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水滸前伝  作者: 橋邑 鴻
第四回  清風三傑 大いに清風鎮を鬧がせ 武知寨 兵馬を留めて奸佞を除くこと
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嗤う主

 清風鎮は今日も常と変わらず賑やかである。


 通りには行商が荷を牽いて行き交い、立ち並ぶ商家は活気に溢れ、瓦市には娯楽を求める者の歓声と、酔いどれ達の喧騒が響く。

 ごく有り触れた日常の風景だ。


 ある一箇所を除いて。


 東寨・正知寨の執務室は今、非日常に満ちている。

 その非日常を生み出している要因は、紛う事なく、所在なさげに室の主を待つ(くだん)破落戸(ごろつき)達である。


「仕事」が終わり、頂くものを頂けば、すぐにでもずらかるつもりであった彼ら。

 しかし、いざ「獲物」が入った(かご)を張提轄に引き渡してみれば、今は忙しいだの、もうしばらく待てだのと報酬の支払いをグズグズと引き伸ばされ、ようやく声が掛かったかと思えば、自分に付いて執務室まで五人で来いと言う。


 最初は(いぶか)しんだ五人であったが、張提轄から「周知寨が手ずから報酬を渡す」と聞かされては断る訳にもいかず、およそ場違いな風体のままノコノコやって来たという訳である。


 執務室には五人と提轄しか居ない。

 そこへ、二人の衛士を引き連れた周知寨が入ってきた。執務用の卓の前で横一列に並んで待たされていた五人と、その後ろに控える張提轄が一斉に拝礼する。


「おぉ、これはこれは。よう(わし)の期待に応えてくれたのぅ。さすがは提轄が見込んだ者達だ」


 知寨は、どっかと肘掛け椅子に腰を下ろし、上機嫌で語りかける。


「何をそう畏まっておるか。面を上げて良いぞ」

「は…へへっ、こうして閣下の御尊顔を拝せるとは、俺らなんぞにゃ身に余る光栄で…」


 五人は未だ気付いていない。その「御尊顔」の裏に潜む凶悪な素顔に。


「それで、あの…約束の物は…?」

「おぉ、そうだったの。報酬はすぐに提轄から渡されるであろうが、期待に応えてくれた褒美に儂からも一つ、土産をくれてやろうかと思ってな」

「それはまた、お気遣いを賜りまして…しかし『土産』ってのは…?」

「提轄から聞いておるぞ。お主らはこの後、()()()でも()()()()()()予定であるとな」

「は、それで…」


 破落戸達は互いに顔を見合わせ、期待に口元を緩ませた。

 知寨はあの「獲物」に相当な御執心だと聞いている。その「獲物」を献上したのであるから、さぞや大層な土産が出てくるのではないか、と。


「それで儂の顔を拝ませてやったのだ」

「…は?」

「儂はな、こんな片田舎に留まる男ではない。この後は陛下の覚えめでたく朝廷の要職を賜り、果ては位人臣を極める身だ。その儂の顔を拝したとなれば、これほどの手土産はなかろう」

