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水滸前伝  作者: 橋邑 鴻
第四回  清風三傑 大いに清風鎮を鬧がせ 武知寨 兵馬を留めて奸佞を除くこと
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清濁併せ呑む

「早い話がそいつらにしてみれば、信ずるに足る理由があるから、正知寨を黒幕と信じてるんであって、その理由を知らん俺達と『確証』の真贋を論じてる場合じゃないんだよ。一刻も早く娘を助け出したいんだろうからな」


 花栄だってそうだ。

 自分の許嫁が連れ去られ、その犯人を特定する証を得られたら、そしてその証が真実であると信じたら、他人から何と言われようと、許嫁を奪い返しに犯人の下へ乗り込んでいく事だろう。


 問題は今回、花栄が「乗り込まれる側」だという事だ。



 【もし、本当に正知寨が娘を勾引(かどわ)かし、役宅なりどこなりにでも監禁してるとすれば、到底許し得る行為じゃない。元より人品卑しく強欲で酷薄、住人からの苦情が引きも切らないような男だから、およそ人の上に立つ器でもない。

 しかし、どれほど許せなかろうが、どれほど狭量であろうが、曲がりなりにも正知寨は俺にとって上官にあたる。


 それに、たとえ俺が西寨に勤め、賊の目標が東寨であったとしても、所詮は清風鎮という、一つの(まち)の中の話だ。

 文の内容が事実なら賊の狙いは明白に東寨だろうが、だからといって、物のついでとばかりに鎮で暴れ回らないという保証がある訳でもない。


 何よりも俺は武官だ。

 賊徒が至れば当然、俺には禁軍提轄として上官を護り、賊を平らげ、住民を安んずる義務がある…】



 予め襲撃を知得していながら傍観し、あまつさえ正知寨や鎮の住人にまで被害が及びでもすれば、花栄達に激しい非難が向けられるのは目に見えている。それどころか「賊と通ずる者」として疑われ、職を辞し、罪を得る覚悟もしなければならないだろう。


 いや、義を貫き、そのために職を失う程度の事を、決して花栄は躊躇ってなどいない。いっそ襲撃した者達が、その足で娘を連れてこの西寨に逃げ込んでくれれば、とさえ思っている。

 そうすれば、自らの地位と引き換えにしてでも正知寨の非道を暴き、この清風鎮から放逐してやりたい、と本気で思っているくらいだ。


 花栄が武知寨であるならば。


「さて、その上で俺達がどうするかって話だが…栄、お前はどう思う?」


 花毅の問いに花栄は口籠る。


 進言するのは簡単だ。しかし、花栄の身分は提轄である。

 花栄が傍観を進言し、仮にそれが容れられたとして、結果に対してまず責を負うのは、武知寨として清風鎮の武を担う花毅であって、花栄ではない。


 自らの進言に対し、その責任を父親に負わせなければならないという現実が、花栄に発言を躊躇わせる。


「何だ、さっきまでの勢いはどうした?お前なら『それでも東寨の防衛に向かう』とでも言うのかと思ったが」

「…その文の内容を真実とするなら、とてもそんな気にはなれませんよ。いっそ今からでも、我らが正知寨を問い糺したら如何ですか?」

「それはお止めになられた方が宜しいかと」


 即座に否定したのは樊虞候だ。


「何故だ?」

「第一に、当事者と思しき破落戸(ごろつき)どもは既にこの世にいませんから、正知寨に白を切られてしまっては、我々にそれを覆す根拠がありません。第二に、もう一方の当事者である娘を保護しようにも…まあ、向こうが素直に受け入れるとも思えませんが、無理を通して家捜しをしたとして、我々はそもそも娘の顔を知りません。何と言っても娘はこれ以上のない生き証人ですから、あまり正知寨を追い詰めるような真似をすると、我々が保護する前に娘の口を封じられてしまい兼ねません。そこで『無礼があって下女を手打ちにした』と言われても、我らには事の真偽を確かめる術がありません」

