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「さようなら」の後は、  作者: 汐月 羽琉
第一章 邂逅
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掻き乱すふたつの言葉

 魔法の手が魔法の絵を生み出す。その様子をずっと眺めていたかったけれど、そろそろタイムリミットが近づいていた。

「……和馬、さん」

 声をかけるのは躊躇われるも、しばらく迷ってから声をかける。和馬さんはそれに顔を上げ、「ん?」という感じで微笑んだ。

「……私、そろそろ帰らないと」

日が傾き始め、いい加減にして使用人たちと連絡を取らないと本気で警察に届け出をされかねない。そんなことになったらまた面倒だ。確実に父の耳にも入る。

『そっか。女の子だし、暗くなったら危ないよね。送るよ』

「大丈夫! 迎え、すぐ来るから……!」

 立ち上がろうとする和馬さんを慌てて制す。そこまでしてもらっては申し訳ない。勝手にやってきて、勝手に彼の作業を眺めていただけなのに。

 そんな私を見て和馬さんはきょとんとした後、穏やかに笑った。

『いいんだよ。どうせおれも家に帰るんだから』

「……でも」

『いいんだって。女の子を一人で行かせるわけにはいかないよ』

 ね? というような微笑みを向けられ、言葉に詰まる。結局もっともらしい言い訳は出てこないし、確かに一人で歩くよりは心細くないし、素直にお礼を言うことにした。

『ううん。じゃあ行こうか』

 優しげに笑って歩いていく和馬さんの後を追う。

 ――森なんて永遠に抜けなければいいのに。

 そんな馬鹿みたいなことを思った。でも、歩いている限りいつかは出口が訪れるに決まっていて。少しずつ木々は減っていき、細い道に出た。

 またしばらく歩くと、今度は人通りが多い道に出る。それに気づき、私は和馬さんを見上げた。

「もうここまでで大丈夫です。ありがとうございました」

 一礼すると、彼は元々浮かべていた笑みをますます深くする。

『ううん。本当に大丈夫?』

「はい。ここまでくればもう人通りも多いですし」

『そっか。じゃあ気をつけてね?』

 念を押すように、身を屈めて私の目を見る。

 彼の背はそこまで高い方ではない。覗き込まれるようになったのは私が小さいからだと思うが、何と言っても距離が近い。でも、これぐらいの距離、ダンスなどで慣れているはずなのに。なぜか心拍数が上がって言葉に詰まりそうになったが、懸命にこらえて笑った。

「はい。ありがとうございます」

 和馬さんはそれにまた目を細め、大丈夫だよ、とでも言うように首を振ってくれた。

『じゃあおれは戻るね』

「はい。――あっ」

 ルーズリーフの文字を見て一度は頷きかけたのに、踵を返そうとした彼を思わず呼び止めてしまった。和馬さんは不思議そうにして私を振り返る。

「え、と……」

 ぎゅっと唇を引き結んで、言いたい、けれど言えない言葉が喉元に引っかかっているのを感じる。訊きたいことは確かにあるのだけれど、迷惑になりはしないだろうかと迷ってしまう。

 だけど彼が柔らかく笑んでいて、急かさないでただ待ってくれているのが、嬉しくて。背中を押されて。

「……明日も、あの場所にいますか……?」

 勇気を振り絞り、できる限り声を張って尋ねた。恐る恐るで声は震えていたけれど、伝わったと思う。言葉自体も、意図するところも。「あなたにもう一度会ってお話がしたい」って。

 その証拠に、和馬さんは一瞬驚いたように目を見開いて――でも、すぐにしっかりと頷いてくれたから。微笑みを浮かべたまま。

 ほっとして、強張っていた表情が緩む。

 彼はぽんぽんと私の頭を撫でてから、「また明日、あそこでね」と書き記してくれた。

「はいっ」

 小学生の言うところの『いい返事』みたいな私の返事を聞いてか、声が出ないながらも喉を鳴らして面白そうに笑った和馬さん。ひらひらと手を振りながら歩き始める。

 学校の教師たちが見たら「はしたない」と眉を顰めそうなほど、私は勢いよく手を振り返す。彼も何度も何度も振り返ってはひらひらとさせ続け、それは彼の姿がしばらくして完全に見えなくなるまで続いた。

