第1話 私があなたに告げる
「998……999……」
明かり一つない暗い部屋で、少年が錆びだらけの剣を振っていた。
「1000……1」
1000回を超えるとまた1回から数え直す。
毎日、淡々と、疲れ切って倒れるまで素振りを続ける。この素振りに明確な動機はない。
強いて言えば、それは恐怖や抵抗、そして強さへの憧れ。
「……2……3」
少年はただ剣を振る。
意味もなく、情熱もなく……。
◆
「おい! 急げ急げ! 今日のノルマは一人二十体ですよ!」
家畜や魔獣の解体処理場で、現場監督であるバグーという穢肉族の男性が、従業員に向かって怒号を飛ばす。
作業服がはち切れんばかりにでっぷりと膨らんだ腹を揺らしながら、牛の頭から唾を撒き散らしながら、バグーは多数の家畜が足に紐を巻きつけられ、肉塊となってぶら下げられている室内の中を歩く。
肉塊の傍らにはナイフや包丁を持った異種族の解体作業員がせっせと仕事に取り組んでいた。
バグーは彼らの様子を確認しながら後ろで手を組んで歩き……やがて最後尾に到達すると立ち止まる。
「カリウス? 私には貴様がまだ仕事を終えていないように見えるのだが」
バグーが巨大な肉塊の傍らに立っている作業員——カリウスに声をかけた。
人間種であるカリウスはここで働いている他の異種族より非力で小さい。解体に多少の遅れが出てしまうのは仕方のないことだった。
加えて。
「すいません。魔獣の解体に時間を取られちゃって」
カリウスが解体していたのは家畜でなく、魔獣と呼ばれる危険生物だ。解体には専門的な知識や技術が求められる上、家畜に比べて巨大だ。
まだ少年のカリウスでは上手くいない部分が多かった。
「なんだ、言い訳をするのか」
ドグーがきっぱりと言い放つ。
解体が大変な魔獣の処理を任せられようが。それでノルマが達成できず、ただでさえ低い給料が下がろうが、カリウスは首を縦に振るしかない。
『すいませんでした』や『分かりました』と言うしかない。
「人間種であるお前を、私たちは寛大な心で雇って、あまつさえ給料を支払っている。逆に感謝してもらいたいぐらいですよ」
「はい……」
カリウスはただ頷くことしかできない。
これで丁寧さを犠牲に速度をあげれば、ドグーからいちゃもんをつけられる。かといって丁寧にやったら時間が足らない。
(はぁ……)
いつものこと。
丁寧さも速度も両立させればいい。
できるまで努力すればいい。
それが人間の、カリウスにできることだ。
◆
その日の夜、仕事を終えたカリウスは巨大な塀に背を向けて座り込んでいた。もうすぐで冬が来ると言うこともあって少し肌寒い。すでに日は落ちて周りは暗い。街灯の明かりもほぼ無くて、唯一、カリウスのいる場所だけが明るく灯っていた。
光の発生源はカリウスが背中を預けている塀の――さらにその向こう。内側から漏れ出していた。左右を見渡してみれば二メートルはある塀がずらりと並ぶ。中が一切見えないように扉一つない設計だが、唯一、カリウスのいる場所だけが網目状で、中の様子が見えるようになっていた。
淡い光を背中に浴びながらしばらく待っていると、塀の内側から聞こえた足音を聞いてカリウスが振り返る。
「ミカエル」
塀の隙間から中を見て、そこに立っている同年代の少年——ミカエルに声をかけた。声を聞いたミカエルも同じように中を覗き込んでカリウスと目があうと、笑顔を浮かべる。
「久しぶりっ、カリウス」
声を高鳴らせてミカエルが挨拶を返すと、カリウスも笑って返事した。
「久しぶりってほどでもないだろ」
カリウスとミカエルはこの塀越しに一週間に一回話し合うだけの関係。
ただ、それだけの相手。
「あれ……ミカエル、その怪我は」
