第2話:白いワンピースの少女
――あのとき、確かに聞こえた。
水の音が、俺の名を呼ぶようにして。
翌朝の村は静かだった。
昨日の放送のせいで空気が張りつめている。村人たちはみな口を閉ざし、視線を合わせようとしなかった。
溺死体が見つかったという“段畑”の方へ行ってみようかとも思ったけれど、祖母にきつく止められた。
それより気になっていたのは――あの少女だった。
黒髪に白いワンピース。
昨日、俺を見つめ「見たんだね」と口を動かした少女。
誰にも気づかれないように、すっといなくなったのが印象に残っていた。
村の同年代の子は何人か知っているが、あんな子は見たことがない。
午後、気晴らしに村をぶらつく。
舗装もされていない細道を抜け、坂道を上ると、小さな祠が現れた。
祠の奥には、封じられたような形の古井戸。
ロープで囲われ、近づくなという札が風に揺れている。
その前に――彼女が立っていた。
「やっぱり、来たんだ」
振り向いた少女の瞳は、水のように透き通っていた。
驚いて言葉が出なかったが、彼女は俺の反応を待たずに続けた。
「ここに来るのは、見られた人だけ」
「……見られた?」
「水に、映ったんでしょ。もう、逃げられないよ」
逃げられない。
その言葉に、背筋が冷たくなる。
「あなたの名前、日向翔真くんでしょ。外から来た」
「なんで知ってる」
「知ってるから。私は――この村の“昔”からここにいるから」
少女はそう言って、井戸の方に視線を向けた。
ロープの奥、封じられた蓋の隙間から、ぽたり、ぽたりと水が漏れている。
「……この井戸に、水神様が封じられてるのか?」
「違うよ。ここは“目”なの」
「水神様の、村を見張る“水の目”――」
ぞくりと、何かに見透かされているような感覚。
俺は気づく。少女の影が、地面に映っていない。
「……お前、誰なんだよ」
声が震えるのを自覚しながら問う。
彼女は一拍置いて、少しだけ笑った。
「私のことは……“葵”って呼んで」
その瞬間、どこからか水音が響いた。
ざぶんと大きな波音――川の方角からだ。
振り返ると、川の近くに村人が何人も走っていくのが見えた。
何があったのかと俺も駆け寄る。川岸には、真っ青な顔をした男の子が立ち尽くしていた。
「な、なんで……あいつ、泳げたのに……」
誰かの親族らしい。
川の真ん中あたりに、ひときわ深い水面が不自然なほど静かに広がっていた。
――また、誰かが“水に”やられたのか。
俺の耳にだけ、聞こえた気がした。
「ねえ、見てごらん――あの水面に」
思わず川に目を向ける。
そこに映っていたのは、自分の顔。
――の、はずだった。
水面に映った“それ”は、微笑んでいた。
今の俺が絶対に浮かべていないような、優しく、残酷な微笑みで。
誰かが、水の底から、俺の顔を借りて笑っていた。
次の瞬間、足元の水たまりから、ぴしゃっとしぶきが跳ねた。
視線を落とすと――水たまりが、俺の顔をじっと見つめている。
俺は言葉を失った。
“水がこちらを見ている”
――それは、もう気のせいじゃない。
そしてその夜。
家に戻ると、風呂場のドアが開いていた。
そこには“葵”がいた。
「……あなた、もうすぐ呼ばれる」
彼女は、風呂の鏡に映っていなかった。
俺はまだ、この村に来て一週間も経っていない。
なのに、もうこの家のどこにも“安全な水”なんてなかった。