 訳も分からぬ寂しさに襲われながら、挙げていた手をゆっくりと下ろす。まだそこに彼の姿が見えるようで、通行人たちに邪魔そうな顔をされながらも、私はかなりの間その場に立ち尽くしていた。

 だがいつまでもこうしているわけにはいかない。

 ふぅ、とため息をつく。使用人に連絡を取るため携帯電話を取り出そうとしたら、私のすぐ傍の車道に、見覚えのある黒塗りの車が停まった――うちで使っている車と同型の。

 目にした瞬間に凍りつくと同時、使用人たちに今の場面を見つかったか、と胃が縮こまった気がした。足が地面に張り付いたようになって、動けない。

 そんな私を尻目に、小さく音を立てながらパワーウィンドウが開いていく。

 もうお終いだ、と瞼をきつく閉じようとする、その寸前。


 中からひょっこりと顔を現したのは、私のよく知る人物だった。


「いたいたぁ、ゆかちゃん」

 当然、私のことをそんなふうに呼ぶ使用人はいない。金髪に碧眼の綺麗な顔をした少年が、ほっとしたような笑顔を浮かべてこちらを眺めている。

「ひさ……」

 驚きに目を見張る。

 忙しいはずの彼が、何ゆえこんなところに? 口が間抜けに開いていく。

「どうして……」

「話は後にして、とりあえず乗ってぇ? 逃げてるんでしょ?」

 彼が言いながら合図を送るのに合わせ、助手席からひとつの影がひらりと降りてきた。

「お乗りください、ゆかり様」

 黒いスーツにしっかりとネクタイを締め、長い黒髪をきっちりひとつに結い上げた少女が、私に向かって微笑みかける。流れるような動作でドアを開ける仕草は、とても手馴れている。

 迷っていると、焦れたように少年の方が声を上げた。

「まだ見つかりたくないんでしょお? 早く!」

 その言葉に抗うことも忘れ、というか半ば引きずられるように車に乗り込む。隣のスペースを空けて待っていてくれた少年は、ますます安堵したような表情になった。

 私がそれを確かめている一方、ドアを閉めた少女は元々乗っていた助手席へと戻っていく。

 「とりあえず、よかったぁ……誘拐でもされてるんじゃないかって、心配してたんだよぉ」

 今は誰もいないけれど、対面式となるように後部座席のシートが3人分ほど設置された、広々とした車内。同じ車であるだけあり、目に飛び込んでくるのはよく見慣れた風景だ。

「心配させたならごめん……助けてくれたみたいだし、ありがと。でも、どうしてあそこに? ひさ」

 私がいなくなったこと自体は使用人から連絡でも行ったのかもしれないけれど、あのようなベストタイミングでなぜ現れることができたのか分からない。首を傾げて尋ねる。

「さあ何ででしょーぉ?」

 くすくすと楽しげに笑う『彼』は、私の幼なじみだった。

 宮苑みやぞの久弥ひさや。宮苑グループ次期代表で、某有名私立校の高3生。

 彼の通う学校も幼稚舎から多くが持ち上がるが、私の通う女子校のように家のネームバリューひとつで入れるところとは違う。相当学力面でも力がなければ入れないし、在籍し続けることもできない。

 立場としてはよく似ているはずなのに、あまりの違いがあって少し悲しくなってくる。

 似ている、というのは、ちゃんと理由があって。私の家の上條は、確かに村田コンツェルン傘下で第一位を名乗ることを許されているのだけど、その許しが出ている家はもうひとつあるのだ。

