木陰にて
「朱都頭(朱仝)、如何なさいますか?」
「ん…」
従卒の問い掛けに、朱仝は眉間に当てていた右手でベロンと顔を撫で下ろした。
【どうしたもんかな…
噂として広まるほど、東渓村では事故が「何か」によって起こされてると捉えてるようだが、だとすれば西渓村の住人の中にだって、何かしらを感じてた者がいてもおかしくはないと思ったんだが…まさか揃いも揃って「偶然」で済まされるとは。
それに、事故が起きるようになって東渓村が「何か」を感じ始めたなら、事故が起こらなくなった事に対しても、西渓村がその「何か」を感じてても良さそうなもんだが…】
ふーっ、と大きく一つ溜め息を零し、朱仝は立ち上がる。
「あとは…取りあえず保正に話を聞いてみるか。それで東渓村に向かおう」
「は」
「…朱都頭」
声を潜めた呼び掛けに朱仝が辺りを見回すと、少し離れた木陰に一人、中年の男が礼をしていた。
明らかに人目を気にしたその挙動にピンときた朱仝は、従卒二人をその場に待たせ、素知らぬ風を装って男の元へ近付くとその木に背を預ける。
「何です?」
「手前は喬三と申します。すみません、お呼び立てするような真似を…」
「いえ、お気になさらず」
「事故が続いていた事をお調べになっていると聞いたものですから」
「ええ」
「少し気になっている事がありまして。事故とは関係ないのかもしれませんが…」
「構いませんよ。お聞かせ下さい」
朱仝は木に凭れながら、背後には視線を向けもしない。
そして傍から不自然に映らないよう、目だけで周囲に気を配り、腕を組み、右手で豊かな髭髯を撫すように口元を隠し、何かを考え込んでいるような素振りをしながら会話を続ける。
こういった配慮ができるところもまた、朱仝が信頼を集めている理由の一つであって、相手が明らかに人目を憚っているというのに、わざわざ衆人の目が届く場所で、耳目を惹き付けるように「さあ話せ、やれ話せ」では、配慮もへったくれもない。それでは相手も言いたい事を言えないし、そもそもそんな配慮とは無縁だろうと思われていれば、こうして話し掛けられる事からしてない。
これが新任の歩兵巡捕都頭サマだったら…いや、この際この場に居ないお方についてアレコレ言うのは止めておこう。
「ここ半月ほど、あの沢で事故が起こっていない事はお聞き及びかと存じますが」
「…西渓村では、ですがね」
「『西渓村では』と申されますと…そういえば、一度水を汲みに沢へ下りた際、東渓村に程近い辺りで、何やら騒ぎが起きているのを見掛けた事がありましたが、もしや今は東渓村の方で事故が起きるようになったのですか?」
「そのようですね」
「え?」
問答が噛み合っていない。おまけに、朱仝の立場を考えれば、何とも無責任に聞こえる「答」だ。
「ああ、いやいや、変な答え方をしてしまいました。私が聞いた噂は東渓村について語られたものばかりでしてね。なので西渓村へ立ち寄ったのも、この村での事故についてではなく、東渓村の件で何か話を聞ければと思っての事だったんです。『今は東渓村の方で事故が起きるようになったのか』と聞かれましたが、そもそも西渓村で事故が続いてた事自体、今日、皆さんに話を伺うまで知りませんでしたから」
「左様でございましたか」
「ただ、ここ最近は皆さんも、あまりあの沢に寄り付いてなかったようで、東渓村の住人に事故が起きたところを見たという方には会えなかったんですが…今のお話で、実際に東渓村でも事故が起きてるという確証が得られました」
「や、確証とまで言われるとちょっと困ります。いくら直接目にしたと言っても、手前の居た場所とはかなり距離がありましたから。その騒ぎも本当に事故によるものだったかどうかまでは…」
「いえ、参考になりました。それがいつ頃の事だったか覚えてますか?」
「5日…いえ、もう少し前でしょうか。7日か8日か…」
「分かりました。この後、東渓村で話を聞く予定でしたから、その話も聞いてみます。では──」
「あー、いえ、ちょっとお待ちを…」
「まだ何か?」と言い掛けて、朱仝は根本的な事に気付いた。
それを伝えるためだけであれば、わざわざ人目を憚る必要がない。「まだ何か?」も何も、そもそもまだ本題に入っていないのだ、と。
「この村での事故が、確か…最後に起きた日の夕刻だと思いますが」
