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水滸前伝  作者: 橋邑 鴻
第五回  北辺の道士 宿魔の士を憂い 黒衣の仙女 恣意もて此を扶くこと
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妖道

 (ようよ)う白み始めた空の下、一人の老人が、とある県の城外で開門を待っている。


 山東・博州(はくしゅう)(※1)。


 道衣に身を包んだ老人は、杖を突いてはいるものの、背はまっすぐに伸び、対照的にやや俯き加減で物静かに佇んでいる。

 道衣には珍しい、襟に付けられた風帽によって頭部はすっぽりと覆われ、その表情は窺えない。


 開門と共に城内に入ったその老道士は、しっかりとした足取りで県の衙門(がもん)(役所)を目指した。


 衙門に辿り着いた老道士は、門前の茶屋に入って一頻(ひとしき)り時間を潰すと、頃合いを見計らって門衛に声を掛ける。

 奥へ取り次いだ門衛が戻ると、老道士は何事もなく知県(※2)の執務室へと通された。


 その途中、執務室へと繋がる廊下で、老道士はふと足を止める。視線の先には談笑しながら近付く二人の武官。

 その姿を目にした老道士は一瞬目を(みは)り、すぐにそれを悟られぬよう、僅かに顔を俯けたものの、尚も風帽の中で鋭い視線を二人に向けて観察している。


「どうされました?」

「いや…失礼した」


 表から案内をしていた門衛に促され、再び歩き出すと同時に二人の武官とすれ違う。


「おい。俺の顔に何か付いてんのか?」


 二人組の一人が老道士に声を掛けた。さすがは武官といったところか、老道士の視線に気付いていたようだ。

 しかし老道士に慌てる風はなく、ゆったりとした所作で拝礼する。


「失礼致しました。貴方様の御尊顔が知り合いに似ていたものですから、思わず見入ってしまいました。平にご容赦を」

「ほおー。俺の顔に似た人間がそうそう居るとも思えねえが…それはまあいいや。アンタ、ただ人を見るだけにしちゃあ、随分と鋭い視線を飛ばしてきやがったな」


 その言葉に、もう一人の武官も老道士に疑いの目を向けるが、尚も老道士に慌てる様子はなく、僅かに口元を綻ばせると、


「御覧の通りの年寄りで、目が悪うございましてな。声を掛けさせていただこうにも、間違いがあっては失礼にあたりますから、よくよく確かめようと目を凝らしていたのですが…それで気分を害されたのでしたら、重ねてお詫び申し上げます」


 何とも取って付けたような理屈であるが、といって筋が通っていない訳でもない。腑に落ちないといった様子で、首の後ろを左手で撫でながら武官が門衛に視線を向けると、門衛はすぐにその意を察した。


「こちらは知県閣下と旧知のお方でして、閣下からお通しするよう申し付けられましたので…」

「…ふぅん」


 武官は尚も(いぶか)しげな視線を老道士に向けるが、とはいえ、正式に知県に招かれたとあっては、あまり露骨な難癖をつける訳にもいかない。


「では、失礼致します」


 一礼し、何事もなかったかのように老道士は立ち去る。


「何だ、まだあの道士が気になるのか?」

「んん…」


 横合いから掛けられた声に生返事を返しつつ、武官の視線は尚も老道士の背を追っている。


「なぁんか胡散(くせ)ぇんだよなぁ…」

「気の所為だろ?」


 門衛と老道士が執務室に入り、姿が見えなくなったところで武官は一つ溜め息を零す。


「…だといいんだが、な」


 そう言い残し、二人の武官はその場を立ち去った。



 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼



 執務室に通され、一人待つ老道士の前に、ややあってから知県は現れた。


「これは老師、よう参った。久しいな」


 気安く掛けられた知県の言葉に、老道士は風帽を外し、恭しく礼を返す。


「御無沙汰致しております。閣下におかれましては御健勝にて、衷心よりお慶び申し上げます」

「はは、そんな堅苦しい挨拶は要らんよ。老師の下で道術を学んで、かれこれもう何年になるかな…ああ、これは失礼した」


 衛士に椅子を用意させ老道士を座らせると、知県もにこやかに席に着く。


「貧道(道士の自称)も歳を取りましてな。閣下と一別以来、一体どれほどの月日が流れたのやら…面目次第もございません」

「何をまた情けない事を。一人でここまで来たのであろう?背も曲がっておらんし、達者も達者ではないか」

「いやいや、さすがにこの歳での一人旅は、きつうございましてな。弟子と共に参りましたが、閣下とは面識がございませんので、今日は一人で参った次第で」

「何を水臭い。老師の弟子となれば、(わし)の弟弟子ではないか。遠慮せずに連れて参れば良かったものを」


 知県は臆面もなく言い放つが、実はそんな大層なものではない。


 生来の遊び人で、各地を遊び歩いている際にたまたま老道士と出会い、朝廷の高官に気に入られようと修行を始めたところまでは良かったものの、あまりの辛さに早々と根を上げて逃げ出した経歴の持ち主である。

