさそうだと判断したのかもしれないが、いい気はしなかった。

 藍良は自分と同じような背格好なのに、彼女のような艶やかさも大人の雰囲気も遼にはない。神様はフェアじゃないと、恨めしい気持ちになる。

 グラスに残る口紅を、遼はむきになって擦り落とした。まるで心にべったりと嫌なものをつけられた気がして。


 その日の居残り練習は沈黙が重苦しかった。

 ノブはいつも以上に黙りこくり、遼もあえて何も言わない。ただ、練習に必要な言葉だけが飛び交う。いつもなら一時間はかかる練習だが、三十分ほどするとノブが「ストップ」と遼の動きを止めた。

「今日はもう帰ろう」

 その顔が浮かないのは、きっと頭の中に藍良がいるからだろう。そう思うと、遼は胸の奥がうずいた。

 帰り支度を始めたノブの背中に、「ノブさん」と、話しかける。

「アイラさんに気をつけろって言ってましたよね?」

「あぁ」

 手を止めて振り返った顔は不機嫌そうだった。

「あの、そんなに危ないんですか?」

 彼は軽く咳払いをし、ボトルを棚に戻しながらぼやくように言う。

「嫉妬深いからな。お前は今のところ、俺と一番長く時間を過ごす女には違いないし、誤解されても仕方ないからだ」

「藍良さんって、ノブさんのこと、本当に好きなんですね」

 思わずこぼれ出た遼の言葉に、ノブの動きが止まった。

「どうだろうな」

 彼の顔は歪んでいた。怒りというより、戸惑いと淋しげな影が浮かぶ。

「リョウ。俺はお前を巻き込むつもりはない。だから、お前からはアイラのことに首を突っ込まないようにな」

 その押し殺すような声には命令に近い響きがあった。

「ノブさんはどうするんですか? 連絡するんですか? 店にまた来たらどうするんです?」

 そのうち藍良と会うようになり、ノブの隣に彼女がいるのが当たり前になるのだろうか。そう考えただけで胸の芯が熱くなり、かぁっとした昂揚にとらわれた。

 その瞬間、遼は短い悲鳴を漏らした。ノブに両肩を強く掴まれたのだ。間近に迫った彼の顔は今まで見たことがないほど険しかった。

「……お前には関係ない」

 ずしりと重く、冷たい声だった。思わず身を震わせると、ノブが我にかえって手を離す。

 彼は背を向け、「これは俺の問題だ。だからお前に火の粉が飛ばないようにする。それでいいか」と、吐き捨てるように言った。

 遼の視界が、じわりとぼやけていく。肩にはじんじんとした痛みが残り、それを押さえる手がわなないた。

「……ひっ」

 思わず漏れ出た嗚咽に、ノブが振り返り目を丸くする。

「あぁ、その、すまん」

 謝って欲しいわけじゃない。それが声にならないまま、遼は首を横に振る。

 そのとき、ノブの両手が伸びて、ふわりと遼を包み込んだ。まるで壊れ物でも包むように優しく抱き寄せると、ぽんぽんと背中を軽く叩き、掠れる声で囁く。

「怖いよな。……ごめん」

 遼がびっくりして呼吸を忘れたときだった。不意に「お邪魔かな?」と、聞き覚えのある声が響いた。

 ノブと遼は弾かれたように離れ、声のしたほうを一斉に見る。入り口にもたれて二人を見つめていたのは、にやにやしているワタルだった。

「ワタルさん! どうしてここに? 今日、休みですよね?」

 慌てて涙を拭きながら訊くと、ワタルは手にした車のリモコンキーを揺らす。

「リョウ、家まで送るよ」

「えっ? いや、いいですよ。歩いて帰れますから」

「店を出たら女の子なんだからさ、そういうときは素直に『ありがとうございます』って言っておきなよ」

 ワタルはすたすた歩み寄り、ノブに「いいでしょ?」と、意味ありげな視線を送った。

「なんで俺に訊くんだ。勝手にしろ」

 ノブはぷいっと背を向け、サロンを外しながら更衣室へ消える。戸惑う遼に、ワタルが耳打ちした。

「本当はノブが送るつもりだったんだろうけど」

「えっ?」

「ビルから連絡があってね。アイラが来たんだって?」

 苦笑を漏らし、ワタルが肩をすくめた。

「ビルもキラも心配しているんだよ。きっと、俺が来なかったらノブが送ったと思うんだけど、それこそ誰かに見られて誤解されたら危ないから、俺の車に乗って行きな」