「ん、んん…」

「第三に──」

「まだあるのか」


 樊虞候は軽く頷き続ける。


「第三に、東寨への襲撃があるとして、それがいつ頃になるのかが分かりません。もし我らと正知寨の押し問答の最中に襲撃があった場合、小将軍はどうなさるおつもりですか?」


 もはや花栄には、ぐうの音もない。樊虞候の指摘は全くもって理に(かな)っている。

 正知寨にしてみれば、勾引(かどわ)かしの件を詰問されたところで痛くも痒くもない。樊虞候の言う通り、娘さえどこかに隠して、後は白を切っていれば、それで済むのだから。


「そもそもな…」と後を継いだのは花毅。


「栄。勾引(かどわ)かしの件を詰問するとして、何処でそれを知ったと言うつもりだ?」

「ですから、それはこの文が…」


 と言い掛けて、花栄は自らの主張の根本的な瑕疵に気付いた。


 手紙を読めば当然、正知寨は直ちに厳戒態勢を敷き、花栄達にはその指揮を執るよう、正式に命が下される事になる。


 ここまではいい。

 では、なぜ警戒態勢を敷くのか、という事だ。


 花栄達は手紙の内容が事実であろうと結論付けた。その手紙を読んで警戒態勢を敷くのだから、理由は言うまでもなく「勾引(かどわ)かしを企図した正知寨が報復を恐れたから」という事になる。

 逆説的に言えば「警戒を敷くのなら、それは勾引(かどわ)かしを認めたも同然」という事であるから、花栄はそれをもって正知寨を問い糺そうというのだ。


 しかし、事実は花栄達の推測通りであったとしても、正知寨にしてみればそんな理屈など、そもそも相手にする必要が全くない。何となれば、襲撃に対する警戒の因果を云々というのなら、襲撃予告である手紙にこそ、その因果があるのだから。

 平たく言えば「襲撃予告が届いたから襲撃に備える」のであって、そこに勾引(かどわ)かしの有無を論ずる必然性など存在しない。強いてというのなら真っ向から否定して、それこそ花栄がまず思い浮かべたように「そんなものは襲撃の為の方便だ」と一笑に付せば済む話である。


 無論、その理屈は正知寨が手紙を見てこそ成立する。そして、正知寨を問い詰めると意気込む当の花栄が、わざわざ東寨へ乗り込み、その手紙を見せつけてやろうというのだから、間が抜けているにもほどがある。


 兵の指揮を命じられたとしても正知寨を糺す事はできる。しかし、待っているのはひたすら結論の出ない水掛け論だ。


 花栄の主張を支えているのは、ただ「手紙の内容は事実であろう」という、言ってみれば憶測であって、確証と呼べる物が何もない。

 確証もないままに正知寨が勾引(かどわ)かしを認めるか。

 認める訳がない。認める必要がないのだから。


 東寨の中を手当たり次第に家捜ししようにも、そんな事を正知寨が認める訳がない。

 当たり前だ。正知寨は勾引(かどわ)かし自体を認めないのだから。

 そもそも、いつ襲撃があるかも分からないという状況下で、その襲撃予告を東寨へ知らせた張本人が、兵の指揮を捨て置いてまでする事ではない。


 正知寨が勾引(かどわ)かしを認めないのなら警戒する必要がない、という理屈にもならない。

 当然である。襲撃との因果は勾引(かどわ)かしではなく、花栄がわざわざ見せつけた手紙にあるのだから。


 全くもって時間の無駄だ。


 そして、襲撃を迎える。



【身一つで出向くのと違い、文を手に東寨を訪れれば正式に迎撃の指揮を命じられ、張提轄が宛てにならない事は正知寨が誰よりも知ってるんだから、間違いなく父上か俺のいずれかは東寨に配される事になるだろう。


 父上の言う通り、二龍山や桃花山の賊が押し寄せたところで、俺なり父上なりが防戦にあたれば、この寨は容易に破れん。()して得物も(ろく)に扱った事のないような、農民の寄せ集めが相手となれば何をか言わんやだ。