「ええ」
「道士風の者が二人、保正の屋敷から出てくるところを見ましてね」
「ほう…」
「その時は祈祷やお祓いの為に保正が招いたのだろう、ぐらいにしか思わなかったので、特に気にも留めなかったのですが…」
「実際にそうだったんじゃありませんか?その日を境に事故が起こらなくなったんでしょう?」
「ええ、確かに。しかし…」
男が僅かに言い澱む。その僅かだけで朱仝は十分に男の緊張を感じ取った。
「それから何日もしない内に、先ほどの騒ぎを見てしまったので」
「それもその道士達の仕業じゃないか、と?」
「や、そこまでは手前からは何とも…ただ、もしそうだとして、それを承知の上で保正がその道士達の力を借りたのかと思うと──」
「まさか…西渓村の王保正は、そんなお方じゃないでしょう?」
偶然だろうが何だろうが、現実に事故が起き、村人達に怪我人が出ている以上、村を束ねる保正の立場として、打てる手は打って然るべきである。
今回のように理由の分からぬ現象や、旱魃や長雨、疫病や飢饉など、人智の及ばぬ現象を相手に立ち向かうとなれば、こちらも人智の及ばぬ力を持った道侶(道士や仏僧)に頼ったところで、それ自体は何も不自然な事ではない。
しかし、いかに事態を鎮めるためとはいえ、見舞われていた災禍を他の──それも目と鼻の先にある東渓村の住人に擦り付け、その犠牲の上に自分達が安寧を享受するとなると話が変わってくる。
それでは東渓村の住人を贄に捧げたのと同じだ。
朱仝と西渓村の保正の付き合いは、こうした巡察の折に会話を交わす程度であって、そこまで親しい訳でもない。しかし、そんな身勝手な思考回路の持ち主ではない事くらいは、普段の会話からだけでも十分に察せられた。
「保正の屋敷を出たその道士達はどちらへ?」
「さあ、そこまでは…ただ、見掛けたのはその日だけです」
「他にその道士達を見た者はいますか?」
「どうでしょうか…もうかなり薄暗くなった頃合いでしたから。手前の見た限り、周りに村の者達は居なかったように思いますが」
「その話、誰か他に話しましたか?」
「言えませんよ。もし、相手が高名な方々だったらどうするんです?手前の首なんか、いくつあっても足りませんよ」
今、巷間では数多の道士の名が知られている。
清廉有徳、不断の修練によって、類い稀なる能力を身に付けた道士が高名かといえば、それは成り立つかもしれない。
しかし、その逆は必ずしも成り立たない。
現に朱仝も、未だ目にした事はないものの、数々の秘技を為す道士の噂は、折に触れて聞く。
その一方で、今上陛下(徽宗)が道教に傾倒されているのは周知の事実であるから、碌に修行に励んだ事もないような輩が、ただ甘い汁に与りたいがためだけに体裁を整えて道士を名乗り、或いは実際に取り立てられて政道に携わっているという噂も聞く。
では、もし村人が見たという道士達が後者だったとしたら──
元々、道士としての実力など無いに等しい者達であるから、自力では得られない「道士としての業績」は喉から手が出るほど欲しい。
つまり、そんな者達からしてみれば、他に要因があろうがなかろうが、偶然であろうが必然であろうが、ただ「この村で事故が起こらなくなった」という事実と「それを為したのは自分達である」という成果だけがあればいいのだ。その後に何が起ころうと、そんな者達の知った事ではない。
いや、むしろ「西渓村の事故を鎮めたのは自分達である」と誇っていながら、偶然であれ必然であれ、入れ替わるように目と鼻の先で事故が続くようになったなどと噂が広まれば、それも「為したのは自分達である」と責任を負わされ兼ねず、それではせっかくの得難い業績に傷がつく訳だから、知った事ではないどころか、そんな噂が広まってもらっては困るのだ。
何もなければそれで良し、仮にその広がっては困る噂が広まるようであれば…
一度広がり始めた噂を止めるのは至難の業だが、実は噂を消し去るだけなら手っ取り早い方法がある。
噂は口を経て広まる。だから、その口を持った者達の口を封じてしまえば、それ以上噂が広がる事はない。語る口がないのだから。
市井の者には難しくとも、権力にすり寄り、また実際に権力を得ているそんな輩達にとってみれば、そのくらいの事は造作もない。
「あの、手前から聞いたという事はどうか…」
