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「さようなら」の後は、  作者: 汐月 羽琉
第三章 崩壊
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逃げられない道

 一日一日が無意味に過ぎていく。それが分かる。いや、それしか分からない。

 私はどうしたらよかったのだろう。どこで間違えてしまったのだろう。

「……お嬢さま」

 思考の世界に埋没させていた意識を、現実世界に呼び戻す。

 声が聞こえた方を振り返れば、そこにいたのは父付きの使用人だった。

「……前上まえがみ。どうしたの?」

 声を張る気力もなくて、淡く微笑むことしかできない。

 そんな様子を見てか、私に前上と呼ばれた彼は心配そうに眉を顰めた。

 あれから何日か経っているけれど、時間の感覚も怪しい。

 メイドが心配して持ってきてくれた氷で頬を冷やしても、さすがにあの次の日は腫れが目立ったために学校を休んだ。けれど、あとの日は使用人に連れられて学校に行って、門の前に横付けされた車に乗って、そしてそれ以外では家を出ることもなく、じっと部屋にいる。

 こんな単調な日々では、曜日の感覚も日にちの感覚もだんだんと薄れていって、カレンダーを見てもとっさには日にちが分からないほどだ。

 でも、ひとつ分かることはある。


 お見合いまで残された時間などもう、ほとんどないに等しいのだということ。


 私自身に実感がなくとも、カレンダーにメイドの一人がつけてくれた丸印は、嫌でも目に付く。

 一日一日、バツ印をつけていったら、ほら――もう、お見合いの日じゃない。

「……旦那さまに仰せつかりまして、お見合いの際のお召し物をお持ち致しました」

 複雑そうな表情のまま、彼が何かを差し出してくる。恐らく畳紙に包まれた着物。

「ああ……そうね。料亭だもの、振袖がいいわ」

 そっと開くと、そこにはやはり、金魚の描かれた美しい着物があった。

「綺麗ね……」

 父が選んでくれたのか、それとも他の誰かが選んでくれたのかは分からないが、美しい。恐らくこのためだけに用意された品物だろう。

 それでもどこか翳って、褪めた色に見えてしまうのは、私の心情のせいなのだろうか。いや、きっとそうなのだろう。この着物には全く罪はないのだけれど。

「どうして私たちって、こうしか生きられないのかしらね」

 上質な布地をそっと撫で、彼に問うても仕方のないことを、まるで独り言のように呟いた。

「え?」

 前上は当然だが戸惑っている。それでも、問わずにはいられなかった。

「ただの人間なのにただの人間としては生きられない。だけど、『自分たちは特別だ』と考え始めたら、それはもう、人間としての終わりだと思うの」

 時間を引き延ばしたいわけではない。私の役目を果たさないことなんて、最初から考えていないから。

 ただ、聞いてほしかったのかもしれない。自分がこの何日間かずっと考え続けていたことを。

「……私には難しいです、お嬢さま」

 眉間に皺を寄せた前上に笑んで見せる。

「何も難しいことなんてないのよ。私だって頭はよくないわ。難しいことを考えるのは大嫌い」

 そう、そんな私にだって分かり得る単純なこと。


「私もお父さまも、もうとっくに『人間』ではなくなってしまっているということよ」


 前上は驚いたようにしてから、慌てたように辺りを見渡した。誰かに聞き咎められてやいないか気になったらしい。他のお父さま付きの使用人がいないか確かめてから、小さく尋ねてくる。

「それ、では……お二人は、いったい何でいらっしゃるのですか?」

 怯えながらも、「そんなことはありませんよ」と気休めを言わない彼は、立派だ。ちゃんと誠実に、私自身と向き合ってくれている。上條の令嬢ではなく、『私』と。

 そういう部分がどうか変わらないでほしい。

 でもそれは甘い願い。冷徹な父の傍にいれば、無理だ。変わらずにはいられない。心を麻痺させなければ、彼自身が壊れてしまうかもしれない。そんなことは知っていた。

 だとしても、と、願ってしまう。

 私が変わってしまうから、いや、変わることができないでいるから、思いを託したいのかもしれない。無責任な話なのに。

「……歯車、かしらね」

 私たちは、上條という機械を動かす、ただの歯車。

 過剰に労働させた機械はすぐに壊れるように、上條もきっとそのうち破綻するだろう。私たちが必死になって回ったところで、終わりは来る。それが父の代か、私の代か、はたまたそれよりもずっと後の代かは分からない。あるいはもうすでに壊れているのかもしれない。

