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「さようなら」の後は、  作者: 汐月 羽琉
第四章 救済
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壊れそうなその姿を

      ――さようなら の 5分前――



   ● ● ●



 眩しい笑顔が眼裏にちらつく。

 だけどそれは幻で。つまり手を伸ばしても決して触れることはできない。

 たとえ絵にしてその幻にある意味の形を与えたところで、それだけだ。

 平面な、のっぺりとした紙は――彼女には決してなり得ないのだから。

「和馬、今日もゆかりさんは来なかったの?」

 夕暮れ、スケッチ用の道具を抱えながら戻ってきたおれに、母が駆け寄ってきた。

 小さく頷くと、彼女はくしゃりと顔を歪ませる。

「そう……心配ね……」

 また小さく頷いたが、それ以上はもう何も聞きたくなくて、逃げるようにアトリエに飛び込んだ。

 最後に会った2週間ほど前、ゆかりさんはかかってきた電話に出た後、青い顔をして去っていった。「また来ます」と、たったそれだけを言い残して。

 走り去っていく後ろ姿を呼び止めたかったけれど、声を持たないおれにはどうしようもなくて。できたのはただ、呆けたように見送ることだけだった。

 一枚も絵を増やすことのできなかったスケッチブックを、作業台に置く。

 ここ数日、何も描けていない。

 こんなことなら、あの時にはっきり告げるべきだった。慌てて隠すことなく。

 後悔しても、総ては後の祭り。

 ――大好きな幼なじみに会えたから。

 あの日、どこかいつも影を背負っている彼女が、珍しく明るい顔をしていた。不思議に思って理由を尋ねたら、満面の笑顔でそう答えられて、嫉妬が胸を焦がしたのをよく覚えている。

 他の男を「大好き」と評されただけで胸が騒いだり、後で調べてその人が既婚者と知りほっとしたり、会えなくて女々しくも一枚も絵が描けなくなってしまったり。笑ってしまうくらい思考を支配されている時点で、相当に好きだというのに。

 こうなると分かっていたなら、ちゃんと告げていた。

 いつでも会える、とか、高をくくっていた結末がこれだ。彼女に婚約者がいるから、とかいうもっともらしい言い訳をして、二の足を踏んでいた結末が、これだ。

 笑えない。いい意味でも悪い意味でも、人間の繋がりに絶対などないのだと、おれは身を以て知っていたはずなのに。

 25年前、おれは秋月本家に末息子として生を受けたが、すぐに養子に出され、現在の養父母である孝太と由子に引き取られることとなった。

 実の親に見捨てられる形になったその理由は、おれが生まれつき声を出せなかったこと。声帯に問題があったらしい。

 そんな『異端』なおれを、産みの両親は許さなかった。『恥』として追い出した。聞けば、そんな子を産んだ母もまた、本家に近しい家の辺りではあまりいい目では見られなくなったと言う。

 くだらない、と思うけれど。同時に、そんなものだと諦めてもいる。

 総ての『お金持ち』がそうだとは考えていない。だが少なくとも、伝統だとか格式だとかそういうものを大事にしている生家は、おれの存在をゆるすことなどとうとうなかったのだ。

 ほんの小さなころは今の両親を実の両親だと思っていたこともあったけれど、悪意ある噂好きの大人なんて、そこら中にいるものだ。

 自分が彼らの実の息子ではないこと、見捨てられた子供であること、それは割と早い時期に知った。

 養父母も、敢えて隠すことはしなかった。

 事実を知ったおれが泣きながらした質問を真正面から受け入れ、順序立てて説明してくれた。分かりやすく噛み砕きながらも、大人の都合のいいように捻じ曲げることなく。

 賛否両論分かれるとは思うが、おれ自身はそれにとても感謝している。

 おれは確かに捨て子だけど、養父母は惜しみなく愛情を注いでくれた。何を信じて何を不必要だと切り捨てるか、そんなこと悩むまでもなかった。

 おかげで今は、こうしてしっかりと己を受け入れ、コンプレックスを特に感じることもなく生きている。

 もちろん嫌になるくらい『声が出せない』というハンディについて悩むときもある。でも、おれには絵があるから。

 今の両親は、閉じこもりがちだったおれにまず、陶芸をやらせた。それによって芸術に興味を持たせ、その後はスケッチブックや絵の具、クレヨンをプレゼントしてくれて、色々なものに触れたと思う。いろいろ試してみたけれど、おれには絵画という手段が一番合っていたようだった。

 声を出すということで自分を表現することはできなくても、それ以外にいくらでも手段はあるのだと教えてもらった。一番感謝していることでもある。

 そういう義両親(りょうしん)だったことと、小中高と、学校の仲間に恵まれたこともあったのか、たまにはいじめられたりからかわれたりもしたけれど、助けてくれる友達や先生がいて、おれはそこまで大きな闇を抱えることなく生きてこられた。