 それが彼の生家――宮苑。

 つまりお互いに、第一傘下の家に生まれた子供、なのである。

「こんなことして大丈夫? 代表、また怒るんじゃないの……?」

 私の上條と彼の宮苑は、すこぶる仲が悪かった。

 小さい頃、傘下全体会合の折やパーティーなどで親に連れられて会うたび、一緒に遊んだりもした。

 しかし父にはそれが気に食わなかったようで、そのたびに怒られた。宮苑の子供などと馴れ合いになるな、と。

 そしてそれは彼の親にしても同じで、上條の子供と親しくするなと怒られているところを見かけたことが何度かある。

 二家しかない傘下トップのグループ。故に、お互いに相手を邪魔者扱いしているのだ。

 一歳下の彼のことを私は「ひさ」と呼んで可愛がり、ひさの方も「ゆかちゃん」と呼んで私を慕ってくれる。私にもひさにもきょうだいがいないから、そういう存在のようにも感じていた。

 だから、長年続いている家同士のいさかいを私たちはあまり気にもしていないのだが、親に怒られるとなったら話は別だ。私が父に叱られるのはいいけれど、ひさが彼の親御さんと口論になるのを想像すると苦い思いになるから。

「あいつは今遥か彼方ぁ。アメリカにいるんだから監視の目もないしぃ、その間くらい自由にさせてもらうよぉ」

 そう特徴的な口調で言ってから、助手席に座っている少女を優しげな目で見る。彼女はすぐに気づき、ひさに対して柔らかく微笑み返した。

 二人の様子を見ながら、ひさの「好きにさせてもらう」という短い言葉に、私はたくさんの意図を読み取った。

 彼女の名は黒河くろかわ冬華ふゆか

 黒河家は代々宮苑の人間のボディガードをしている。本家と主要な分家を合わせただけでも目眩がしそうなほどの人数がいる宮苑家だが、「宮苑一人につき黒河も一人つく」という決まり故、使用人ではあるが、宮苑や上條に負けないくらいの人数を一族に抱えていた。

 また、『宮苑本家の人間には黒河本家の人間が』という仕来りに倣い、女性の身だけれども彼女は黒河の次期当主であり、ひさのガードをしている。

 宮苑と黒河の長い歴史の中でも、男性の宮苑に女性の黒河がついたのは初めてらしい。彼女が一人娘である以上、仕方がないのだけど。

「フー、今日はゆっくり映画見てもいいでしょーぉ?」

「課題もお仕事も溜まっていらっしゃるのでは? 夜更かしはほどほどになさってくださいませ、久弥さま。明日の朝にお困りになるのは貴方さまでございましょう」

「むー……」

 フー、とは、幼なじみであり自分の最も信頼する使用人である彼女へ、ひさが付けた呼び名。私もそう呼んでいるのだが。

「相変わらず仲良しだね、ひさもフーも」

 くすくすと笑えば、ひさは「当然でしょお?」と言って、楽しそうに笑った。

 男性の宮苑に女性の黒河が付かなかったのには、理由があって。生まれてすぐからほぼ四六時中一緒にいる以上、感情が伴わないわけがない。恋愛感情だって生じて何らおかしくない。だから、それを阻止しようという狙いがあったらしい。宮苑の血をけがさないように、と。

 そして、唯一の例外となったひさとフーは、見事その懸念が的中してしまった。

 付き合っているとは思えないけれど、幼い頃からひさはフーが好きで、フーはひさが好きで――主人と使用人の身分違いの恋。

 私は今、やり取りを微笑ましく眺めてはいるが、心配だった。この二人の行く末が。

 もちろん反対しているのでなく応援しているのだけど、私やひさが生きているこの世界は、未だに『身分』というものの色が濃い。私も、そして多分ひさもフーも、ずっとそれを感じながら生きている。

 上手くいくのかな、とか、いってほしいな、とか、お節介にいろいろ考えていた。

 身分差なんて乗り越えて、二人の恋が実ればいいのに。


 そこまで考えたところで、ぽんっと和馬さんの顔が浮かんだ。


 ……何で?

 訳が分からないために動揺してしまい、頭を抱えてみたり両手で顔を覆ってみたりで、座ったままでも上半身がぐるぐると動く。

 私はひさとフーのことを考えていたはずなのに、何で全く関係のない和馬さんの顔が浮かぶの?