塀越しに見えたミカエルの体には包帯が巻かれ、血が滲んでいた。なぜミカエルがその状態なのか察しつつも、カリウスは敢えて訊いた。
ミカエルは一度自らの体を見て、それから包帯の部分を軽く摩りながら苦笑交じりに説明する。
「今日の試合相手が強くて……掠っただけなんだけどね」
「またか」
「また、だね」
二人は軽く笑い合う。
ミカエルはこの壁の内側で剣闘士をしている。中には巨大なコロシアムがあり、そこがミカエルの仕事場所だ。
「あとどのくらいなんだ」
カリウスが塀に背を預けてミカエルに尋ねる。
奴隷だったミカエルは買われて剣闘士になった。借金を返済し終わるまで剣闘士の生活が続く。しかし終わりが来ない……ということでもない。
「あと二年」
いつ辞められるのかを常に考えていたミカエルはすぐに答えられた。
「もうここから逃げたいよ」
そしてすぐに弱音を吐いた。常に死の危険性が伴う剣闘士と差別されども命の危険はないカリウスでは状況が違う。それに実際にコロシアムで戦った姿を見たことがないカリウスは勝手なことが言えない。
しかし一つだけ知っていることがあった。
「でも、できないんだろ」
「まあね」
ミカエルが首の後ろの辺りを摩りながら苦笑する。
「縛環族の刻印だったっけ」
「そう、合ってる」
ミカエルの首筋には奴隷契約の差異に縛環族の民が刻んだ刻印がある。
この刻印のせいでミカエルは塀の外に出ることができない。この時間に監視も無しで塀の傍まで来ているのは刻印が関係しているところが大きい。ただ自由に動き回れるというわけではなく、試合の日だけ特別に自由時間が伸びているだけだ。
少し陰鬱な無駄話をしていてもいいが、ミカエルとしては別の話題に移りたかった。
「あ、それよりも。早く聞かせてよ」
「そう急かすなよ。まだ時間はあるだろ」
カリウスが苦笑する。
苦笑しながら、カリウスもミカエルも塀に背中を預けて座り込んだ。
「何度も言ってるが、俺の立場じゃ、あんまり面白いことは話せないぞ」
「いいんだよ、僕はカリウスが話す『外のこと』が好きなんだから」
「物好きというか……何というか……」
ミカエルは物心つく時からコロシアムにいた。当然、外のことは何も知らない。客席で騒ぎ立てる異種族共や対戦相手だけが情報源。殺し合いをしてきたミカエルにとって同じ人間種であるカリウスだけが、外のことを教えてくれるただ唯一の友人だった。
「そうだな……」
二人して手の届かない場所で鬱陶しく光り輝いている星々を見上げながら、カリウスはゆっくりと語り始める。
話し飽きた解体工場のこと。
最近できた店のこと。
差別されてご飯が買えなかったこと。
家に勝手に誰かが入ってきたこと。
家に帰ったら玄関扉が無くなっていたこと。
解体していた魔獣から出て来た寄生虫のこと。
ドグーとかいうクソ野郎のこと。
悪口、珍事件、笑い話……週に一度だけ何時間とカリウスは語り紡ぐ。夜が深まるにつれてより冷えてくるのを体感しながら、塀に背を預けて星を見上げて、苦笑交じりに……あるいは思い出し笑いをしながら、カリウスは話し続けた。
ミカエルはそんなカリウスの話に相槌を打ちながら、時より自分も剣闘士としてコロシアムの中で起きたことを少しだけ話す。大きな笑いが起きるわけでもないし、これといった変化が訪れることもない。
しかし彼らは毎週のように集まって、ここで背を預け合って話しをするのだ。
「……もう夜遅いんじゃないか」
時計が無いため正確な時間は分からない。しかし何年と同じことをしてきたこともあって、体感でどの程度時間が経過したか分かる。
ミカエルも「そうだね」と言って話しを切り上げた。
そして二人して立ち上がると最後に塀の隙間から互いに目を合わせた。
「それ、いつも付けてるよね」
