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「さようなら」の後は、  作者: 汐月 羽琉
第一章 邂逅
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スケッチと線引き

「スケッチ、してたんですか?」

『うん。森の風景をね』

 服が汚れちゃうから、って、和馬さんは自分のハンカチを地面に敷いてくれた。厚意をありがたく受け取り、その上にちょこんと座って彼の絵を見る。

 柔らかなタッチで描かれた森の絵は、とても美しい。鉛筆で描かれているだけだからただの白黒の絵でしかないのに、深かったり鮮やかだったりする緑が見えるような気がする。

 絵を描くためのスケッチブックをあまり筆談に使うのももったいないから、私のルーズリーフを渡した。

 無機質で、ただの紙っぺらでしかなかったものを、彼の几帳面な字が埋め尽くしていく。その瞬間が私はとても好きになった。

「綺麗な絵ですね……」

 漏れるのは素直な賛美。

 父の人脈はどこにでも広がっている上、利用できそうな繋がりは一も二もなく重要視する。だから、父に伴われるか、父が忙しくて出向くことができない代わりに出向くかして、『画家』と呼ばれる人たちの展覧会を私は何度も訪れたことがあった。

 だけどその人たちのものより誰より、今日初めて見た和馬さんの絵の方が好きだ。贔屓だとか言われても。

『ありがとう』

 彼は嬉しそうににこりと笑うが、きっとこんな言葉、言われ慣れているに違いない。

 と思っていたら、そんな思いが表情に出ていたのだろうか。お礼の言葉の後に付け足すように、和馬さんは鉛筆を動かし始めた。

『誉め言葉って、何度言われても嬉しいものだよ。少なくともおれは、ね』

 目を見開いてから、はにかんで笑う。

 和馬さんの優しさとか、あたたかさとか、この短い文面に凝縮されている気がして、とても嬉しかった。

 彼は私の反応に柔らかく微笑んで、再びスケッチブックに向き合い始めた。私も彼のペンの動きを眺め、会話が途切れる。

『ゆかりさんって、近くの有名女子大――桃夭とうよう短大の人だよね?』

 だが、ふと思いついたのか、和馬さんは言った。

「……ええ」

 うちの女子大は、制服が存在する。かく言う私も今着ている。

 女子校で、幼稚舎――つまり幼稚園――から大学と短大まであり、村田コンツェルンの多くの子女が通っている。まあ、別な学校に通っている子たちもいるが、少なくともうちの一族の女の子は半分近くが通っている。つまり、一般的に言われるところの『お嬢さま学校』なのだ。

 また、それと同じぐらい、規律が厳しい教育をする学校であることも有名。一般的に私服通学が多い大学になってまで制服があることも、その『厳しい教育』の一環だった。デザインは幼稚舎から大学までで少しずつ違うため、和馬さんもそれで分かったのだろう。

「よく分かったね?」

 だが他に言葉が出てこなくて、へらりと薄っぺらい笑みを浮かべた。自覚している以上に動揺していたのかもしれない。嘘をつくのは得意分野のはずだったのに。

 だが和馬さんは、無意識かあえてか、私の動揺を突くのが上手かった。

『厳しいって有名だからね。あと結構なお嬢様が多いって』

 どくん、と心臓が跳ねる。

 先ほど全力疾走した直後みたいにばくばくと激しい鼓動を刻み始めて、息まで苦しくなった。

 もしかして、と思う。信じたくないけれど、でも――自分の名前の有名性は、自分が一番よく分かっている。そしてそれが、分かっている以上に広まっているものであるということも。