「あの…それはどういう…」


 知寨は面こそ笑顔であるが、その笑みには少しずつ醜悪な本性が滲み出ていく。


「全く…これだから物事を解さぬ阿呆は始末に負えんわ。もう良い。提轄、お主から褒美をくれてやれ」

「ぐふっ!!」

「っ!!…がはっ!!」


 知寨に向かって右端の男が、提轄によって背後から一刀の下に斬り伏せられ、返す刀で隣の男も斬って捨てられる。


「儂の顔を手土産に、とっとと九泉の閻王(※1)の下へ去ね。愚図どもが」

「九泉…!?テメエら最初から…ぐあっ!!」


 その問いに提轄が答える事はない。

「今、将にこの場を発ち」九泉の下へ旅立つ男達に、答えてやる義理などあろうはずもない。


 残る二人の破落戸は応戦しようとするが、ここは知寨の執務室である。

 入室の際に得物を渡して──否、取り上げられてしまっていた。


「…クソっ!!」

「お待ち下さい、閣下!我ら今回の事は口が避けても他言致しません。ですから…」


 衛士二人と提轄に囲まれ、一人が命を乞う。しかし──


「フン。『致す』『致さん』の問題ではないわ。貴様らのような輩に秘密を握られたままで、この先おちおち枕を高くして寝られる訳がなかろうが」


 知寨は冷たく言い放ち、目と顎で提轄らに行動を指し示した。


「閣下!た、助け…ぎゃっ!!」

「ぐはっ!!」


 血溜まりの中へと新たに事切れた二人が倒れ込み、執務室には血の匂いが満ち満ちていく。

 その五人を見下す知寨は、早くも淫猥な喜色を浮かべていた。


「提轄。よくぞ()()()()()()()()を討ち取り、騒動を未然に防いでくれた。追って褒美を授けよう。さて…ひひ、儂はこれから用があって忙しいでな。ひひ…後の事は任せるぞ…ひ、ひひ」

「…は、畏まりました」


 そう言い残し、知寨は執務室を後にした。



 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼



 全ての戸が閉められた薄暗い室。

 その室の奥まった寝台の上で、少女は息苦しさに目を覚ます。


 朦朧とした意識の中、その少女──李柳蝉は未だ自らの身に起きた現実を正確に把握できていない。


 目の前には見知らぬ天井。

 その光景が夢とも(うつつ)とも理解できないまま、李柳蝉は漫然と記憶の最後を辿る。



【確か大伯(おじ)さまの屋敷を出て、お墓に行って…】



「う…うぅ!?」


 ようやく李柳蝉は自らの口に何かを噛まされている事に気付く。



【何、これ…猿轡!?てか、ここ何処…()っ…たぁ…】



 身体を起こそうとして、李柳蝉は後頭部の鈍い痛みに顔を(しか)めた。



【そういえば、お墓から戻ろうとした時、誰かが来て…えっ!?ってゆーか、ちょっと待って…】



 両腕を掲げるように頭の横に伸ばして横たわっている事に気付いた李柳蝉は、痛む頭を(さす)ろうと腕を引く。しかし、両の手首が締め付けられるばかりで、腕の自由がまるで利かない。

