これが、大樹・・・
・・・現在、石英の前には見上げども頂上の見えぬ世界樹があった。
あれから、結果25キロ程の距離を走り続けた。空間転移がこの世界では阻害されるらしい。
それに、世界そのものの存在密度が高い為、かなり疲れやすいのだ。
それでもたったの十二分で辿り着いたのだから、この身体の規格外具合が解るだろう。
「これが、大樹・・・。デカすぎねえ?」
余りにも巨大。まさしく、それは世界樹と呼ぶにふさわしい大樹だった。
———龍の巫女を名乗った少女は、どうやら此処には居ないらしい。では、何処に居るのか?
ふと、気付く。良く見ると、大樹の根元に人一人がようやく入れる程度の隙間があった。
「・・・・・・・・・・・・」
石英は何かに導かれるように、その隙間へと入っていった。特にこれと言った理由など無い。只、本当に何となくである。
何となく、その隙間に入るのが正解だと思った。それだけだ。
すると、景色は一変した。其処には一つの世界が広がっていたのだ。
決して比喩などでは無い。幻想的な、自然の豊かな世界。異界の風景。
空には太陽が輝き、数匹程の龍が飛んでいるのが見える。幻や夢などでは無い。本物の世界が大樹の中に広がっているのだ。流石に石英も愕然とした。
「なるほど、此れは確かに世界樹に間違いないな」
一つの世界を内包した大樹、世界樹。それは、北欧のユグドラシルの比では無い。
———なるほど、確かに此れは世界樹だ。
そう、石英は再び呟く。
それは世界樹としか言いようが無い。この大樹そのものが、恐らくは一つの世界なのだ。
石英は覚悟を決め、歩を進める。瞬間———
<・・・神殺しよ、何故そうまでして世界を救わんとする?>
突如、石英の脳裏に声が響いた。大賢者では無い。もっと無機質な、青年の声だ。
「・・・・・・・・・・・・・・・」
驚き、歩を止めたのは一瞬。そして、同時に納得した。
———なるほど、これが試練か。
石英はその声に構わず、歩を進める。今は断じて声に構っている場合では無い。早く、ルビを助け出さなくてはならないのだ。
<・・・・・・神殺しよ、世界にお前が救おうとする程の価値があるのか?>
「うるさい。僕は只、救いたいから救うんだ・・・」
石英はそう、吐き捨てるように言った。これ以上の問答は不要。これ以上答える気などさらさら無いという意思を籠めて。
石英はそのまま歩を進める。
<神殺しよ、ならばこの話はどうか?>
「・・・・・・・・・・・・」
石英は答えない。只、歩み続けるのみ。
しかし、声は相変わらず石英に語り掛ける。
<オリュンポスの神々を束ねる大神、ゼウスは天空の神であり、秩序の神だ>
「・・・・・・・・・・・・」
———これは僕を煽る為の罠だ。理解している。
石英は尚、声を無視する。しかし、それでも声は止まらない。
<しかし、秩序を司る筈の天空神ゼウスがその実、秩序を乱す問題ばかりを起こしていたというその事実をお前も知っていよう>
「・・・・・・・・・・・・」
それは、知っている・・・。
天空神ゼウスは偉大な神々の王であると同時に、かなりの好色の神でもある。それは、彼の浮気癖からも理解出来るだろう。
その浮気による被害は女神だけでは無く、人間の女性や人妻にも及ぶ。
<彼の最初の妻は智慧の女神、メティスだった。しかし、彼女は望んで妻になった訳では無い。彼女は無理矢理身籠らされ、妻とされた。そして、果てにはゼウスの都合によって子供ごと食われたのだ>
「—————————・・・」
ゼウスはかつて、メティスの子が男ならその子供に王位を奪われると予言された。
その予言を恐れたゼウスはメティスを頭から丸呑みする。その腹の子供ごと。
先代の天空神から王位を奪ったゼウスは、自身も奪われる事を恐れたのだ。そして、後に生まれるその子供が戦と智慧の女神、アテナだ。
<ゼウスの暴挙はそれに止まらない。人類を哀れんだプロメテウスが人類に火を与え、それを扱う方法を彼らに授けた時の逸話だ。これに怒ったゼウスは、彼のみでは無く無実の弟までをも巻き込み、人類全てを処罰したという>