ミカエルが塀の隙間から向こう側を見た時、月明かりに反射してカリウスの指にはめられた指輪が輝くのが見えた。
「ああ、これな」
カリウスは右手にはめられた指輪を軽く左手で触る。
「肌身離さずって言われたからな」
「誰に?」
「あれ、昔のこと話してなかったっけ」
「え、聞いてないよ?」
何年もこうして話してきて身の上の話をすでにしていると思っていた。ミカエルの反応を伺うに、それはカリウスの勘違いだったらしい。
「別に話してもいいけど、もう時間遅いぞ」
「いいよいいよ。少しぐらい遅れても何も言われないから」
「それに別に楽しい話じゃないぞ?」
「カリウスが話せることなら、なんでも聞きたいな」
そう笑うミカエルを見て、カリウスは『仕方ない』とため息をつきつつ「分かったよ」と言って話し始めた。
◆
数年前、カリウスは現在住んでいる都市の遥か西側にある森の中で、人間種の集団と暮らしていた。
森の中を歩くのはカリウスを含めた十数人程度の集団だ。皆大人でカリウスともう一人しか子供はいない。
「西の森へ、西へ、西へ、きっと」
集団の中でカリウスの母を自称するキッコという女性は、度々、呪文のようにカリウスにそう語り掛けていた。
「きっとあるはず。西の国。リードゥの教え」
カリウスたち人間種に対する差別がこの頃は強く、都市での生活を許されなかった。もし殺されたとしても司法が見向きもしないこともあり、逆に異種族から離れて暮らす方が良いことさえある。
カリウスたちはそうして都市から逃げ延びた者達が集まってできた。
彼らの目的はただ一つ。
「希望の国。人間種の国」
カリウスが以前住んでいた都市で、人間の間で流行った都市伝説に近い噂。西の国という人間種の国があるという言説。
穢肉族の国や骨獣族の国など、異種族の国はあれど人間種の国はない。人は散らばり、異種族の社会構造からはじき出されていた。
そんな彼らにとって人の国があるという噂は、疑わしくも縋りたくなるようなものだった。
「カリウス……いい、あなたは選ばれし子なの」
森の中を歩きながらキッコはカリウスに語り掛ける。キッコはカリウスの肉親ではない。逃げ延びた人間たちがこの集団を形成する中で、自然と親子に近い関係が形成されたに過ぎない。
「あなたを森で見つけた時、まさにリードゥが言っていた子だと思ったの」
キッコたちの集団がある程度形成された頃に、カリウスは森の中で彼らに発見された。
カリウスにはキッコたちに見つけられる前の記憶はない。しかし手に残った鎖の後や足枷の後からどのような扱いを受けていたのかは容易に想像できた。
自己防衛のために無意識下で記憶を手放したのだろうと集団は考えた。しかしキッコだけは『予言の子』、『救世主』と言って聞かず、カリウスを抱きかかえたまま動かなかったという。
正直、キッコは精神的にすでに壊れていて、皆もそれを知っている。しかしカリウスに意味の分からないことを語り掛けようと、『西の国へ行く』という志を同じくした仲間であることには変わりなかった。
「あなたは……」
「キッコさん」
キッコがカリウスに語り掛けていると、それを制止するように男が声をかける。
「この辺で休憩にしましょう」
「……そうですね」
話しかけられて一瞬だけ空白が空いた後、キッコはすぐに笑って返事する。
「分担して食料と水を集めましょう。近くに川があるはずです」
「……分かりました」
男はキッコの後ろにいるカリウスたちに視線を向ける。
「あなたたち二|人は少し休んでいてください」
カリウスが無言で頷くと、後ろから元気溌剌な声がした。
「私、手伝います!」
振り向いてみるとカリウスよりも一つか二つ年上の少女がいた。