 慌てて両足を動かしてみるが、腕ほどではないにしろ、それでもどうにか膝同士が微かに触れる程度で、やはり自由は利かなかった。



【ウソでしょ…何なのよ、これ】



 頭の痛みはそれほどでもない。

 混乱する思考の中、何とか現状を把握しようと李柳蝉は頭を(もた)げた。


 見る限り着衣に乱れはない。それは僅かな救いだ。

 そのまま周囲を見渡す。


 灯の点る燭台がやや離れた机上に在って室を照らすが、その先に並ぶ突き上げ戸(※2)は全ての戸板が下ろされている。

 隙間から僅かに外の光が漏れ入り、今が夜という事はなさそうだが、昼時なのか夕刻なのかも判然としない。


 天井だと思っていた光景は寝台の天蓋のようだ。

 そして、見慣れぬ調度品ばかりの室内。


 李柳蝉には「鄭延恵の屋敷の事なら隅々まで知っている」という自負がある。それこそ日々の雑務や清掃などのため、入った事のない室はない。


 今、自分のいる室が、鄭延恵の屋敷でない事は一目瞭然だった。



【何でこんな事に…どうしよう、どうしたらいい…?】



 その時、足の先から戸の開く乾いた音と共に外の光が差し込む。

 一縷の希望に(すが)って視線を送った李柳蝉は、しかし、一瞬で失意の底へと叩き落とされる。


 一つの人影が室に入ると、すぐに戸は閉められた。

 室の灯りに照らし出されたその人相は醜悪そのもの、体型もでっぷりと肥え太り、李柳蝉がそうであって欲しいと思い描いた幾人かのそれとは、まるで懸け離れている。


「おぉ、漸く目を覚ましたか。あまりに長い事、目を覚まさんので、あの馬鹿どもが強く殴り過ぎたのではないかと心配になったわ」

「う…ぐぅ」


 聞き慣れない、高く不遜な声を放つ男は、ゆっくりと近付いて李柳蝉の右手に立つ。灯を背に自分を見下ろす男に、李柳蝉はやはり心当たりがない。


「ふ…ひひ、やっと会えたのう」

「うぅ…」


 李柳蝉にとっては猿轡をされているというのがまた痛い。


 声を出せれば力の限りに助けを呼べるのだが、というのではない。むしろ状況を把握し切れていない今、(いたずら)に騒ぎ立てるのはあまり得策ではない。それが相手の逆上を招いてしまえば、却って事態は悪化する。

 しかし、今はその時でないにせよ、いざこの窮状を脱する光明が見出だされたその一瞬に、自らの声で存在を主張できないというのは、極めて具合が悪い。


「あぁ、そういえば口を塞いでおったな」


 そう呟いて男は腰を下ろし、李柳蝉の口元に手を伸ばす。


「一応、言っておくがな。いくらでも騒ぎ立てて良いぞ?どれほど喚こうと、どうせ誰一人、儂の許可なくこの室には入れん。寧ろ、散々に喚き散らしているところを無理矢理に…というのも、な。ひひっ…」


 (おぞ)ましい。


 李柳蝉にはその感情しかない。

 その男の顔も、声も、容姿も、思考も、目に見え、耳に入り、肌に触れる全てが、等しく、この上なく、悍ましい。



【でも、堪えなきゃ…騒いだら状況がもっと悪くなっちゃう。それに今、声を上げて気付いてくれるくらい誰かが近くに来てるなら、部屋の外がもっと騒がしいはずだもん。


 助けを呼ぶなら、外が騒がしくなって、自分の声でここに呼べるくらいじゃないと…じゃなくても、せめて手と足が自由になって、自分でこの部屋から出れるようになんなきゃ。


 でも…我慢しなきゃなんないのは分かってるけど…マジでムカつく!マジでキモいっ!!何なのよ、コイツっ!!!!】



「ん、んんっ!!…はぁ…はぁ…貴方、誰?」

「んん?…ひひ、そうか儂を知らんか。まあ、儂の素性なぞどうでも良かろう。知ろうが知るまいが、これからお主が儂の獣欲を満たす肉壷となって生きていく事に変わりはないでな。ひひひ」