 だが、賊を討ち滅ぼしたからといって、それでどうなる。それこそ正知寨の思う壺だ。


 仮に賊の心情を斟酌し、軍令違反を承知で俺なり父上なりが東寨を離れたとしても、或いは捕らえた賊の証言を根拠に、東寨を捜索する事も出来なくはないが、樊の言う通り、切羽詰まった正知寨は何をしでかすか分からん。

 娘を連れて東寨から逃げ出されるくらいなら余程マシだが、そこで保身の為に娘の口を封じられでもしたら、いよいよ取り返しの付かない事になる。


 既に五人の口が封じられてるんだ。それが六人にならない保証はどこにもない…】



 結局、手紙を正知寨に突き付け、事態の解決に寄与するのかといえば、どれほど花栄が考えを巡らせても、そんな要素は欠片も見当たらなかった。


「『この文が』?続きは『娘の命を奪い兼ねない』かな?やれば出来るじゃないか。お前も頭の回転は速いんだから、もうちょっと落ち着いて考える癖を──」

「父上はどうなさるおつもりですか?」


 花毅は若い息子をじっと見つめた。


 花栄は憤っている。


 明らかに人の上に立つべきでない者が、臆面もなく人の上に立っているという、この国の理不尽さに。

 そして、その明らかな理不尽を覆せない、自らの無力さに。


「やはり俺は息子の成長を喜ばなければならんな」


 花毅は僅かに相好を崩し、樊虞候を見遣(みや)る。


「勿論ですとも」

「父上!どういう意味──」

「あー、待て待て。別に冷やかしてる訳じゃない。寧ろ誇ってるくらいだ」

「は?」

「確かにお前は物事を正直に見すぎる嫌いがある。杓子定規に物事を捉え、傍からは融通が利かんように見えるかもしれんが──」

「それは褒められてるんでしょうか?」


 僅かに鼻白んで話を遮る花栄に、花毅は呆れ顔だ。


「あのなぁ。話は最後まで聞けと、さっき言ったばかりだろうが。ったく、どこまで…あぁ、そうそう、だがお前は理不尽に対し憤る気概を持ってる。ただ(いたずら)に規則に従い、権力に(おもね)るんじゃなく、そうした世の矛盾を憂い、その矛盾に立ち向かう為に、自身の為すべき事を探ろうとする」

「別に普通だと思いますが…」

「それが普通なら、世の中には普通以下の人間が満ち溢れてるんだよ」

「しかし、矛盾に立ち向かったところで、それに跳ね返されては結局、何も変える事が出来ません」

「ふふ…」


 思わず笑みを零したのは樊虞候。


「何だ、樊」

「いえ、申し訳ございません。これほど実直な方もなかなかおられませんので、つい…」

揶揄(からか)うな!」

「いえいえ、そんなつもりは全くございません。少し見方を変えれば、小将軍もすぐに気付かれますよ」

「…?」

「まあ、慣れの問題だな。それはこれまで常に手元に置き、狭い世界しか見せてこなかった俺の責任だ。これから世間を知っていけば、すぐに身に付くさ」


 したり顔の二人を尻目に、一人面白くないのは花栄だ。


「父上。一体、どうなさるおつもりなんですか?」

「ふぅ、仕方ない。それじゃあ真面目極まる我らが小将軍に、一つ御教授進ぜようか」

「父上!」

「まあまあ、小将軍。もう一度その文をよくお読みになって下さい。中ほどに答えがありますから」


 樊虞候に宥め促され、渋々ながら花栄は手紙をつらつらと読み返す。

 すると、一度目に読んで激昂した辺りまで読み進めたところで、ふと違和感を感じて首を捻った。


「答えは出たか?」

「あ、いえ、まだ…しかし、何かこの部分は…」


 花栄が気になったのは、兵を動かすなと警告する言葉が()()に強い事だ。


 襲撃の成否が花毅達の参戦に懸かっているのは花栄にも分かる。

 であるならば、花毅達を西寨に閉じ込めておくために、憐憫と義気を揺り起こすような、下手に出た文面であっても良さそうな物だが、それこそ花栄が激昂したように、まるで脅迫し、挑発するかのような物言いだ。