「分かってます。御安心下さい」
「先ほど、王保正に話を聞いてから東渓村に向かうと仰られていたように聞こえましたが」
「ええ、そのつもりです」
「あの…」
男は殊更に声を潜めて続ける。
「実は一度だけ、保正にそれとなく道士の事を尋ねてみたのですが…」
「保正は何と?」
「手前の見間違いであろう、と」
「…見間違いじゃないんですね?」
「保正は『そもそもその日に訪ねて来た者はいない』と。『あの二人は道士じゃない』と言うのならまだ分かります。しかし、いくら薄暗かったとはいえ、動く人影を見間違える事などあり得ません」
「ふむ…」
男の言い分には大いに道理がある。暗闇の中で見たというのでもなし、そこにそんな言い訳が返ってくれば、疑うなという方が難しい。
「道士の人相は御覧になりました?」
「いえ、それが…」
「薄暗くてはっきりとは見えませんでしたか?」
「それもありますが、二人共、風帽を被っていたもので、人相どころか男か女かも…」
「風帽?」
「ほら、ありますでしょう?頭全体をすっぽりと覆う」
「ええ、それは分かりますが…それが道衣(道士の衣服)に?」
「風帽以外は見るからに道衣でしたが、手前も風帽を被った道士など見た事がありません。それで、最初に『道士風の者』と…」
「なるほど」
西渓村の事故が止まり、東渓村の事故が始まったタイミング。
保正の言動。
そして、道士風の二人連れ。
道士の存在を知らぬ者には偶然で片づけられる事故も、この男にとっては難しいだろう。何より、すでに朱仝が一連の事故を偶然とは思えなくなっている。
「分かりました。私から王保正に聞いてみましょう」
「えっ!?しかし、それでは…」
「私から貴方の事を口にするような真似はしませんが…貴方が一度、道士について保正に尋ねている以上、私が誰から話を聞いたかくらいは容易に察するでしょうね」
「話が違うではありませんか!手前は都頭に用心していただこうとお伝えしただけであって──」
「落ち着いて。あまり大きな声を出すと人目を惹いてしまいますよ?」
木陰から飛び出すほどに狼狽する男を余所に、朱仝は表情を変えるでもなく、視線も向けぬまま平然と髭髯を撫す。
我に戻った男が木陰に再び身を隠すと、
「私は何も暇潰しや興味本位で事故について調べてる訳じゃありません。務めとして来た以上、今の話を聞いていながら、保正を問い糺さずに村を出る訳にはいきません」
「……」
「御心配には及びません。貴方に不利益を強いる事がないよう、保正には私から強く言っておきます」
「…それで何事もなく済みましょうか」
「道士の噂が広まって困るのは保正も同じ──いや、寧ろ立場的には保正の方がより困るでしょうから、少なくとも村の外にまで噂が広がるような事にはなりませんよ。もし、村の内で何か嫌がらせのような事を受けたら、その時は遠慮なく私に言って下さい」
「…分かりました。朱都頭にそこまで仰っていただけるなら。無礼な物言いを致しました。お許し下さい」
「いえ、お気になさらず」
拝礼し、辺りを気にしながら立ち去る男を目で見送って、朱仝は従卒の元へ戻る。
「あの者は何と?」
「ん…少し保正から詳しく話を聞く事になりそうだ」
「左様でございますか」
【何とも思ってもみない方向に話が進んできたな…】
そんな思いを胸に、朱仝は従卒らと共に保正の屋敷へ向かった。
△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼
「これは朱都頭、ようこそおいで下さいました」
従卒と共に広間に通された朱仝を、保正は笑顔で迎える。
「これは王保正。突然の来訪にも快く迎えていただき、有り難うございます」
「いえいえ、何を申されますか。突然も何も、いつでも遠慮なくおいで下さい」
対して、朱仝の顔に笑みはない。
互いに礼を交わし、主客は分かれて席に着く。
「して、今日はどのような用向きで?」
笑みを絶やさぬ保正に、朱仝は若干の違和感を抱く。
人当たりのいい男であったのは確かだが、ここまでだったか、と。
「ええ。聞けば、何やら東渓村の住人に不運な事故が続いてるとか。それで少し話を伺えれば、と思いまして」
「あー、なるほど。そういえばそんな話もチラホラと…あの沢は前々から事故がよく起きますからな。手前も気を付けるよう、村の者に注意を促してはいるんですが」