 父はそれを分かっていないのか、分かりたくないのか。

 いや、あの人のことだ。きっと、分かろうともしていない。

 それでいい。もう、それでいい。プライドばかり高くて、周りも見ていなくて、軋む音も耳に届かない。こんなにもギイギイと鈍い音を立てて揺れているのに、気づかない。

 でも、知らないふりをしている私だって同罪だ。

 栄華を誇っていられるのは今のうち。

 そのときはあの人の娘として、罪を重ねた上條の人間として、一緒に滅びよう。たったそれだけで贖い切れるとは思っていない。しかし、私にはそれしかできない。

「……私には、分かりません」

 前上の振り絞ったような声に顔を上げると、諦めてしまった私より誰より、彼は悔しそうな表情をしていた。

「どうしてお嬢さまがここまで苦しまねばならないのですか……!」

 ああ――彼はちゃんと、人間だ。

 上條の使用人たちは、主人たる父の彼らに対する扱いの問題もあるのだろう、どこか機械仕掛けの人形のようで。メイド長のような例外もいなくはないけれど、ほとんどがそうだ。

 けれど、嘆き悲しむことができるのなら、誰かを慈しみ心配して自分のことのように胸を痛めることができるのなら、彼はまだ壊れていない。

 私は彼らに貰うだけ貰って、いったい何を返せただろうか。

「前上?」

 呼び声に、彼はその表情のまま顔を上げた。

「ありがとう、私の代わりに傷ついてくれて」

 驚いて目を見張る彼の肩に微笑んで手を置き、労わるように撫でる。

「ごめんね。貴方には父がとても苦労をかけているでしょう? 守れなくて、ごめんなさい」

 父に不満を持っているくせに、私は何もできないままこの日を迎えている。だから、私に父を責める資格はない。

 たとえば私の大切な幼なじみたちなら、もっと上手に守れるのだろう。そうに違いない。

 彼らのことが大好きなのに、私は劣等感の塊。ひさなら、いずなら、その他の有能な幼なじみたちなら――考え出すと止まらなくて。

 彼らだって、彼らなりに悩んでいる。分かっているのに、駄目だ。人間、いつだって自分が一番可愛いから。

 自分が悪いと言いながら、彼らを大好きと言いながら、それなのに憎んでいる私は醜い。そして無力だ。

 でも、これが私だから。

 馬鹿だけど、醜いけど、無力だけど、それを全部否定してしまったら、私は『私』として生きてはいけなくなる。

 開き直ったわけでは決してない。

 どれだけ目を背けてしまいたくても、これが『私の見つけた私』。

 馬鹿なら、学べばいい。

 醜いなら、美しくなる努力をすればいい。

 無力なら、力を身につければいいのだ。

 きっと彼らもそうやって足掻いてきた。

 20年近く生きてきて、今さら気づくなんて遅いかもしれない。でも、気づかないよりはずっとマシだと信じたい。

「お父さまとは違う方法で……ちゃんと、貴方たちを守るから」

 現在の境遇は諦めても、未来はまっさらだ。父だって私の未来の総てを決定づけられるだけの力はない。


 せめて、敷かれたレールの中で、暴れる子供のように足掻いてやろうじゃないか。


 揺れる瞳ににっこりと笑いかけて、部屋の外にいるのだろう私付きのメイドたちに声をかけた。それで我に返ったらしい前上は、慌てたように一礼して出て行く。

「……勝手よね。私も」

 前上にあんなことを言いながら、今も私の思考を占拠しているのはただ一人。

 メイドたちが不思議そうにしているけれど、かぶりを振ることで誤魔化した。

「お嬢さま、痩せられましたか……?」

 心配そうな台詞に、「こんな短期間で痩せないわよ」とからから笑いながら。

「お美しいですよ、お嬢さま」

 柔らかい微笑みに「ありがとう」と微笑み返しながら。

 姿を追うのは、考えているのは、求めているのは、ただ一人。


 和馬さん――


 会いたいと紡ぐことも、思い浮かべることすら罪だろう。

 『上條の娘』として、使用人たちを守りたい気持ちは確かなのに。もう一人の私は、逃げ出して彼の元に走りたいと考えている。

 ああもう、早くお見合いが始まってしまえばいい。そうすればもう、後戻りなんてできないのだから。

 きゅっと帯を締められた感覚がして、鏡の前の自分に向き直り、背筋を伸ばす。

 「上條であれ」と、ただそれだけを己に言い聞かせて。

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