 周りの人たちに感謝せずにはいられない。

 だから初めて彼女に会ったとき、その明るい言動とは裏腹に時折垣間見える濃い影が、とても気になった。

 それこそ偏見だと言われてしまうかもしれないけれど、高貴なお嬢さまにはあまり似つかわしい雰囲気であるようには思えなかったから。

 でもすぐに、高貴であるが故、『上條』という名前を背負ったが故の影と知った。

 秋月に生まれたとはいえ、早々に本家としての地位を失ったおれには、よく分かってあげられない感覚。何も言ってあげられない自分が悲しかった。


 しかし、その寂しげな表情に惹かれた。


 ――私が『上條』だからって、線引きしないで。

 そう言って泣いた彼女は、驚くくらい無垢で、きっと他の人からすれば愚かしいくらい、純粋だった。

 どうにかこの子を心から笑わせてあげたい――そんなおせっかいな思いから始まった恋だった。

 モデルを頼んだのも、彼女を正当な方法で描くことのできる口実が欲しかったから。

 スケッチブックをめくれば、そこには彼女がいる。たった2週間ほどしか経っていないというのに、彼女を描いていた日々を酷く懐かしく感じる。

 はにかむ彼女を見て微笑ましくなり、そっと指でその唇を撫でる。

 だがいくら彼女を映したものであっても、これは絵であって、彼女そのものではない。ざらざらとした紙の感触がするだけ。

 虚しさが襲ってきた。

 馬鹿だと分かっていたとしても、おれはいつも彼女と会っていた場所に通うことをやめられないでいる。

 懲りることなく、次の日も森の入り口付近を訪れる。

 今日こそ描けるかもしれない。そう思って鉛筆を持つ。

 それなのにすぐ、何を描いたらいいのだろう、という疑問にぶつかって、鉛筆が止まってしまう。

 以前なら、何とはない景色を見つめただけでも、描き出したいアングルを見つけることができたのに。彼女の息吹を感じられない世界は、こんなにも色褪せて見える。

 ため息をつこうとしたのと同時、草を踏みしめて歩いてくる音が聞こえた。

 はっとして勢いよく振り返る。もちろん、ゆかりさんかもしれないと期待したからだ。

 でも、違った。

 近づいてくるのは3人の人影。ミルクティ色の髪に薄茶の目をした青年と、金髪碧眼で制服姿の背の高い少年と、黒スーツをかっちりと着た黒髪黒目の少女だった。

 どの人物にも見覚えがない、と思ったが、そうでもないことにふと気づく。

 特に金髪碧眼の少年。どこで見かけたのか――そんなことを考えていると、声をかけられた。

「秋月和馬さんでいらっしゃいますか?」

 黒スーツ姿で、凛々しい表情をした少女に。

 さて、彼らに会ったことはあっただろうか。記憶を必死に漁りながらも頷く。

 おれのそんな反応を見て、彼女は青年と少年に目配せをしており、二人は満足げに目配せを返す。おれは何なのだろうと怪訝に思うだけで、状況についていけない。

「初めまして、でございますね。申し遅れてしまい、失礼致しました」

 それを確認してからおれに向き直った彼女は礼儀正しく一礼した。どうしたらいいか迷ったおれは、再び頷くに留める。

「こちらは私の主人である宮苑グループ次期代表の宮苑久弥。そちらは高谷グループ現副代表の高谷和泉でございます。私は宮苑家でボディガードをさせていただいている、黒河冬華と申します」

 お見知りおきを、と再び恭しく一礼されるものの、相変わらず何がどうなっているのかさっぱり分からない。とりあえず頷こうとしたところで――男性二人を見かけたことがあって当然なのだということに、今さらながら気づいた。どちらもテレビのニュースでよく見かける顔なのである。