「御存知でしたか」
「…え?」
心に後ろ暗さを抱える者は、とかく言わなくてもいい事まで言い、聞かれてもいない事にまで答えたがるものだ。
「今、保正は『沢での事故』と言われたが、私は『東渓村の不運な事故』としか言ってませんよ?ここへお邪魔する前に話を伺った皆さんは、私が『あの沢で東渓村の住人が立て続けに怪我をしてるようだが』と聞くと、一様に驚かれてました。『事故が続いたのは西渓村の方だ』と。てっきり保正からも同じ反応が返ってくるものとばかり思ってましたが、さすがは耳がお早い」
「まあ…隣村の事ですからな」
浮かべる笑みに一瞬洩れ出した動揺を朱仝は見逃さない。その一瞬で朱仝は確信を得た。
「どなたからお聞きになられたんですか?」
「…はて、あれは誰だったか。行商か何かで立ち寄った者からでしたかな?」
「では当然、西渓村で事故が起きなくなるのと入れ替わるように東渓村の事故が起き始めた、という事も御存知ですよね?」
「ええ、まあ。しかし、随分と人聞きの悪い言い方をなさる。まるで我らの作為によって東渓村で事故が続いているかのような…」
「何かお心当たりがあるんじゃないかと思いましてね」
「…ございませんよ」
【この男は知ってる。東渓村で事故が始まった経緯を。
何も知らないのなら、村人達のように「事故など偶然」の一言で片付けてしまえば済む話だ。そこで「我らの作為」などという言葉が出てきたという事は、少なくともこの男には「作為的な何か」の心当たりがある。それは道士風情の男達以外にあるまい。
あとはその「作為的な何か」をこの男が狙って引き起こしたのか、或いは予め意図してなかったものなのか、というところか。この男の本意ではなかったと願いたいが…】
「分かりました」
出された茶に手を付けもせず、朱仝は立ち上がる。そして、内心の動揺と狼狽を覆い隠すよう面に笑みを携える保正から、背後に控える従卒へ視線を移すと、
「お前達は先に県城へ戻れ」
「「…は?」」
面を喰らった従卒は互いに顔を見合わせる。
「あの…先ほどのお話では──」
「ああ、すまんな。東渓村へは私一人で向かう。代わりに、お前達には仕事を一つ頼みたい」
「それは御下命とあらば何なりと。して、どのような?」
「宋押司(宋江)に知県閣下への上奏をしたためるよう申し伝えてくれ。内容は『東渓、西渓両村の事故には多分に不審な点がある。住民の生命に関わる故、速やかに詳細な調査を致すべし』とな」
「承知致しました」
「宋押司!?ちょ、ちょっとお待ち下さい!」
慌てて立ち上がった保正の面に、すでに先ほどまでの笑みはない。
「な、何で急にそんな話になるんですか!?」
「実は出立前に押司とお会いしましてね。押司も今回の件を大層気に掛けられて…『何かあればすぐに知らせるように』と、強く言い含められて城を出ましたから」
「かもしれませんが…し、しかし、川べりに事故など付き物でございましょう?それを知県閣下へ上奏など、いかにも大袈裟な──」
「大袈裟であるか否かは私が決める事です。それとも、調べられては何か都合の悪い事でもおありか?」
「いや、それは…」
あるに決まっている。そうでなければ、ここまで慌てる必要はどこにもない。
そして、その動揺のもう一つの源泉は、その上奏がほぼ確実に通ると保正が知っている事にある。
宋江の「及時雨」っぷりはもちろん有名だが、宋江と晁蓋の親しい付き合いもまた、この鄆城県下では有名であって、二人が義兄弟の契りを交わしている事を知る者も多い。
いかに宋江が差し伸べられた手に見境なく応える男であろうとも、仮に保正が千金を積んで宋江に上奏しないよう頼み込もうとも、その千金を乗せる天秤のもう一方には晁蓋の生命が乗っていると聞かされれば、何を差し置いてもその上奏を通すに決まっている。
「王保正。私はまだ若輩者で、巡捕都頭を拝命してからの日も浅い。その私に問い詰められるのはいい気がしないだろう、と保正から語っていただくのを待ってたんですが…お話いただけないようなので私から伺います」
保正と正対した朱仝は右の掌を振り上げると、触れる物全てを打ち砕かんばかりの勢いで卓に打ち付けた。
「保正が会ったという道士風情の男達は、一体、何者ですか?」