「この通り! 元気ありあまってます!」
「ははっ。いいね。だけどこれからのこともある。君たちは今は休んで……そうだな。じゃあ次、手伝ってもらおうかな」
「はい!」
聞き分けの良い子だ、と笑顔で頷きつつ男はキッコに一言告げてから水を取りに行く。
他の大人たちはテキパキと仕事に行ってしまって、この場に残されたのはカリウスと少女のみ。
「疲れたねー」
「う、ん」
少女は快活な笑みを浮かべると木の根に腰を預けて、カリウスも横に座った。
「ねぇカリウス」
「な、に?」
「私達、今どこまで来たと思うー?」
どこまで来たか……西の国まであとどのくらいか。
カリウスには分からなかった。
毎日森の中を歩いたり、街に少しだけ出たり、また歩いたり。もう何十日も歩いてまだ西の国には辿り着きそうにない。まず、そもそも本当に西の国があるのか。ハナからそんな幻想は存在しないのでは。
過去の記憶が無く、西の国の噂についてもキッコたちに保護されるまで知らなかったカリウスには、その存在そのものが疑わしい。きっと、キッコたちもそれが分かっている。しかし彼らはもう信じて、縋ることしかできない。
「エマ……おれは」
「無いと……そう思ってるんでしょ?」
「……うっ」
少女――エマに内心を見透かされたカリウスが声をあげる。
「あははっ、何その顔。そんな深刻そうな顔しなくてもいいのに」
「だって」
皆、西の国が無いかもしれないという不安がある。カリウスの言葉一つで不安を焚きつけるのは良くない。
「皆、私を含めて弱くて強いの。疑いながら歩いて来て、結局ありませんでした……って結論になっても……最初は凹むだろうけど、きっと大丈夫。西の国がなくても、私たちは人間種の仲間を見つけたから」
志を同じくした仲間たちの存在は、人間種の国である『西の国』と同じくらい大切で重要なもので、きっと新たな精神的支柱になってくれる。たとえ『西の国』が無くても、仲間がいれば大丈夫。
エマは満面の笑みで突拍子のないことを、しかし確かに納得できる言葉をカリウスに投げ掛けた。
「……う、ん」
カリウスはその言葉に悩みつつも静かに頷いた。そんなカリウスを見てエマは満面の笑みで頷くと一つ訊いてみた。
「ねぇ」
「な、に?」
「ずっと気になってたんだけど、その指輪はなに?」
エマが視線を向ける先にはカリウスの右手の指にはめられた指輪があった。
カリウスは一度指輪に視線を向けると、左手で軽く触りながら答える。
「キッコさんに貰った。神遺》だって……肌身離さずつけておきなさいって」
「へぇ……」
まじまじとキッコが指輪を見つめる。
翡翠色に黒色が混じったような、装飾一つない銀の指輪。不思議と吸い込まれる。
「キッコさんの?」
「いや、なんかリードゥって人に貰ったって」
「またリードゥ?」
キッコが苦笑を溢す。キッコさんの口からはよく『リードゥ』という人の名前が出るけれど、聞いても答えてくれない。けれどよく口に出す。よく分からない人物だ。
「そう、また」
「だね。なんでキッコさん貰った指輪をカリウスに渡したんだろ」
「救世主だから……って言ってたよ。『いずれこの『剪定の指輪』はあなたに多大なる力を与える~』とも言ってた気がする」
「ふうん。『剪定の指輪』ね」
訝し気な視線でエマが指輪を眺める。しばらく眺めてから糸が切れたように首を傾げると漠然として言葉を呟いた。
「うん、でもすごそう」
「そうかな」
カリウスもよく分からないので首を傾げて曖昧に肯定した。そして話が一段落したところでエマが周りを見渡す。
「遅いねー」
「だね」
カリウスとエマは森の中で二人きり、軽く笑い合いながら話し合う。
西を目指して。
◆
「ここから先は聞きたいか?」