「藍良さんって、そんなに危険なんですか?」

「癇癪持ちだとは聞いている。それに、胸騒ぎがするからね。言う通りにしておいたほうがいい」

「でも、なんだか悪いです。私の家、そんなに遠くないのに」

 遼はこんなときですら素直に甘えられない自分に嫌気がさして俯く。そのとき、ノブが荷物を持って更衣室から出て来た。ワタルがそれを横目に突然、こう声を張り上げる。

「じゃあ、甘いもの食べに行こう」

「へ? 今からですか?」

「俺、甘いもの好きなんだよね。ファミレスにつき合ってよ」

 にっこり微笑むワタルが「いいよね? 決まり!」と強引に遼を更衣室へ押し込む。

「着替え終わるまで待っているから」

 そう言い残して扉を閉めると、ワタルはノブに向かってにんまり笑った。

「大丈夫だよ、ノブ」

「大丈夫の意味がわからん」

「そう? 本当はわかってるくせに」

 ノブはため息を漏らし、「好きにしろよ」と呆れ顔で出て行った。

 一方、更衣室で遼はベストをハンガーにかけながら、ワタルに感謝していた。きっと、自分が気にしないようにわざとあんなことを言ったのだろう。思えば、ロータスのみんながそれぞれの優しさの形を持っている。

 さっきのノブも、優しさゆえの行動かもしれない。遼はそう思い、俯いた。少なくとも、巻き込みたくない気持ちが本当だから怒るのだろう。

 ノブはワタルよりも、無愛想で何を考えているのかわからない。だが多分、本当は優しいのだ。居残り練習も、狼狽えている自分をなんとかしたくて申し出てくれたに違いなかった。それに太一のことを吹っ切れたのもノブのおかげだろう。太一を失ってぽっかりあいた穴を、ロータスのみんなが埋めてくれた。そのきっかけをくれたのは、他ならぬノブだ。なにより、あの『背筋を伸ばせ』と叱り飛ばしてくれたことが、遼にとって一番大きな転機となった。

 ワタルやキラ、ビルの傍にいるのは楽しい。ほっとするし、自分が自分でいられる。では、ノブはどうだろう。彼女はそう自分に問い、そして戸惑った。

 決して楽しくはない。仕事は厳しいし、誰よりも緊張する。言い方もつっけんどんで、もう少し優しく言えばいいのにとムッとすることもある。なのに、隣にいると嬉しいだなんて、おかしいだろうか。この人の隣にいられることが誇らしいと思うことを人は尊敬と呼ぶのかもしれない。

 遼はぎゅっと自分の肩を抱く。そうっと包み込むようだったノブの感触を思い出そうとすると、胸が痺れた。

 遼が泣いた理由は単に怒られたからでも、怖かったからでもない。『お前に関係ない』という顔をされて、悲しかったのだ。誰にも頼らず、一人で抱え込むノブが淋しいだなんてどうかしている。男と女の問題であり、第三者が口を挟むことではないのだから。

 頭ではわかっていても、心が首を振る。巻き込まれるならそれでも構わない。一緒に解決できるならいいのにと思えた。遼は巻き込まれた後の心配よりも、あの二人が一緒にいることが嫌だったのだ。

「これって、やきもちじゃない」

 声にならない声で呟き、ロッカーに頭をごつんと打った。掴まれた肩が、抱きしめられた体が、そして頬が熱い。

 こんなに重苦しい恋の自覚なんて生まれて初めてで、思わず愕然とした。


 更衣室を出てノブの姿が消えていることに気づいた遼は、安堵と寂しさを覚えた。ワタルがカウンター席から立ち上がり、ふっと目を細める。

「さぁ、行こうか」

 向かった先は車で十分ほどのところにある二十四時間営業のファミレスだった。真夜中の閑散とした店内で、遼は呆れ顔をしながらワタルを見つめていた。コーヒーのみの遼と対照的に、ワタルは巨大なステーキとサラダと大盛りご飯を頬張っている。

「よく太りませんね。その細い体のどこにおさまるんですか?」

「俺、燃費悪いんだよね」

 ワタルは涼しい顔で最後の一口を頬張り、店員に向かって「すみません、デザートお願いします」と声をかける。やがて空いた皿は下げられ、入れ替わりに大きなチョコレートパフェが届けられた。スプーンですくって頬張る姿が幸せそうだ。