 和馬さんをそろそろと見上げれば、変わらぬ穏やかな微笑みがあって。私は確信する。『上條ゆかり』は上條本家の一人娘であることを、この人は知っているのだと。

「……分かってた、の?」

『上條、って言われればね。秋月から見ればずいぶんと雲の上の人だよ。まあおれは、分家の分家のそのまた分家って感じだから、もはやその「秋月」だって名字だけだけど』

 秋月グループは、傘下グループの中でナンバースリーの一角を担う。傘下トップの上條から見れば、ふたつも下の階級だ。

 身分主義とかヒエラルキーとか、一昔も二昔も前には確かに存在していただろう。だけど一般的には廃れているはずのくだらないものが、未だにこの世界では濃厚。

 私だって、コンツェルン全体を率いている総帥には敬服しているし、忠誠心もある。あの方は企業のトップとしてだけでなく、人間としても優れているから。

 しかしそれ以外にはどうにも首を傾げたくなってしまう。

 上條だから何。秋月だから何。同じ人間で、同じく息をして、同じように話しているのに。血なんて、皆同じように赤色なのに。

 『上條』というだけで線を引かれて敬われるのは、避けられているのと私にとっては同義だ。

「……私、上條本家なんです」

 ぼろりとこぼれた言葉は、分かりきっていること。

 当然、和馬さんからは表立って反応はなく、ただじっとこちらを見つめられた。話したいことを話せばいい、と促すような目で。

 それに小さく頷く。

「そのせいで、昔からひとりぼっち」

 幼稚舎まではよかった。私を含めて、一緒に通う子たちが皆、階級や自分の家の立場などに囚われる年齢じゃないから。あの頃が、学園生活の中で一番楽しかったように思う。

 だけどそんな楽しさは両手からこぼれ落ちていくだけ。

 もしかすると、初めから手に入れなければよかったのかもしれない。持っていたからこそ、くしたのだ。持っていなければ失うこともなかったのだから。

「初等部に上がって……何も知らなかった私は、また幼稚舎のときと同じように楽しい日々が続くんだって、信じて疑わなかった」

 酷く愚かで、とても幸せな思考。でも現実は決して優しくなんてなかった。

「『上條は傘下の頂点。敬いなさい、自分よりずっとずっと偉くて、違う世界に生きている人だと思いなさい』」

 静かな森には、私の声しか響かない。ついさっきまで、風が木の葉を揺らす音が聞こえていた気がしたのに。

 どんなに共に生きてくれる誰かを探しても、求めても、結局はどこまで行ってもひとりぼっちだという私の結末を表しているかのよう。

 何となく、和馬さんの顔は見られないでいる。怖いのかもしれない。知ることが。

「幼稚舎のときに『友達』だった子たちは、親からすでにそう言われてた」

 そして一人になった。誰も私の傍にはいなくなった。

「だったら同じ一族で仲良くしてくれる人を探そうとも思った。だけど上條の中でも同じことが起こったんです」

 あの子は本家で、うちは分家。立場の差を知りなさい。

 小さい頃なんて、親の言うことは絶対だ。私の周りにいた子たちは素直に距離を置いていった。

 私は上條の中ですら仲間外れだった。

「同じ上條でも関わり合いになれない。虚しさばっかり募った……」

 和馬さんは遮ることもなく聞いている。それがかえって怖い。

 「それが何?」だとか、「馬鹿みたい」だとか言われるかもしれないと思うと、体の芯が冷えていく。

 だけどそれでもいいかもしれないと思う自分もいて。どうせひとりぼっちなら、中途半端な優しさなんて知りたくないから。

「息苦しいだけ……そんな学校に居たって。先生たちですら私を見て顔色を変えて、ご機嫌伺いをするんです。『上條』が怖くて」

 それは成績に最も顕著に表れた。

「たとえば極端な話、百点満点のうち30点しか取れてなかったテストがあったとするでしょう?」

 そこで初めて隣にいる彼を見た。だが感情が最も色濃く反映される目は見られなくて、肩口という中途半端な位置で視線が止まった。きゅっと引き結ばれた口元と、少し迷って小さく頷くのだけが分かる。

「それなのに成績は『5』。『1』でも『2』でもなく、『5』。この意味分かります?」

 笑顔を作ろうと思ったのに上手くいかなくて、下手くそな笑い方になった。自分では判断の仕様がないが、見ている人にはさぞ痛々しく映ったことだろう。

『……分かるよ』

 和馬さんがルーズリーフにそう書いたのが見えた。

 ――分かるよね、当然だよね。

 思いながら、今度こそ、だけど嘘臭くてたまらない笑みがようやく浮かんだ。

 いくらテストだけが評価の方法じゃないって言ったって、こんなのただの依怙贔屓えこひいきだ。後ろめたい気持ちしか湧かないというのに、どうしてそんなことも分からないのだろう。

 勉強は得意じゃなくて、どんなに頑張っても平均点レベル。運動も苦手だし、芸術センスはほとんどない。提出物と出席は真面目だけど、それにしたって『オール5』はおかしな話ではないだろうか。

 短大に進学したけれど、これからの成績もきっと『オールA』になるのだろう。経験上分かる。

 誰一人、『私』自体には期待していないし、『私』という人間には何も求めていない。

 欲しいのはただひとつ――上條『らしさ』だ。

「私、『私』が何なんだか分からなくなった」

 声に涙が滲む。ああ情けない。

「だから和馬さんも、私が『上條』だからって、線引きしないで――……」

 子供の我儘みたいだ。分かっているけれど。

 でもほとんど村田と関係なしに暮らしているらしいこの人にまで線を引かれて、『雲上人』なんて扱い、されたくなかった。

 もしもそんなことになったら、きっともっと泣きたくなってしまう。私の居場所なんてつまるところどこにもないって、きっと思い知る。

 目をごしごしとこすり、溢れ出すものを止めようとした。でも、一度堰を切られてしまったからか、全く終わる気配はなくて。

『ゆかりさんって、今いくつ?』

 そんな涙でぼやけた視界に突如、和馬さんの字が飛び込んできた。

「……え? じ、19……」

 あまりの唐突さに目を瞬かせる。

『そっか。おれは今年で25なんだ』

 そちらに気を取られたおかげで目の端に浮かんだ涙はその場に留まったけれど、全く意図が読めず、「はあ……?」と曖昧な返答をするしかなかった。それに和馬さんは穏やかに笑うだけ。

 からかわれている? と眉を顰めそうになった時。ようやく次の一文が書かれた。


『だからおれは、ただの6つ下の女の子として、ゆかりさんを扱うよ』


 大きく目を見開く。その反動で涙は呆気なくこぼれ落ちた。

 それを彼は優しく拭ってから、頭をぽんぽんと撫でてくれる。

『スケッチ、見てく?』

 彼の微笑みがあたたかい。

 私が誰だか分かった上で、それでも向けてくれる笑みが、これほど嬉しいなんて思わなかった。こんなにも胸を打つなんて、想像もしていなかった。

「はい……!」

 残った涙は、勢いよく拭う。

 そうして笑えば、和馬さんはまるで「いい子だね」って言うみたいに、満面の笑みを返してくれた。

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