ある程度、過去のことを話し終えるとカリウスがミカエルに尋ねた。もう夜も遅いし、ここから先の昔話はあまり面白くない。
「いや……」
「だよな」
ミカエルが答えるとカリウスは苦笑を溢した。
昔話に出て来たキッコもエマも、西の国を目指す集団の誰一人として現在カリウスの傍にいない。つまりは……様々な予測が思い浮かぶが、そのどれもがあまりよい結末ではない。
カリウスがあそこで話を止めたのがその証左だ。
「なんかごめんな」
週に一度しか会うことができないというのに、随分と暗い話をしてしまった。もう別れる予定の時刻を大幅に過ぎてしまっている。
「いや全然、知れてよかったよ」
ミカエルは思うところがありつつも、まだその思いを言語化できなかった。ひとまず持ち帰って考えてみたい、ミカエルはそう思ってカリウスが余計に心配しないよう笑顔を浮かべた。
カリウスはミカエルの気遣いに気がつきながら、意図を汲んで知らないふりをする。
「じゃあ、また来週」
「うん、同じ時間に」
◆
(なんか、嫌な別れ方しちゃったな)
家へと帰る道のりの中で、暗い街中を歩きながらカリウスは反省していた。ミカエルは剣闘士でいつ死ぬかも分からない。もしかしたら、来週カリウスと会うことができないかも知れない。
それが明日の試合でない保証はどこにもない。
だからこそ、いつ会えなくなってもいいよう別れていた。しかし今日ばかりは、話が一段落つく前に分かれてしまった。色々と心残りがある。このことは無理に忘れようとせず、存分に引きずって悩んでから、それから前を見よう。
「……ふぅ」
早朝から夕方までの労働で体は死にそうなほど疲れている。ミカエルと話すのは楽しいけれど、寒い中でずっと会話するのは疲れてしまう。もうへとへとだ。さっさと家に帰って……今日はすぐに眠れるかもしれない。
そうして体を右に左にふらふらと揺らしながら歩いていると前から一人の異種族が歩いて来るのが見えた。今歩いている道はあまり幅がなくて、彼らが横に広がって歩いているとどうしてもぶつかってしまう。
カリウスは一度立ち止まって、壁が少しだけ窪んだところに体を押し当てて彼らを先に通してから通ることにした。もし人間が我先に通ろうとすれば、すれ違いようなものならばいちゃもんをつけられる。
だから端で物のように固まってやりすごす。
見たところ穢肉族だ。手に持った酒瓶や千鳥足で歩いているのを見るに、相当酔っている。ああいう輩には近づかないが吉だ。
端によって彼らが通り過ぎるのを待つ。
「――ッチ。ったくためぇなにぶつかってきてんだぁ?」
カリウスは一歩も動いていない。しかし彼らがわざとカリウスのいる方へと寄って来て体をぶつけた。
「……すいません」
カリウスは内心で苛立ちながらもすぐに頭を下げた。
「すいません……? そうじゃねえだろうがよ。穢肉族様にぶつかっておいて謝っただけで許されるわけねぇだろが!」
頭を下げたカリウスの頭に衝撃が走る。直後、酒瓶が砕け散る音が鳴った。
「っが」
後頭部を酒瓶で殴られたカリウスは意識を一瞬手放して地面に倒れた。だがすぐに意識を戻して、地面に這いつくばりながら謝罪の言を口にする。
「すいません……ごめんなさい……」
「何言ってんだぁ? 聞こえねぇなぁ!」
髪を掴まれ引っ張られ、頭が持ち上がる。そして穢肉族は手元のナイフをカリウスの喉元に押し当てた。
「俺は別によぉ。謝罪が欲しいんじゃ、ないんだわ。何か分かるか?」
「……お、おかね……」
「そうッ! 金だ金。ちと今日使い過ぎちまってよ。このままじゃ嫁さんに怒られちまう。だからちょっとぴり、いや、今持っている分全部でいいから、俺に貸してくれよ」
「……は、い」
「そう、それでいいんだよ」
「で、でも。もってな――」