「リョウはデザート食べないの?」

「太るからいいです」

「リョウはさ、もうちょっと肉つけてもいいよ」と、ワタルが遼の胸を見ながらにやりとした。遼は「女の土俵は胸じゃありませんから」と、仏頂面でストローの袋をいじりながら言い返す。ワタルとの掛け合いはいつもこんな調子だが、小気味よい。

 彼は半分ほどパフェを食べ進めると、「そうだ」と顔を上げた。

「いい機会だから言っておくね。藍良はノブの昔の女ってことになっているけど、噂よりちょっと厄介なんだ。だからもし彼女がちょっかい出してきたらフォローしてやってよ」

「ワタルさん、噂の真相を何か知っているんですね?」

「うん、まぁね。俺とノブは中学からの仲だし」ワタルはパフェの底に沈むコーンフレークをスプーンで突いている。

「まぁ、詳しくは言わないけど」

「事情がわからなければ、どうフォローしていいかわかりません」

「そうかもしれないけどね。俺さ、長い話って苦手だし。それに、ノブから話してないことを俺から話せないじゃない。でも、まぁ、アイラはしつこいから店にちょっかい出さなきゃいいなとは思ってる」

 そして、ワタルは遼の顔をじっと見つめた。

「特にリョウは逆恨みされないように気をつけて」

「ちょっと待ってくださいよ」と、遼がげんなりした声で抗議した。

「逆恨みって、なんで私が」

「……リョウって嫉妬したことないの?」

「へ?」

「嫉妬するには理由なんてないんだよ。一日のうち少しでも一緒にいるだけで妬ましくなって、ちょっとしたことで全てが疑わしくなって、自分のコントロールがきかなくなる。そんなこと、ない?」

 思わず遼は黙り込んでしまった。藍良の胸の内にどれだけ激しい恋慕が渦巻いているかと思うと、ぞくりとする。

「心に留めておきます。そういうのを見たことがないとは言わないし」

 脳裏に浮かんだのは、梓と相川のことだった。最初は純粋な好意だったものが、いつしか歯車が狂うことがある。

「頼んだよ」と、ワタルがパフェをまた口に運ぶ。アイスクリームはもう溶けかけていた。


 会計を済ませると、ワタルは車を走らせ、遼を家まで送って行く。車内は芳香剤の柔らかい匂いがし、ブラームスの交響曲が流れていた。

「ねぇ、リョウ。不気味に思われるかもしれないけどさ」

「はい?」

 ハンドルを握りながら、ワタルがぽつりと言う。

「……俺、見えるんだよね」

「まさか、幽霊?」

 目を丸くした遼に、彼はふっと笑う。

「霊感はないよ。ただ、その人の空気がね、ぶわって伝わるんだよ」

「オーラってやつですか?」

「それも大げさかな。色も形も見えないし、感じるだけ。不幸を呼び寄せそうなどよんとした重いものとか、カラッと明るい心地いいものとか、いろんな空気を肌で感じちゃうんだよ。んで、アイラはとびきり重くて嫌な空気なんだよね」

 彼は言葉を探しながら、ゆっくりと続ける。

「なんていうのかなぁ。アイラの目はギラギラしてるんだ。強いっていっても、自分へ向けた強さじゃなくて、他人に攻撃的なんだよね。口もいつも不満げで、自分に都合がいいことも悪いことも吸い寄せて、うまく吐き出せない感じ」

「……はぁ」

「だから注意がいると思うんだ。ノブとのことは男と女だから放っておくけど、なんかしでかしそうで危なっかしい」

 そこまで言うと、ワタルは突然、ふっと笑みをこぼした。

「……ねぇ、リョウ。俺が怖い?」

「へ?」

「俺、不気味じゃない? それに、何様って感じしない? よくその人を知りもしないで勝手にイメージ決めつけて」

「誰かにそう言われたこと、あるんですか?」

 ワタルは答えず、ただ乾いた笑みを口の端に浮かべる。彼は遼の目を見ようとしなかった。遼はその横顔に怯えを見いだし、静かに「いいえ」と力強く答えた。

「信じますよ」

「根拠もないのに?」

「ワタルさんが言ってるんだから、そうなんです、きっと」

 安堵の色がワタルの顔に広がり、嬉しそうに微笑んだ。

「やっぱり、リョウの空気は心地いいね。アイラの尖った強さとは違うんだよな」

「どう違うんですか?」

「凛としているよ。それに、明るくて朗らかだ。最初はちょっともやもやしてて、がむしゃらで不器用だったけど、最近は真っ直ぐ人を見るようになったよね」

 少し間を置いて、ワタルがこう切り出した。

「ねぇ、リョウ。人間関係には摩擦と音が生まれるんだ」

「摩擦と、音ですか?」

「そう。一人入れ替わるだけで新しい波紋が絶対生まれてしまう。それが不協和音か否かはその人たち次第だけどね。人はそこにいるだけでもう、音を鳴らすんだ。そして摩擦で熱を持って始まるものは勝手に始まるんだよ。君はさっき気づいたかもしれないけれど」