「この文を出した者は、なかなか見識が高いようですね」

「そうだな」

「そうか?」


 樊虞候の言葉に、親子の意見は分かれた。

 花毅は今日、何度目かの苦笑を樊虞候と交わす。


「何て言うか…お前は本当に真っ直ぐな男だな。今度から『真面目将軍』って呼んでいいか?」

「何ですか、それは!?いい訳がないでしょう!」

「小将軍。我らの職責はこの清風鎮を守護する事です。その我らが指を咥えて賊の襲撃を見過ごせば、その後に何が待っているかは…言うまでもありませんよね?」


 正にそれを危惧していたのだ。花栄に分からないはずがない。


「州や県の査問だな」

「傍からは我らが職務を放棄したようにしか見えない訳ですから、それを覆す為には相応の証がなければなりません」

「それでこの文を『相応の証』にしようと言うのか?しかしなぁ──」

「そこに、我らの情へ訴えるような文言があったとしたら、どうでしょう」

「それは…まあ、我らがこの文を出した者達に(ほだ)され、願いを聞き届けた事に…あっ!!」


 何かに思い当たった様子の花栄に、笑みを零して花毅が後を継ぐ。


「そういう事だな。何の咎もなく突然、娘を奪われた…まあ一応、賊と呼ぶが、この賊の怒りは察するに余りある。だが、そこで『どうか我らを憐れんで兵を動かさないでくれ』と慈悲を乞うような真似をされても困るだろ?」

「確かに…いくら賊の動機に酌むべき余地があるからといっても、我らの立場で軽々にそれを酌んでやる事は出来ません。寧ろ、そんな言い方をされては尚更、賊に与したと見られ兼ねない訳ですから…」

「向こうもお見通しなんだよ、それくらいの事は。だから、わざわざ『もし兵を動かしやがったら、鎮も西寨もタダじゃおかねえからな』と、喧嘩を吹っ掛けるような物言いをしてるのさ。要するに『西寨に籠る為の(もっと)もらしい理由をお膳立てしてやるから、心置きなく籠っててくれ』って事だ。実際、後でお偉方がとやかく言ってきたところで、この文を盾にすれば、十分に抗弁出来るだろ?」


 この手紙に従えば、鎮の外には兵が伏せられている。そして、襲撃に際して西寨から東寨へ兵を動かせば、この清風鎮を焼け野原にするという。

 この手紙は「勾引(かどわ)かしと襲撃には因果関係がない」という主張を覆す根拠にはならなくとも、「襲撃が事実としてあれば、伏兵もまた事実である」と主張する根拠には大いになり得る。


 だが、襲撃は間違いないにしても、実際に兵が伏せられている可能性はまずない、と花毅は見ている。伏せる意味がないからだ。

 仮に禁軍を相手に牽制として兵を伏せるのなら、相応の指揮官が必要となる。しかし、そもそもの目的は娘の救出であって、西寨への攻撃ではないのだから、それほど優秀な指揮官がいるのなら、わざわざ鎮の外に置いておく手はない。


「では、父上…」

「ん。俺らは西寨に留まる」

「…宜しいんですか?」


 父を案じ、不安に満ちた視線を投げ掛ける息子に、花毅は温かい笑みを返しつつ、


「これはまあ、恐らくの話になるんだが…恐らくこの賊達は、娘を救い出す事しか考えてないんだ。だが、何の考えもなしに乗り込んでも、俺達に出張(でば)られたら終わりだと思ったんだろ?実際そうだしな。だから賭けに出たのさ」