「—————————」
それが、有名なパンドラの箱。神々によって遣わされた女神、パンドラにより人類に数多の厄災とわずかな希望が与えられた。
何も知らないプロメテウスの弟、エピメテウスは何も知らないパンドラを妻とした。
神々からの贈り物を受け取ってはならない。兄からの忠告を無視し、エピメテウスは様々な厄災の入った箱を持って遣わされたパンドラを妻にしたのだ。
その箱の中身を、エピメテウスもパンドラも知らないまま。
<パンドラは元より、人類を罰する為の神々の道具でしか無かった。単に、人類に災いを運ぶ為のゼウスの道具でしか無かった>
「・・・・・・・・・・・・」
———まるで、ルビのようだ。
石英はそう思った。思って、しまった。
気付けば、石英は足を止めていた。思わず止めてしまった———
<そう、ルビという少女もパンドラと同じだ。石化の王という一柱の大悪魔によって、死神という災厄を押し付けられた彼の道具>
「———っ」
石英は憤怒の表情を浮かべる。
今のは聞き逃せない。どうあっても、聞き流せはしない。
・・・道具。そう、今この声はルビの事を道具とはっきり言ったのだ。
しかし、それでも尚声は止まらない。
<もう一度問おう・・・。何故、お前は世界を救おうとする?世界にそれだけの価値があるのか?>
「それは———」
<人類に救済する価値など無いだろうに>
「っ、それは!!!」
人類も決して無罪では無い。それは、石化の王という悪魔を生み出した事からも解るだろう。
人類の悪意はとても深い。それは、人類が明確な知恵を得た時からの原罪だ。
嫉妬。憎悪。裏切り。強欲。略奪。人類の悪意に底など無い。
知恵を得た事が罪なのでは無い。知恵を得た事によって、悪意が生まれた事が罪なのだ。
その人類の悪意の深さは、数多の神話や伝承にも見られる。
巨人族とされ、存在を貶められた者も、竜として討伐された者も、元は人間だ。
侵略者を、或いは侵略された者を怪物として貶める事で、自ら正当と謳う。要は免罪符だ。
相手は怪物である、人間では無い。故にこの略奪も正当である。
古来、竜を討伐した英雄は必ずと言って良いほど竜の守っていた財宝を手にしている。それは、竜を討伐した後の略奪を意味している。
・・・そう、元を辿れば人間だった。全ては人類の悪意が生み出した結果だ。
<そう、人類の悪意は深い。ならば、即座に自滅するのが道理だろう>
「・・・・・・・・・・・・」
石英は考える。どうして、自分はこんなにも必死に世界を救おうとしているのか?
声の言う通り、人類の悪意は深い。そんな人類に、本当に救う価値などあるのか?
否、違う。そうでは無い。何故、自分はそれほどまでに世界を救おうとする?
何故、自分は人類を救いたいと思った?
それは———
<さあ、神殺しよ———答えを>
石英に、声は急かすように問う。対して、石英はゆっくりとその口を開き———
「・・・・・・なあ、お前は何故そこまでして僕を諦めさせようとしてるんだ?」
<・・・・・・・・・・・・・・・>
今度は声の方が黙り込んだ。石英は一つ溜息を吐くと、更に言った。
「まあ、要は僕はルビを救いたいだけ。ルビの生きるこの世界を守りたいだけなんだよ」
———只、ルビのような人間が居るなら、そんな世界も悪くない。そう思っただけだ。
只、それだけなのだ。本当は石英にとって世界の事だってどうでも良い。
ルビが居たから救いたいと思った。ルビが居たから、そんな世界も悪くないと思った。
只、それだけの事だ。
<神殺しよ、それが答えか?>
「そうだ」
<お前は、世界が憎くないのか?>
「少なくとも、今は憎くない」
<人類の悪業は、とても深い>
「知っている。それでも、人類はそれだけでは無い」
<・・・・・・・・・・・・・・・>
声は再び黙り込んだ。そして、石英は再び歩き出す。
もう立ち止まらない。立ち止まるつもりなど無い。
<・・・・・・そうか、ならば良し>
そう聞こえた、気がした。
だから、それに対して石英は答える。何処までも真っ直ぐな表情で。
「ああ!!」




