父と娘
「ゆかり」
着付けが終わって部屋を出ると、よく耳に馴染んだ――しかし、かけられるとは思っていなかった声が耳に届いて。珍しい、と思いながらもそちらを見遣った。
「お父さま」
おはようございます、とにこりと笑う。
内心では怖くて震えているけれど、負けたくはなかった。気圧されたくはなかった。私が、傷ついてばかりの弱いだけの人間だなんて思われたくなかった。
馬鹿みたいだ、こんなふうにしか関われない親子関係なんて。
父は相変わらず何を考えているのか、その瞳や表情を見ただけでは分からない。
いつからこうなったのか。どうしてこうなってしまったのか。最近は毎日毎日考えているけれど、答えが見えることもない。
この人がこんなふうに冷徹になってしまったのは、いつから?
私には母の思い出はほとんどないけれど、彼女が生きていた頃はもう少し違っていた気がする。母と3人で笑っていたことも、あった気がする。
父がいて、母がいて、私がいて、使用人たちがいて。
幸せ、だった。幸せだったのだ、間違いなく。
でも彼女は、もういない。突然の病で亡くなってしまった。
あれは私が8歳の時。それまであんなに元気だった人が倒れて、あっという間に弱って、そして消えてしまった。
脳裏に刻み込まれている。悲しみだとか寂しさだとかそんなものの前に、たくさんの花に囲まれた母の遺影だけが、やけに鮮明に。
そうだ、その前で父は――母の名を呼びながら泣いていた気がする。他人から見ればきっとみっともなく、自分が上條代表だという人目も気にすることなく、子供のように。
身内の私からすればただただ胸が痛くて、「泣かないで」と言いながら近寄って背中をさすった。
――なかないで、おとうさま。ゆかりは、つよいおとうさまがすきです。
強いお父さまが、好き。
今思えば、何と酷なことを私は彼に言い放ったのだろうか。幼く、何も分かっていなかったとしても。あの頃の自分なりに彼を慰めたかったのだとしても。
私は彼から悲しむ機会を奪い、強くあることを強要した。
それからか。彼がこんなふうになってしまったのは。
ああ、何だ。総てが腑に落ちて、ずっと引っかかっていたことも綺麗に消えてなくなった。
総て、私が悪かったんじゃない。自分に業が返ってきただけじゃない。
「用意はできたのか」
「はい」
「心の準備は」
「……はい」
彼はきっと、母を深く愛していた。
だから彼女が亡くなって、壊れかけた。あの時にはきっと壊れかけていたのだ。そこに私によって刺された、止め。
ごめんなさい。
強さの意味を履き違えた彼も悪い。
でも、強くなるように強いた私も、同じくらいに悪い。
そして、母を愛していたからこそ、私には失望したのかもしれない。
私の顔には母の面影が何ひとつないのだ。父に似ているから。
もしも私に彼女の影を追おうとしたのならば、それを期待していたのならば、大なり小なり失望しただろう。
そんなの、ときっと他人は思うに違いないけれど。愛されていない、駒にしか思われていないことを納得するには、これくらいの論理しか私には浮かばない。間違いだとも、あまり思えない。
父を責める気もない。それだけ彼は母を愛していたと、私はよく知っているから。
「お父さまのために、上條のために、精一杯尽くします」
これが数々の罪を贖うための役目だというのならば、ちゃんと果たすから。
だから、この瞬間だけは、父を、上條を、裏切ってもいいですか?
だって、父が母を愛したようにして身を裂かれるほど愛おしく思うのは、和馬さんだから。
「……お前の母も果たした役目だ。しっかり務め上げろ」
「はい」
深く一礼する。
どうしてだろう。見間違いかもしれないが、一瞬だけ父の顔が悲しげに歪んで見えた。
「涼さまは分家とはいえ、総帥の御兄弟の御令孫だ。粗相のないように」
だがそんな様子も束の間、それだけを言い残して彼も玄関の方に向かっていく。
「はい」
私も、何も言えなかった。
万にひとつくらいの確率だけれど、もしかしたら父も、私がお見合いするということを憐れんでくれているのだろうか。
くだらないと分かっているのに期待してしまうのは、子供の悲しい性か。それとも、私の甘えた気性の産物か。どちらでもある気もしたし、どちらでもない気もした。
横付けにされた車に乗り込んでいく父。その後ろ姿を追いかけて乗り込みながら、何とはなしに今しがた出てきたばかりの家を振り返る。
ふと、見送りに出ていたメイド長と目が合った。
理由は分からないが、母親代わりのようなその人は――まるで今生の別れのように、とても寂しげな笑みを浮かべていた。




