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「さようなら」の後は、  作者: 汐月 羽琉
第一章 邂逅
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逃亡

        ――さようなら の 60分前――



   ● ● ●



「お嬢様がいなくなった!? 何をやっている、今すぐ捜せ!」

 そんな声が響いている。ばたばたと駆けていく足音、足音、そしてまた足音。

 でも残念、私はそっちにはいない。

 だいぶ見当外れな方向に走っている使用人たちを尻目に、植え込みの陰に隠れて移動する。そして裏門から出ていく人たちの波に紛れ、外に出た。

 まず初めに思ったことは、やってやった、ということ。

 学校という名の牢獄から飛び出せたのだ。私の歓喜も無理からぬところがあると思う。そう自分を納得させることで、今にも口から飛び出しそうな心臓を宥めた。

 そして走り出す。

 未だかつてない高揚感と共に、ほんの少しの罪悪感――つまり、いけないことをしているという意識は、もちろんあった。

 でもこんな生活、もう抜け出したかった。


 ――見合いをしろ。

 父からそう言われたのは、つい先日のこと。

 ――……どういうことですか?

 私は少し前に大学に入ったばかりだった。大学と言っても短大だが。しかも、まだ19歳の誕生日も迎えたばかり。もう少し猶予があると思っていたのに。

 面倒な家に生まれた以上、結婚はいつかしなければいけない、と知ってはいた。納得し、諦めてもいた。でも、まさかこんないきなりなんて。

 いや、むしろ遅いのかもしれなかった。同じように面倒な家に生まれた幼なじみは、確か中学生の頃に婚約者が決められている。知り合いには産まれてすぐに決められた人だっている。

 それなのに私は、この年になるまでお見合いすらなかった。つまりそれは猶予を与えられていたのかもしれなくて。

 ――『見合い』という名の顔合わせだ。返事は?

 そして、知った。

 ああ、この見合いにおける『相手』は、『婚約者』。つまり私の『生涯の伴侶』と呼ばれる位置に据えられる人なのだ、と。

 もう、子供で居られる時間は終わりを告げたのだ。

 ――分かりました。

 胸を引き裂かれるような苦しさを伴う激しい恋も、あたたかい水にたゆたうような穏やかな愛も、私には無縁。結婚なんて、親同士が結んだ点と線に従い、家の栄華を守るためだけのもの。『婚姻届』という、ただの紙切れ一枚が結ぶ繋がり。

 私はそのための『道具』。道具は反論なんてするわけがないし、そもそも感情を持つこともない。

 諦める、というか、当たり前、という意識の方が大きかったかもしれない。今の生活に私は特に不満はないのだし、この世はどうせお金と名声で作り上げられている。

 私自身の存在さえ、もはやお金のみで成り立っていると言っても全く過言ではないのだ。

 ただ黙って大人しくしてさえいれば、自分の欲しいものの大概は手に入った。それにきっと、一般家庭からすればよほどのお金をかけて育ててもらっているのだろう。文句を言うつもりはない。


 だけど――。


 行く当てもなく走っていたら、目に入ってきたものがある。

 それはビル群。巨大なその姿は、何とも言えない威圧感を放っていた。

「……村田コンツェルン、ね」

 ぽつりと呟いてからまた走る。

 ――村田コンツェルン。その名は世界に轟いている。なぜ、と言われたら、大企業の中の大企業だから、と答えるしかない。

 『村田』という家の家長が代々『総帥』と呼ばれる頂点に君臨し、数百にも及ぶ傘下グループを取りまとめている、超巨大企業。世界にまでその影響力は及び、下手をしたら総帥は一国の首長並みに発言力があるかもしれない。

 そして、一口に傘下グループと言っても、その中にもピラミッドが存在する。上位のものから下位のものにかけて、明確なパワーバランスの差があった。

 私の家は、傘下の中でトップに立つグループのひとつである『上條かみじょう』の、総本家。

 そのため、父親には高いプライドがある。『トップ』という冠がついている上條を維持し、更に盛り立てようと必死なのだ。それもこれも、階級的にはひとつ下を担うグループのひとつである『高谷たかや』が、うちを追い越さんばかりの勢いを持っているからなのだけど。