「賭け、ですか?」

「小将軍。賊が襲撃…で命を落とせば無論それまでですが、仮に生き延びたとしても、その後、何食わぬ顔でこれまでと同じ生活を送れる、という事はまずありません」

「ああ。襲撃の成否に関係なく、そこに加わってる時点で、お尋ね者として追われる未来しか残されてないな」

「命を落とすか、生き延びて罪を問われるか、賊にとっての未来はその二通りしかない訳ですから、ここで汚名の一つや二つを余計に着せられたところで、何でもありませんよ」

「娘を救い出す為ならこれまでの暮らしも、これからの人生も平気で捨てるような奴らなんだ。罪でも汚名でも、被って娘を救う可能性が僅かでも上がるなら、喜んで被るさ。だが、あからさまにそう訴えたからって、俺達がそれに応える事はない。だから、言外に『そちらに都合の悪い事は遠慮なく、いくらでも自分達の所為にしてくれて構わない。その代わり、どうか今回ばかりは見て見ぬ振りをして、娘を救わせてくれ』という真意を潜ませて、俺たちの良識に賭けたんだよ」

「なるほど…」

「さっき樊が言ったろ?理屈じゃ分かってても、なかなかこんな賭けは出来るもんじゃない。大した見識だよ、この賊は。ま、何にせよ、向こうがここまでお膳立てすると言ってるんだ。お望み通り、遠慮なく乗ってやろうじゃないか」


 花毅の説明に花栄は表情を綻ばせるが、すぐにまた難しい顔に戻る。


「あ、いや…しかし…」

「何だ?忙しい奴だな、お前は」

「あ、いえ…この文を出した者達は、どうやって破落戸どもが斬られた事を知ったんでしょうか…?」


 花栄が顎に手を当て小首を傾げる。


 この文が真実である、と花毅達が結論付けたのは、破落戸達が斬られた事実がこの西寨に伝わったからこそだ。

 しかし、破落戸達が斬られるか否か、或いはそれが西寨に伝わるか否かなど、寨外にいながら事前に知り得る術などあるはずがない。


 襲撃の成否は花毅達の参戦の有無に懸かっている。だからこそ、それを防ぐために手紙を届けたはずであるのに、その目的を達するための大前提である「手紙が真実であると信じさせる」部分は、どう贔屓目に見ても運任せだ。

 そこが花栄には不自然に思えた。


「破落戸の遺体は秘密裏に処理されたという事ですし…たまたま遺体の処理に関わった者に(つて)があった、という事でしょうか」

「さあなぁ…さすがにそこまでは分からん。そもそも、そこはどれだけ考えても結論が出んだろう。結論の出ん事にいつまでも(かかずら)ってても仕方あるまい」

「それはそうでしょうが…」

「可能性の話をすれば、お前の言う通り東寨の兵に伝があったのかもしれんし、全くの偶然という事だって無くはない。実のところ、破落戸の件は伝わっても伝わらなくても、こいつらなりに勝算があったのかもしれん。だが、文の内容について俺達は『真実だ』と結論付けたんだ。後はその結論に基づいて、これからの行動を決めるだけさ」


 燕順には当然「勝算」などない。ただ真実を告げ、花毅達の慧眼と良心に賭けただけだ。

 だが、偶然にも破落戸達は燕順らの襲撃前に斬られ、偶然にもその事実は襲撃前に花毅達に伝わった。


 正に『禍福に門はなく、ただ人が招くのみ』(※1)と古人の言葉にある通り、正知寨の悪行がいくつもの偶然を招き寄せた、といったところだろう。


「父上」

「何だ、真面目将軍?」

「それは止めて下さいと言ったでしょう!?」


 思わず気色ばむ花栄に、花毅はくつくつと笑いを噛み殺す。


「我らが西寨に兵を留めるとして、仮に鎮に…鎮の住人にまで被害が及びそうになった場合は如何致しますか?」

「ん?そんなもん決まってるだろう」


 花毅は我が子を温かく見守っていた父親としての表情を一瞬で引き締め、武知寨として部下である花栄を見据える。


「その時は遠慮なく賊を討つさ。『理不尽に奪われた娘を返してくれ』と言うから、それを信じて娘を返すところまでは許してやるんだ。それをいい事に、調子に乗って鎮で暴れ回るような奴らなら、容赦は要らんだろ」

「はい。東寨の兵達には何と?」

「まあ、正知寨の巻き添えで無駄に命を捨てる事もないからな。その辺りは樊を遣わして手配しておく。栄、お前は西寨(ここ)の兵達に、東寨への襲撃があっても妄りに持ち場を離れるなと伝えろ。『賊が外にも兵を伏せてる』らしいからな。東寨への襲撃は陽動だと付け加えておけ」