「でもぉっ?!」
ナイフの刃が今度は強く押し当てられた。
「ねえんなら服でもなんでもよぉ! 代わりになるモン寄越せってんだよ!」
唾をまき散らしながら叫ぶ穢肉族はカリウスの指に煌めくものを見つける。
「お、なんだこれ」
穢肉族がカリウスの右手の指にはめられた指輪をまじまじと見る。
「綺麗だなぁ……なんで人間のお前がこんな高級そうなモン持ってんだ?」
「……」
「あ、そうだ! 嫁さんの土産にしよう! そうすれば怒られねぇ。ってことで」
穢肉族がゆっくりと指輪に手を伸ばす。カリウスは喉元にナイフが押し当てられながらその光景を見ていた。黒く汚れた爪の太った指先が薄っすらと輝く指輪を触ろうとしている。
(キッコさん……エマ……)
カリウスが唯一、過去を思い出すことができる大切なもの。同時に過去に縛り付ける功罪の証。
到底、誰かに盗まれることは許容できない。
「あれ……」
気が付くとカリウスは穢肉族からナイフを奪い取って後頭部に突き刺していた。
本当に意識も記憶も無い。
気が付くと、穢肉族が後頭部から血を流していて死んでいる。
「あ……あ」
握り締めた血だらけのナイフを見て、自分が何をしたのか……何をしてしまったのかにカリウスが気が付いた。
人間種だとか穢肉族だとか以前に、殺しはまずい。
「おれは、だって」
あの状況ではこうするしかなかったと、自分を無理矢理にでも納得させようとする。しかし、目の前で起きた事態をすべて飲み込むことは当然できなかった。
「ど、どうしよ」
自首……という言葉が浮かんだ瞬間に、カリウスは自分でそれを否定した。当然だ。もしかしたら自分が殺されるかもしれなかったのだ。これは正当防衛だし、仕方のないことだ。
しかし法は許してくれない。
「……あ、ああ」
状況を受け入れることができるはずもなく、自らの生を諦めることができるはずもなく、カリウスは駆け出した。
誰かが来る前に、誰かに気が付かれる前に。
逃げて、逃げて。
それから……。
「なんで、なんでだよ!」
逃げたところでどうすればいいのかなんて、カリウスに分かるはずがなかった。
◆
「はぁ……はぁ」
家に戻ってきたカリウスが暗い部屋で荒れた息を整える。手には血液がべっとりとこびり付いたナイフが握られていた。動転しながらもカリウスはナイフの血を適当な布で拭ってそのままくるむ。
そして逃げるように部屋の隅に行くと、壁に立てかけて置いてあった錆だらけの剣を持った。
むき出しになった金属の柄を握ると、手のひらの熱が逃げていく。
恐怖心が薄れていく。
「はぁ……」
息を落ち着かせた。
あの裏路地にはカリウスと穢肉族以外に誰もいなかった。明日以降に、もしかしたらもう死体が発見されているかも知れない。
しかし、カリウスに辿り着く決定的な証拠はない。現状、カリウスが現場に証拠品の類を残していなければ殺害は露呈しない……はずだ。
(何も……落としてないよな)
剣を抱き抱えながら所持品を確認する。カリウスはミカエルに会いに外に行っていただけなので、金を含めた大事なものは何一つとして持ち歩いていなかった。当然、現場に残っているモノは一つもない。
穢肉族の死体とカリウスを結びつけるのは相当難しいはずだ。
どう逃げ切るか……すでにカリウスの頭には自首しようという考えはなかった。
「……大丈夫だ」
剣を握って立ち上がる。
心を落ち着かせるために剣を構えた。皆と別れてから毎日のように思い出す。夜、一人でいるとうなされる。
だから。
気絶するまで剣を振る。強くなりたいだとか、そういった理由じゃない。心臓の裏側をなぞられるような不安を消すためだ。今日も同じ。
殺人という罪から逃避するように、カリウスは剣を振るう。