 思わず遼の顔がかっと赤くなった。彼は、ノブへの想いを彼女自身より先に知っていたのだ。

「俺、誰より何より店が大事なんだ。今のメンツのね。とても響きがいい。空気同士がうまく馴染んで心地いいんだ。だから、それを崩すものって嫌なんだよね」

 ワタルが飄々と話を続ける。

「俺が『この人、こんな感じかな』って思うと、大体当たるんだ。それが災いして人と接するのも空気で選んじゃう癖があるんだよ。だから、人と人の距離を縮めていくのが本当に苦手で」

 あぁ、と遼が頷く。ワタルは厨房にこもりっきりで、よほど忙しいときしかカウンターに立たない。以前、その理由をビルに訊いたときは「彼は会話が苦手なんだ」と答えていた。

「その癖がたたって、言葉が足りなくて、人を傷つけちゃうこと言ったりするんだ。それがわかっているからなるべく接客しないんだよ」

 車はすっと信号待ちで止まる。ワタルが遼を見つめる目には、ちょっとだけ悲しそうな色が浮かんでいた。

「リョウは見かけにコンプレックスがあったよね。でも、人は見かけじゃないって陳腐な言葉も、俺が言ったら信じられる?」

「……はい」

 遼は同じ背格好でも藍良と自分では印象が違うのを思い出していた。外見の問題ではなく、内側からにじみ出るものが違うのだ。

「お節介だろうけど、リョウはどっか昔の俺に似ているんだ」

 苦手なことから逃げて、自分が嫌いなままで俯いている。遼はそんな自分とワタルが重なって見えた。

「こんな俺にも心を砕いてくれる人もいるってわかったとき、俺は初めて救われた。それがノブだった。今では志帆さんも含めてロータスのメンバー全員が俺を救ってくれてる。リョウもそうじゃない?」

「はい」

「俺もね、このロータスにいるから少しずつ自分が好きになれている。こんなに俺が喋るなんて、学生時代じゃ想像もつかないんだよ。でも、人は変われるんだ。いつか志帆さんが君に言っていたようにね。だから、俺みたいに自分から逃げないで」

 ワタルの声は静かだが、凜としていた。遼は「ありがとうございます」と、呟いて微笑む。

「うん、覚悟ができたって空気だね。凛々しくていいな」

 そう言いながら彼はアクセルを踏み込んだ。


 翌日、遼は美容院に駆け込んだ。

 ケープを巻かれた遼はハサミの音を聞きながら、鏡に映る自分を見据える。フェイスラインが露わになって、すっと伸びた鼻筋や目の力強さがいつもより際立っていた。いつも憂鬱な気分で鏡から目を背けてきたことを思い出し、遼はずいぶんと自分自身を恥じてきたのだと気づく。

 ずっと、可愛らしい女の子が無敵だと思っていたはずだった。だが、スカートが似合ったり体つきが華奢だからといって、心や言葉が尖っていたらげんなりする。大事なのは心が丸いことだと、遼は思い始めていた。ロータスのメンバーのように大切な人を大切にできる心とそこから生まれる言葉や仕草が、自分の本当に欲しかった『可愛らしさ』なのだ、と。

 美容師が手に鏡を持って出来映えを披露する。鏡の中の遼は、あれだけ嫌がっていたショートヘア姿になっていた。美容師がほれぼれして鏡越しに話しかける。

「フェイスラインがとても綺麗に映えますね。すごくお似合いですよ」

 遼はふっと微笑んで礼を言った。

 美容院からの帰り道、ショーウィンドウに映る遼は、笑えてくるほどますます中性的だった。だが、気持ちは羽が生えたように軽い。自分の顔と体に一番しっくりくる仕上がりだったからだ。

 ワタルに会ったら「今日はやけにカラッとしているね」などと言われるだろう。遼を包んでいたさなぎの殻がぴしりと割れた音がする。その隙間から一番先に見えたのは、青空でも太陽でもなく、ノブだった。

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