「はっ!畏まりました」


 花栄は姿勢を正して拝命し、花毅へ手紙を渡すと、(きびす)を返して執務室から退出していった。


「では、閣下。私は東寨へ──」

「あー、待て待て。樊、お前の仕事には()()()がある」

「ついで…ですか?」


 (いぶか)しむ樊虞候に対し、花毅は椅子から立ち上がり何事か耳打ちする。


「なるほど。しかし、小将軍にはそれをお伝えしなくても…?」

「あいつは反対するさ。正知寨(ヤツ)がどれだけ腐ってようが、上官は上官だからな。だが、さすがに今回は目に余る」

「はい」

「襲撃を傍観するだけでも後々面倒な事になるだろうが、その上こっちの狙い通りに事が運ばんとなれば、いよいよ目も当てられんだろ?俺の個人的な考えで指示を出すんだ。その責任は俺が負うさ。知らなくてもいい事は、知らないままでいればいいんだよ。そうすれば、()かなくていい嘘を()く必要もない」

「万が一の巻き添えは、私のような老い先短い老いぼれ一人で十分だ、と?」

「…お前最近、自虐と嫌味に磨きが掛かってきたな?」


 知らなくていい事を知らされた樊虞候の強烈な一撃に、花毅は僅かに鼻白む。しかし、その顔に本気の不快の色はない。


「恐れ入ります」

「褒めてねえよ」

「いや、少し冗句が過ぎました。確かにあんな男の悪行の為に、小将軍が未来を棒に振る道理はありませんからな。閣下同様、手前もまたお若い小将軍の身を案じ、将来に期待する一人です。こういった役回りは我らが引き受けるべきでしょうな」

「我()、ね…自分の事はともかく、俺まで『老い先短い老いぼれ』呼ばわりする事はないだろうが」

「手前より10近く年上ではありませんか。まさか、未だに御自分がお若いと思っていらっしゃるのですか?」

「あー、うるさい。気持ちはまだまだ若いんだよ。面と向かって現実を突き付けるな」


 似た者同士の主従は再び苦笑を交わす。


「まあ、さっきの話じゃないがな、御丁寧に向こうから全ての責任を被ると言ってきてるんだ。望み通り娘を返してやるついでに、いっそ思う存分甘えてやろうじゃないか」


 花毅はヒラヒラと手紙を揺らしながら続ける。


「だが、くれぐれも正知寨に気取られんよう気を配れよ?」

「は、それはもう…ただ、一つ気掛かりなのは、正知寨や張提轄がどれほど東寨の兵達を掌握しているのか、という事です。それによっては、兵達から正知寨の耳に入るという事態も考慮しなければなりません」

「『納賄蛆』か…」


 花毅は暫し瞑目し、右手で(ひげ)を弄りながら一頻(ひとしき)り思案する。


「袁三に任せるか。あれでなかなか機転も利くからな。誰に伝え、誰に伝えるべきでないかも、あいつなら判断出来るだろ?」

「袁三なら確かに…それに私が長々と東寨を彷徨(うろつ)いているのも何かと目立つでしょうから、袁三に任せてしまうのも手かもしれません。では、早速向かいます」


 執務室を辞す樊虞候を見送った花毅は、再び椅子の背凭(せもた)れに深く身を預け、大きく一つ息を零すと、


「さて、どうなる事かな…」


 そう(ひと)()ち、正面の一点を見つめる。


 清風鎮に嵐が迫っていた。

※1「禍福に門はなく、ただ人が招くのみ」

『春秋左氏伝(襄公二十三年)』。原文は「禍福無門。唯人所召。」。訓読は「禍福(かふく)(もん)()し。(ただ)(ひと)(まね)(ところ)なり」。「『幸せの門』とか『災いの門』という物があるからそれぞれがやってくるのではなく、幸福も災禍も普段の行いによって招き寄せる物である」の意。『水滸伝』でも第21回で引用されている。

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