 にも拘らず、弟子だの弟弟子だのとは何とも片腹痛い話であって、それだけでこの知県の器が知れるというものだ。


 それは言葉遣いを見ても分かる。


 たとえ僅かな期間とはいえ老道士に師事し、何より知県自らが老道士の弟子だと言い放っているのだから、目の前の相手は紛れもなく己の師だというのに、随分と気安い口をきく。


 虚栄心は大きいのに向上心はなく、教えを乞うておきながら敬いもしない。


 そんな男がなぜ知県などという要職に就いているのかといえば、タチの悪い事に禁軍の高官に縁者がおり、その縁故を頼ってうまうまと知県の椅子を手に入れたという次第である。


「して、いつまでこの地に滞在する予定だ?長く留まるようなら宿代も馬鹿にはならんだろう。儂の屋敷に空いてる部屋があるから、弟子共々遠慮なく使ってくれて良いが」

「これは有り難いお言葉ながら…その前に、閣下にお知らせ致したき儀がございます」

「うん?何だ」

「旅の道中、この地に関する噂を耳に致しましてな。まずは閣下にお伝えすべきと存じたのですが…」

「…ですが?」


 老道士は知県の側に控える衛士を気にする素振りをした上で、殊更に声を潜めて続けた。


「…内容が内容であっただけに、ここで話すのは如何なものかと」

「たかが噂であろう?この者達の事なら案ずるには及ばん」

「壁に耳あり、とも申しますからな。それに、真実とは存外そうした世に溢れる、数多(あまた)の戯れ言の中に身を潜めているものです。努々(ゆめゆめ)、御油断召されませぬよう」