 そうやって脳内でわあわあと騒いでいたから、ひさがじぃーっとこちらを見ているのに気づくのが遅れた。それはもう、ガン見である。

「な、何?」

 それに驚いて思わず身を引けば、彼は楽しげにへらっと笑った。

「ゆかちゃん、百面相してたよぉ。見てて面白ぉい」

 へらへら笑いながらの言い草に、がくっと脱力。

「……悪いけど、百面相なんかしてないよ」

「してたから言ってるのぉ」

 すっぱり言い切られ、私は反論のしようがなかった。と言うよりは、諦めた。ひさは昔から口が達者だったから、このまま不毛な争いを繰り広げたところで勝てる気はしない。

「でも思いきったねぇ、ゆかちゃんもぉ」

「え?」

「迎えいて逃げるなんてぇ」

 ひさがまたへらっと笑う。

 その笑顔を見て蘇ってくる、めちゃくちゃに街を走り抜けた記憶。

「……ちょっと冒険してみたくなって」

 あはは、と空笑い。わざわざこうして助けに来てくれたくらいだし、バレているとは思っていたけれど、やっぱりだ。

「でもそっちこそ代表は大丈夫なのぉ? 俺とこうして会ってることもだけど、そもそも脱走なんてしてさぁ。同じくらいうるさいでしょお?」

 こてん、と首を傾げるひさをまじまじと見てしまう。彫りが深くて美しいのに、同時に可愛らしい顔立ちをしたひさがそういう仕草をすると、そこいらの女子よりよく似合うのだ。罪だな、と思ってちょっと笑えた。

 身内の欲目みたいなものを抜きにしても、ひさは本当に美形だと思う。幼なじみの私ですら慣れないのに、いくらお嬢さまとはいえ年頃の女子が集まる学校では、さぞや騒がれているのだろう。彼は勉強も運動も得意であることだし。

 片や私は色々と情けない――密やかにため息をつく。

「大丈夫。今はうちの父もヨーロッパ出張。多分、1ヵ月か2ヵ月は帰ってこない」

 そうでなければあの厳格な父を怒らせるような真似はしなかった、と口にしようとして、自分が結局のところ意気地無しなのだと思い知る。

 殻を破りたいと思っても、そんな勇気、普段の私にはない。父親という『怖いもの』が近くにいなくて初めて、冒険することができた。

「ああ、そういえばぁ。なるほどねぇ」

 納得したのかひさは頷いてみせる。もしかしたら私がマイナス思考に陥っているのに気づいたのかもしれなくて、ついでによしよしと頭を撫でてくれた。

 気遣いが素直に嬉しくてそれに笑い返すと、ひさは安心したように手を離す。

 ふと窓の外に視線を向けると、車の外の景色はだいぶ流れ、私の家の近くになっていた。

「いい出会いがあったんでしょお?」

 ほぼ時を同じくして、唐突にひさが言う。

「……え」

 驚いて勢いよく振り返った私に、ひさは「顔に書いてあるもぉん」とへらっと笑った。

「それがゆかちゃんにとって、『永遠』の出会いになればいいんだけどぉ」

 いつものようなへらへらとした表情を作りながらも、彼の瞳は酷く真剣。

 見ていられなくなって、いたたまれなくて、私は思わず目を伏せた。

 ぐるぐるぐるぐると脳内を回る、別れ際に見た和馬さんの笑顔。

 ――ただの6つ下の女の子として、ゆかりさんを扱うよ。

 そして何よりも嬉しかった彼の言葉。

「ゆかちゃん?」

「……『永遠』になんて出会ったって、意味がないわ」

 怪訝そうな雰囲気のひさに呟く。

 結婚したらきっとまた籠の鳥。夫となった人にひたすら付き従うことになって、自由なんてない。今手放したくないと思っても、永遠に大切にしたいと願っても、どうせくすことになるのだ。