 村田コンツェルン第一傘下・宮苑グループの跡取りの少年。同じく第二傘下・高谷グループの副代表。政財界に大きな影響を与える会社に深く関わっている人物。

 慌てて深く一礼しようとすると、「いいよ」と柔らかいテノールが鼓膜を揺らす。宮苑次期代表が口を開いたのだ。

 戸惑って思わず顔を見ると、彼はふわりと笑った。男のおれから見ても、それはそれは『美しい』笑みだった。

「関係性が分かりやすいように説明しただけで、今日は『そういう』立場としてここに来たわけじゃないから」

 おれの理解力のなさなのか、よく意味が分からない。

「ゆかチャンの幼なじみとして、貴方に話したいことがあった。だから会いに来たんだよ」

 にっこりと笑ったのは、高谷副頭取だった。

 ようやく、ああそうか――と納得する。彼女の言っていた『大好きな幼なじみ』とは、この人たちのことだったのだ。

 ――コンツェルン内だと村田御本家の瞬さま、宮苑本家の久弥くんとそのガードの冬華とか。あとは高谷本家の和泉とか、宇陀本家の親晃とか。

 彼女が確かそう言っていたことが蘇ってきて、一人頷く。

 話をするのは構わない。だけどいったい何を話すというのだろう。

 そしておれはそもそも声が出せないし、手話を使える人というのはそうそういないから、筆談をしなければいけないことが大概。会話には人よりだいぶ時間がかかる。

 まずはそれを説明しなければならないか、とスケッチブックを手に取ろうとした。

「大丈夫だよ、分かってるから」

 すると、そんなおれを見ながら宮苑次期代表は微笑んだ。目を瞬かせると、「何で分かるかはナイショ、だけどね」と謎めいた笑みを浮かべ、人差し指を立てる。

「ゆかちゃんのこと好きなんでしょ?」

 とっさのことで思わず首肯してしまう。正しいことだから別にいいのだけれど。

 またも満足げに笑った二人に少し居心地が悪く感じる。

 助けを求めようと黒河さんを目線だけで探すけれど、彼女は見つけられないくらいに綺麗さっぱりと気配を消していた。彼女は忍か? と本気で考えてしまったほどだ。

 少しの間くすくすと笑っていた宮苑次期代表が、ふと真面目な表情に戻る。

「でも、彼女を好きでいてもらわなきゃ、困る」

 どういう意味ですか?

 訊けない思いを抱えたまま、眉根を寄せて首を傾げた。

「すぐに分かるよ」

 表情だけで伝わったのだろう、彼はただそれしか言わなかった。

 尤もそれは、それ以上言う必要が本当になかっただけの話なのだけれど。

「時間もそんなにないことだし、単刀直入に言うよ」

 おれが僅かに構えるのを確認したのか、重々しそうに、だが強い決心を込めた口調で、目の前の端正な顔立ちをした少年は語り始める。

「ゆかちゃんは、明日お見合いをする。お見合いなんて名ばかりの顔合わせ会だから、終わったら間もなく婚約発表があると思う」

 え? と口がぽかりと開いた。

「今までだってほとんど『婚約者持ちの令嬢』の扱いをされてたけど、まだ正式に発表してなかったし、周りからの締めつけもさほどじゃなかった。でも」

 敢えてだろう、感情を込めずに淡々とした口調で紡がれる事実は、現実味が増す。

 ゆかりさんが、お見合いをする? 本当に?

 頭がぐわんぐわんとしているおれをよそに、その後を引き継ぐようにして高谷副代表が話し始めた。

「『正式』に婚約者を持ったあの子は、今までのように奔放な振る舞いは許されない」

 この意味、分かるよね? と彼の薄茶色の目は語っていた。静かに、残酷に。でも、事実を効果的に思い知らせるために。

『おれは彼女に二度と会えなくなる、ということですよね』

 ゆっくり、自分にも分からせるように、おれはスケッチブックにその言葉を記した。

 彼女は遠い存在なのだと改めて思い知った気がする。

 確かにおれも生まれは秋月の本家だけど、今はその遠縁でしかない。そしてもし本家にいたとしても、ふたつも階級が違えば恐らく話す機会など少ない。

 そんな雲の上のような存在であるはずなのに、ごくごく一般人に近いおれが彼女と知り合って言葉を交わし、しかも好きだと思えている今の状況。本当は、とても尊いことなのだ。

「彼女が望んでいない相手と結婚しようとしているのを、俺たちはどうにかして止めたい」

『……どうやって?』

 おれだって止めたい。好きだと伝えたい。

 でも実際の状況として、彼女は今も遠いところにいて、明日の『その時』を迎えるのをじっと待っている。

 おれの手は、決して届かない。

「それに協力してほしいから来た」

 宮苑次期代表が笑顔になったのを見て、目を丸くした。

 絵を描く以外は特にこれといったこともできないおれに、彼女の運命を左右できるような力も持たないおれに、いったい何ができるというのだろうか。

 そんな心を読み取ったかのように、彼は美しい碧の瞳を更に細めた。

「できることがあるから来たんだよ」

 スケッチブックの上の手は止まったまま、動かせない。何を言うべきなのか分からなかったのだ。

「もう一度訊くよ」

 じっと見つめてくる目は、恐ろしさを感じてしまうくらいには真剣で、反射的に背筋が伸びる。

「ゆかちゃんのこと、好き?」

 問いがシンプルならば、答えもシンプル。

『好きです』

 迷いなんてないし、単純なこと。色々な障害なんて全部抜きにして考えたら、その答えしか浮かばない。

 おれは彼女が好きだ。弱いところも、でも時折見せる強い瞳も、壊れそうなのにそれでいて守られるだけを自らに許すことがなさそうなところも、何もかも好きだ。

「それならよかった」

 宮苑次期代表は「分かっていた」という顔で、すらりと長い指をした手を差し出す。

「俺たちは彼女を救い出す計画をしてるんだ。もちろんこれから詳しく説明するし、その上で断っても構わない。でも、とりあえず。その計画、聞く?」

 不敵な笑みが目の前で揺れた。

 突然現れた彼らをどこまで信用していいのかなんて、分からない。

 それでもおれは、彼女を取り戻したくて。

 数瞬の後、しっかりとその手を握っていた。

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