「…それほどの大事なのか?」


 老道士の深刻な面差しに釣られて思わず声を潜めた知県に対し、老道士は表情を変えずに僅かに頷く。


「…分かった。お前達、少し座を外せ」

「お待ちを」


 左右に控える衛士を払おうとした知県を老道士は制した。


「何だ?」

「ここは窓や戸が多うございますし、閣下に用向きのある者が入ってこないとも限りません。室を移した方が宜しいかと存じます」

「そこまで気を配るほどの事か?とは申せ、窓や戸の少ない室となると書庫くらいしかないが…老師、構わぬか?」

「は。不躾を申しました。お聞き届けいただき有り難うございます」

「何、老師がそこまで不安だと言うのなら、それは構わぬが…ただ、普段それほど長く留まる室ではないのでな。少し支度をさせるので暫し待て」


 知県は急いで椅子や卓などを書庫に運ばせたり、掃除をして体裁を整えるように命じ、再び他愛のない昔話や、老道士が旅の間に見聞きした世間話などに花を咲かせた。


「さて、支度も整ったようだ。参ろうか」

「…は」


 書庫の前で衛士に「自分が許可するまで立ち入るな、他の者も立ち入らせるな」ときつく命じてから、まず知県が室に立ち入る。


 その背に続く老道士の目には、妖しい光が宿っていた。



 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼



「ったく、何だってんだよ」

「いつまでもグズグズ言ってたってしょうがないだろ。引き受けた以上、さっさと済ませて戻ろう」


 二人連れで書庫に向かう道すがら、一人の提轄が誰に憚る事なく愚痴を零し、もう一人が苦笑混じりに宥めている。

 朝方、老道士とすれ違ったあの二人だ。


 県の規模がそれほど大きくない事もあり、州から派遣されている武官の中では、二人の「提轄」が最も地位が高い。つまり二人はこの地に駐留する禁軍の指揮官である。


 夕刻に近付いた頃、隊の詰所で休憩を取っていた二人を、何とも弱り切った顔を引っ()げて、県の押司(おうし)(※3)が訪ねた。


 曰く──

『知県閣下が書庫に籠ってしまい、仕事が捗らないので何とかしてくれないか』と。


 雑務に関しては押司を初めとする胥吏(しょり)達がいれば、大抵の事は何の問題もない。

 しかし、県の施策や州への上奏など、知県の裁可が必要な物も当然ある。そこで知県が雲隠れしてしまえば、仕事は滞る一方だ。


押司(アイツ)押司(アイツ)だろ。んーなもん書庫に押し入って、首根っこひっ捕まえて引っ張り出しゃ済む話じゃねえか」

「迷い込んだ野良犬を捕まえるのとは訳が違うよ。それにあの知県の機嫌を損ねたら、押司なんて命がいくつ有っても足りないさ」

「俺の命だって一つしかねえよ」


 それが癖であるのか、その提轄は辟易とした顔を隠しもせず、左手で後頭部を(さす)る。


 県には禁軍の指揮権が与えられていない。故に、県に駐留はしているものの、二人の所属は州である。

 つまり、二人は知県の部下でも何でもなく、たとえ有事に際して知県と協力する事はあっても、知県の指揮を受ける訳ではない。


 県によっては、地元の有志を募った「郷軍(きょうぐん)」という、県独自の部隊を組織したりもしているが、この県の郷軍は精々、巡捕都頭に従って賊の捜索や捕縛を手伝う程度で、そこまで組織立ってはいない。


 元より、いくら武官より文官の方が重用される時代といっても、文官である知県がしゃしゃり出たところで真っ当に部隊を指揮できるはずがなく、そもそも知県には禁軍を動かす指揮権からしてなく、郷軍も戦力としては全く宛てにならない。

 正にこの県は「ない・ない・ない」と、無い無い尽くしもここに極まれり、である。


 さすがに「提轄」という下級職名に、一般人ならともかく、官僚クラスにまで効果のある、上等な「畏怖」や「威圧」の特殊効果は付与されていないものの、さりとて万が一の有事に際すれば、形式的にも実質的にも駐留禁軍の指揮官である二人を(たの)むしかない訳で、知県としても二人を蔑ろにする訳にはいかないのだ。

 少なくとも県の押司などと比べれば、よほど二人の方が知県に対して物申せる立場なのは確かである。


 大体、職務放棄だけでも十分けしからんというのに、挙げ句それを諌めた二人を斬り捨てようものなら、知県の人生はそこでオシマイ、あとは運を天に任せて、異世界での二周目プレイに期待するくらいしか道は残されていない。

 それが分かっているからこそ、押司も二人に頼んだのであるし、二人も引き受けたのだ。


 ──と、傍からは見える。


「それが分かってるなら、せめて面と向かって愚痴るのは止めろよ?」

「ったく…何だってあんな奴が知県になれんだよ」

「まあ、何と言っても知県の従兄は、あの悪名高い歩帥(ほすい)閣下だ。面と向かって知県に嫌味の一つも言ってみろ。俺らの首なんて簡単に…」


 言葉を言い終える事なく、苦笑と共に手刀を首の前で二、三度左右に振る仕草。それを見たもう一人の提轄は、顔を(しか)めて「チッ」と舌を打つ。


 禁軍は大きく「殿前軍」「侍衛親軍(じえいしんぐん)馬軍」「侍衛親軍歩軍」に分けられる。

「帥」は言うまでもなく「最高指揮官」を意味する文字であるから、つまり「歩帥」とは「侍衛親軍歩軍の最高指揮官」、正式な官職名で「侍衛親軍歩軍都指揮使(としきし)」を指す通称、略語だ。