「そう思うってことはやっぱり、それくらい大事に思えるくらいの人に会った、ってことだろ?」

 不意に変わったひさの口調に驚いて、俯けていた顔を勢いよく上げる。すると、表情も見た者を絶対的に魅了する笑みに変わっていて、背中がぞくっとした。恐怖ではなく――畏敬の念で。

 彼は本当に、人の上に立つべくして生まれてきた人なのだ。

 今は呑気に思っているが、もう少しすればそんな場合ではなくて、これから夫となる人と共に私は対抗していかなければならないのだけれど。悲しいかな、勝てるようなビジョンがあまり浮かばない。

「……聞いたよ。見合いするんだって?」

 ひさの耳にも入っているということは、コンツェルン内でもきっと噂になり始めているのだろう。数拍置いてから頷いた。

「それが私の役目だから」

 ぽつっと言えば、ひさは私をじっと見てくる。

「何?」

 首を傾げる。


「俺は、せめてゆかちゃんは自由に生きるべきだと思ってたんだけどな」


 すると、独り言のように彼は呟いた。

 何を言うのかと思えば。そんなこと無理だって、宮苑の跡継ぎであるひさ自身知っているはずなのに。

「そんなの無理に決まってるわ」

 自由なんてどこにもないのよ、と、笑う。

 逃げ出してみても、分かっている。

 ――見合いをしろ。

 あの氷のように冷たい声は、誰よりも一番私自身を支配しているのだと、痛いくらいに。

「……どうして無理なの?」

 まっすぐな彼の目線が痛くて、怖い。

 どうしたらひさのようになれるのだろう。

 勝てるビジョンが浮かぶ浮かばないの話以前に、彼のようにまっすぐと立っていられる自信すらない。

「……私は」

 何度目か、目を伏せた。

 ――見合いをしろ。

 ああ、また父の声が蘇る。私を永遠に支配することになるに違いない声だ。結婚しようと、きっとあの人が亡くなっても、私自身が死なない限り永遠に手綱を掴まれる。私にその綱を切る力は、ない。

「私は父の人形だもの」

 口に出してしまえば簡単ことだが、何と情けないことだろう。下を向いたままでも、ひさが眉を顰めているのは不服そうな空気が流れてくることから何となく分かった。

「……ゆかちゃん」

「いいの。分かってるから」

 怖さを封じ込めて勇気を振り絞り、ひさをまっすぐに見返す。どうにか作った笑みが下手くそなのだろうことは、彼の複雑な表情を見れば簡単に予測することができた。

「分かってるって、」

「『お見合い』の意味、ひさなら分かるでしょ?」

 遮るように言葉を発すれば、ひさは戸惑ったように眉根を寄せる。

「意味……?」

「そう、意味」

 首肯して、父とのやり取りを思い浮かべた。

 ――『見合い』という名の顔合わせだ。

「……お見合いの名前を冠した顔合わせ会、だって、それくらい」

 苦笑すれば、ひさはますます顔をしかめる。まるで私の代わりに傷ついているみたいに。そういう顔をさせたかったわけじゃないのに。

「ゆかちゃんはそれでいいの?」

 しかめたままの顔で尋ねてくるひさは、きっと私の持っていない何かを持っている。それは優しさだとか、そういう人の心には欠かすことのできない、しかし私たちの生きているような世界にいれば失くしてしまいそうなもの。彼が誇ることのできるもの。

「いいのも何も、言ったでしょう? それが私の役目だから」

 抗っても仕方がない。私の些細な抵抗なんて、父の前には軽く握り潰されるのだから。

「何でそんな諦めいいの……?」

「……諦めてるわけじゃない。いや、確かに色々と諦めてるけど……結婚とかに関しては、そうじゃないの」

 静かに告げた私の言葉に、彼は厳しい表情をする。

 私が大切にしているものとひさが大切にしているものは、きっと根本的に違う。どちらが正しいのかなんて、分からない。私には判断するすべがない。

 ただひとつ言えるのは、第三者からは間違えて見えたとしても、私にとっては紛れもない真実なのだ。

「私は上條を守らなきゃならないのよ。上條の財と名声を保つために」

 ひさが守りたいのは、きっと自分の周りにいる大切な人。私が守りたいのは――。

「この世はお金と名声が総てでしょう?」

 人の感情やら何やらは、二の次でいい。私は他の人にまで押し付けようとは思わないけれど、周りが私をそうして扱ったように、『私』という個の感情なんてどうでもいい。『上條』という名前を守ることで秩序を維持するのが、私たちの役目。