 ――諦めればいいのに。

 そんなことを思ってしまう私は、親不孝者なのだろうか。

 ああ、でも、今はそんなことどうだっていい。

 息を切らしながらも全力で走る私に、道行く人たちが通り道を開ける。奇異の目で見ながら。

 そんな目で見られても、止まらない。止まれない。

 ひたすら走って、走って、当てどもなく走り続けて――気づいたら、自分が今どこにいるのかも分からなくなっていた。

 ふと周りに意識が向いてぐるりと見渡すと、森である。こんな場所に来るまで気づかなかったほど、私は走るということ自体に没頭していたのだ。

 上がった息が思考を邪魔する。全力疾走どころか、これほど長い間走ったのは久々だ。昔は自宅の広い庭を駆け回っていたものだけど。

 気持ち悪い、と訴えてくる体をどうにか宥め、もう一度ぐるりと視線を一周させる。

「……どうしよう」

 どこを見ても知らない風景。これじゃ帰り道も分からない。道順なんて気にせずめちゃくちゃに走っていたせいだ、多分。

 そこでようやく携帯電話のランプが光っているのに気づいて画面を見れば、不在着信やらメールやらが異常とも言える数。総て使用人たちのものである。

 ここで連絡を返すのが普通の人だし、私だって普段であればそうする。

 だが、躊躇うことなく電源を切った。ごめんね、と思いながらも。

 その途端、しん、という静寂が耳につく。

 自分さえ音を立てなければ、かえって耳に痛いほど無音な空間が広がるから、ここだけ別世界みたいだ。

 小道はあるし、生えている草も足を取りそうなものではないため、ゆっくりと歩を進め始めた。

 遠くで鳥が鳴き、木々が風でざわめく。恐ろしさは感じない。どこかほっとする。都会の喧騒の中にこんな空間があったのだ、と。

「……綺麗……」

 葉と葉の隙間から注がれる光が美しくて、感嘆の吐息を漏らしたら、カタンという何かが落ちたような、置かれたような音が微かに聞こえた。

「え」

 驚きから小さく声を上げて物音の正体を探す。しかし、視界に入る範囲では何も見つからない。

 ここにいるのは私だけじゃないというのだろうか。

 注意深く音に耳を澄ませながら、また歩き始める。そうやってみると、間がありつつも繰り返し繰り返し、さっきのような音が響いていたことに気づいた。私が気づいていなかっただけだ。

 ゆっくりと歩いていった先に見えたものは――。

 二度目の、しかし一度目以上の驚きに息を呑む。きっと大きな音を立てていたのだろう。『その人』は、振り返った。


 そう、そこには人がいたのだ。


 何か森の生き物でもいるのだろうとしか予測していなかった私は、度肝を抜かれた。だって、『その人』は、端正な顔立ちをした男の人だったから。

 森の中でも開けている場所であるため、彼には柔らかくあたたかな日光が降り注いでいる。きっと元々明るい色なのに、そんな日に透けているせいか髪の毛は金に輝いて見えた。

 それよりは暗めだが、やはり明るい色をした瞳――そして何より、優しげな表情に目を奪われる。

 放心したようにお互い何も言えず、たっぷり数分間は見つめ合っていた。

「――……画家さん?」

 ようやくそう言うことができたのは、私だった。

 彼の手の中には森が描かれたスケッチブックが広げられ、ペンケースと思しきプラスチックの箱があり、鉛筆が見えたから。

 少し迷いながらも距離を詰めていくと、問いにであろうか、彼はどこか困ったような表情をしていた。

「違った……?」

 その台詞には首を振って否定のサイン。

 訝しく思って眉を顰める。そんな私の表情を見、彼は唐突に片手を喉にやって、そのまま首を振った。口をぱくぱくさせながら。

 それは、だいたいの人には通じるだろう、「私は声が出せません」のジェスチャー。

「ああ、風邪で喉がやられちゃったの?」

 その割には元気そうに見えるのだが。

 するとまた否定のサイン。やっぱり、ちょっと困ったような顔をして。

「違う、の?」

 今度は肯定のサインが見え、直後に彼はスケッチブックを取り上げて鉛筆をさらさらと走らせ始める。再び眉を顰めかけると、間もなくこちらに向かって掲げられた。

『おれは先天的に声が出せないんだ』

 目を見張るのと時を同じくして、申し訳なさが込み上げてくる。

「……ごめんなさい」

 考えなしに根掘り葉掘り訊いてしまった。俯くと、男性は立ち上がったようで、スニーカーを履いた足が近づいてくるのが分かった。

 それに反射的に顔を上げたら、彼は微笑んでいて。

『気にしないで。おれも気にしてないから』

 その笑顔はどこまでも柔らかくて、穏やかで、少し不思議な感じがして――けれど、嘘のようなものは感じられなかった。

「……ありがとう」

 私が普段生きているような世界にいると、嘘を見抜くのばかりが上手くなる。

 あの、お金や欲や権力にまみれた、虚栄と虚飾の世界。私のいるべき世界。

 そこで過ごした日々を思い出したら、こんな美しいところにいてはいけない気がしてきた。彼を見て、なおさら。

 私にお似合いなのは、見た目ばっかり華やかで、中身がない空っぽの場所だ。

 だがそんな思考を知るはずもない青年は、相変わらず穏やかに笑っている。

『おれは秋月あきづき和馬かずま。君の名前は?』

 ――アキヅキ、カズマ。

「……上條ゆかり」

 何があるか分からないし、誰が聞いているのかも分からないのだから、言うつもりなんて本当はなかったのに。気づいたら、彼の不思議な笑みに引き出されるようにして答えてしまっていた。


 これが、欲にまみれた私の、和馬という無欲な男性との出会いだった。

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