 格からすれば歩軍よりも馬軍が、馬軍よりも殿前軍の方が高いとはいえ、それでも歩帥となれば、栄えある禁軍のNo.3である。


 その歩帥の縁故で知県の椅子を易々と手に入れた男だ。形式的だの実質的だの、そんな面倒臭い事を考える必要は全くない。

 気に入らない提轄の首二つなど、いくらでも()げ替えてしまえば済むのだから。世間の常識など、この県では通用しない。


 詰まるところ。


 押司は命惜しさに二人に泣きつき、二人は他に適任もいないので渋々引き受けた、という訳である。


「別に提轄なんて、あんな奴の機嫌取ってまでしがみつこうなんて思っちゃいねえよ」

「まあ、それもそうだけどな」


 そんな愚痴を交わしながら二人が書庫に向かうと、一人の衛士が立っていた。見るからにお疲れのようだが、命じられた以上は、と職務を全うしているようだ。


「あっ!」

「よお、御苦労さん」


 救いの神が来たとばかりに、衛士は困り果てた顔を浮かべ、それでも書庫の中までは届かぬようにと、声を潜めて泣き付いた。


「勘弁して欲しいですよ、全く。いつになったら出てくるのか…」

「押司が来なかったか?」

「来ましたよ。何度も声を掛けてましたけど、返ってくるのは『入るな』『戻れ』ばかりで。もう足は痛いわ、腹は減るわで…」

「ん?もしかして、昼飯も食べてないのか!?」

「ええ、もう朝からずっとですよ。最初は二人で立ち番をしてたんですけどね。一人は昼飯を食いに行って、そのままトンズラしました。アイツ後でマジ、ブッ飛ばしてやる」

「お前もまた真面目だな。昼飯ぐらい清々食やいいじゃねえか。んで、そのままトンズラしちまえば良かったんだよ」

「簡単に言わないで下さいよ。もし閣下が出て来た時、誰もこの場に居なかったらどうなると思ってるんですか。今日を俺の命日にしたいんですか?」


 キレ気味の衛士に二人は苦笑を交わすが、あながち冗談では済まされないところがまた恐ろしい。


「道士の方が出て来た時には、これで漸くお役御免かと思ったのに、全然──」


 そこまで聞いた途端、朝方道士と会話を交わした提轄が、衛士の両肩を掴んで話を遮った。


「痛っ!えっ、何ですか!?」

「『道士が出て来た』?その道士ってのは、風帽の付いた珍しい道衣を着てた道士か?」

「え、ええ。そうですけど…」

「閣下と一緒にこの書庫に入ってたのか?」

「ええ。入る時に一緒に入って…」

「出たのは?」

「もう、かなり経ちますよ?昼にはまだ早い頃合いだったと思いますが…」


 顔を見合わせた二人の提轄の脳裏に嫌な予感がよぎる。


 根拠はない。しかし、根拠がなくとも感じるのが胡散臭さというものだ。


 衛士を戸から離すと、左手で首の後ろを摩りながら提轄が戸の前に立った。


「閣下」


 二、三度戸を叩き、声を掛けるが反応はない。戸に耳を当てて中の様子を窺うと、微かに笑い声とも呻き声とも取れるような音がしている。


 戸から顔を離して扉に右手を掛けると、その背後からはもう一人の提轄が厳しい顔で視線を送る。


「あ…の、閣下からは誰も入れるなと言われたんですが、大丈夫ですか?」

「心配すんな。俺が責任を持つ」


 提轄が右手に力を入れると、扉は音もなくスッと開いた。


 元々、中で作業する事を前提に造られた部屋ではなく、専ら書を保管するための室である。

 戸は入り口の一つだけ。後は明かり窓がいくつかあるのだが全て閉められ、室の外から確認できるのは、戸から入る明かりが届く範囲だけである。


 その先端、室のほぼ中央で、知県は戸に背を向けて立っていた。


 小刻みに肩を揺らし…笑っている。


「閣下!」

「…あぁ?」


 振り向いた知県は、およそこの世の者とは思えぬ顔をしていた。

 目には狂気を宿し、口元を醜悪に歪め、小刻みに傲笑(ごうしょう)を洩らす。


「閣下、如何なされたのです!?」

「…フッ、フハッ、ハハッ。儂は…手に入れたのだ」

「…は!?」

「これさえあれば…この力があれば…いずれ…」

「閣下!」


 知県はふらふらと幽鬼のような足取りで戸に向かう。


「…退()けっ!!」


 覚束ない足取りで立ち去る知県を、二人の提轄はただ呆然と見送るしかなかった。


 その日の内に知県を訪ねた老道士の捜索が行われたものの、結局その行方は(よう)として知れなかった。

※1「博州」

現在の山東省聊城市の東部一帯。

※2「知県」

県の長官。現代の日本では市区長に相当する。

※3「押司」

胥吏の一種。胥吏の中でもやや地位が高いが、所謂(いわゆる)「ヒラ」の胥吏を指す事もある。『水滸伝』の有名人にも、初登場時の肩書きにこの「押司」を持つ人物がいるが「ザコ胥吏じゃあんまりだから、とりまどっち付かずの『押司』辺りにしといたろか、と作者に気を遣われた」説が有力らしい。職務は文書の作成・管理など。

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