 父から幼い頃より言われているし、疑う余地もない。

 上條は村田コンツェルンという世界の秩序なのだ。

「……そっか」

 ひさは言うべきことを見失うようにして、ただ黙り込んだ。

 どこか落ち込んだようなその姿に、少しだけ申し訳なくなる。

 昔が、とても懐かしい。何も考えないでこの子と接することができた。家なんてしがらみを感じることなんてなかった。

 だけど今は、私たちの距離がこんなにも遠い。私もひさも、お互いに相手を大切にしたくて、切り捨てたくないと思っているのに。

 ちょうど上條の邸宅の前に着いて、車が停まった。フーが降りようとするのを制し、自分でドアを開けて降りる。

 これ以上彼を追い詰めたくはなかった。

 箱に押し込められたような生活は確かに息苦しいし、抜け出したいとも思う。けれど、どうせ抜け出せない。同じ結果になるのなら、父が大切にしているものを守りたい。

 冷徹でも何でも、私の実の父親なのだから。

「送ってくれてありがとうね、ひさ」

 振り返ってそう笑い、ドアを閉めようとすると、「……っゆかちゃん!」というひさの声が追いかけてくる。

 驚いて手を止めたら、変わらずまっすぐな視線が私を射抜いた。


「今日会った人とは、それでいいの?」


 凜と響く彼の言葉を脳内で上手く処理できない。

「……え?」

 だからこそ、そんな声が漏れ出た。情けなく無様に震えた声が。

 彼は何を知っている? 彼は何を言おうとしている? 分からないことがこんなにも恐ろしいなんて。

 ひさは、私からそのまま視線を離さず、ゆっくりと口を開く。

「だってゆかちゃん――」

 続いた言葉に頭が真っ白になって、ばたん! と強くドアを閉めて駆け出した。走って走って、鉄格子のような高い門を指紋認証で開錠してからまた走る。何だか今日は走ってばっかりだ。

 後ろから「ゆかちゃん!?」という声が追いかけてきたのが分かっていたけれど、無視した。無視することしかできなかった。

 今しがた言われたばかりのひさの台詞が頭の中をぐるぐると回る。体力が尽きていき吐き気を催す。だけどその気持ち悪さも、もしかしたら彼の言葉のためだったかもしれない。

 そんなこと、ありえない。私が身を宿し、笑むべき場所は、お金持ちたちの集まる、虚構と欺瞞ぎまんに満ち溢れたあの世界なのに。ひさは何を言っているの。

 まるで自然公園のようだ、と我が家ながら感じる庭を懸命に走り抜け、玄関にたどり着いた。

 息が苦しい。

 ――今日、今までで一度も見たことがないくらいに生き生きした目、してたよ。

 でも走るのをやめたら、嫌というぐらいに鮮明にひさの言葉が蘇る。玄関の取っ手に手をかけて呆然と立ち尽くした。

 この家に生まれてから約19年、私なりの覚悟を固めてきたはずなのに。今日のたった一人との、あんな小さな交わりで、それを突き崩されたのだろうか。

 違う、崩されてなんかいない。嬉しかったから。生き生きなんてしてない、ただ忘れられなかっただけ。

 ――だからおれは、ただの6つ下の女の子として、ゆかりさんを扱うよ。

 あんなこと、初めて言われたから。今まで『お嬢様』という枠に填めた見方しかされてこなかったのに、ちゃんと一人の人間として見ると言ってくれたから。それが嬉しくてたまらなかっただけ。それ以外には何もない。間違っても、それ以上は。

「ひさの勘違いだよ……勘違いに決まってる……」

 ドアに額を付けて、繰り返し呟いた。

 自分にも刻み付けるように、何度も何度も。

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