「は…?ちょっと何を言ってるのか分からないんですけど…取りあえずこの拘束も解いてもらえません?」


 李柳蝉は努めて感情を荒立たせないように話す。

 どこかのドスケベでドチビな義兄(あに)との日常が、些かなりとも役に立った。


「ほ。これはまた気の強い女だ。ふ、ひひっ、それを身動きの取れん状態で飽くまで責め立てられようとは…ひひ、堪らんのぅ、そそられるわ。ひひひ」

「…随分と良い趣味をお持ちで」


 投げ掛けられた皮肉に、男はやや鼻白みながら李柳蝉に顔を寄せる。


「女。貴様、単に自分の置かれた立場が理解出来んだけの阿呆か?ひひ、名は何と言う?」

「貴方が名乗らないのに、私だけが名乗る筋合いはないと思いますけど?」

「フン。下賤の身は口の利き方も知らんか」


 溢れ出す情欲を隠そうともせず、淫靡な笑みを浮かべていた男の顔と声音に、一瞬険悪な気配が混ざる。


「やっ!ちょっ、と…嫌っ!!」

「ひひ、これは仕込み甲斐があるのぅ…ひっ、ひひ」


 男は無遠慮に裙子(スカート)の上から李柳蝉の太腿を撫で回すと(たちま)ち機嫌を直し、再び淫靡な笑みを満面に湛えた。


 寒気がする。虫酸が走る。吐き気がする。


 李柳蝉は必死に身体を(よじ)って抵抗するが、両の手足を拘束された状態では、動ける範囲などたかが知れている。


「ちょっ…と、アンタいい加減にしなさいよっ!!」

「ふっ、ふひひっ…ほれ、下卑た本性が洩れ出ておるぞ?良い良い、もっと見せよ。いひひっ」


 今頃「兄」達は必死になって自分を捜してくれているはずだ。

 いや「兄」達だけではない。鄭延恵など、それこそ村の男達を総動員して自分を捜しているだろう。


 すぐに来る。きっと、もうすぐそこまで助けが来ている。


 そう自分に言い聞かせながら、李柳蝉は襲い来る猛烈な不快と闘い、来るべきその時まで自らの身を守ろうと必死に思いを巡らせる。


「わ、分かったわよ!言う事を聞けば良いんでしょ?分かったから放して!とにかく、手足をほどいてよっ!!」

「…んん?」


 男は訝しげに李柳蝉の顔を覗き込み、太腿を(まさぐ)っていた手を放す。


「生まれの賤しい者というのは全く以て…物の頼み方も知らんのか。ほれ、もう一度機会をやろう。儂にどうして欲しいと?その下卑た頭で、よう考えてみよ」


 肌の接触がなくなり、李柳蝉の心を満たしていた不快感は僅かに和らいだ。

 しかし、変わりに襲い来るのは、胸が張り裂けんばかりの屈辱。



【何でこんな奴に──】



 悔しさに瞳を潤ませる。しかし、それを溢れさせれば、この男を喜ばせるだけだ。

 目を閉じ、鄭家村での教えを思い出す。


『無闇やたらと感情に任せて言葉を発してはいけない』


 目を開き、しかし、視線は虚空を漂わせ、李柳蝉は力なく呟いた。


「…お願いします。拘束を──」

「聞こえん」


 忍耐を振り絞って発した李柳蝉の言葉を、男はただの一言で斬り捨て、再び李柳蝉の下肢に手を伸ばす。


「お願いしますっ!!拘束をっ…解いて下さい」


 気配を察した李柳蝉は、男の顔を睨み付けはしたものの、先ほどの耐え難い不快を味わうくらいなら、この程度の屈辱を堪える事など造作もない、とばかりに意を決して解放を乞う。


「ふっ、ふひっ、そうかそうか。それほどこの束縛を解いて欲しいか。ひっ、儂の意のままになってまでもなぁ。ひひ」


 男は立ち上がり、李柳蝉を見下ろした。


 李柳蝉は顔には出さずとも、内心密かに安堵する。



【でも、まだ油断出来ないわ。

 ここで助けが来るのを待ってる余裕ないかも…


 コイツ、見た感じ武官じゃないわよね。入口に錠をした様子もなかったし、王哥(王英)との鍛練で鍛えた今だったら、何とか隙を衝いてこの室から逃げ出せるかしら。


 でも、出るだけじゃダメ。

 私がここから逃げれば、コイツ絶対マジギレしちゃうもん。もしその後でまた捕まっちゃったら、今度こそ何されるか分かんない。室を出るなら、助けが来るまで絶対逃げ切らなきゃ。

 それならまだ、ここで助けが来るまで時間を稼ぐ方法を考えた方がマシ…?】



 李柳蝉が未だ自分の選ぶべき道に逡巡し、答えを見出だせぬ間にも男は寝台に上がり、そして──


「うぐっ…ちょっ、と…何、して…」

「『何をするのか』と?ひひ、儂がいつ、拘束を解くと言ったかの?」

「ふ、ざけないでよ…」


 男は李柳蝉の腹に馬乗りとなり、醜悪な笑みを浮かべて磔の贄を見下ろす。


 李柳蝉の目論みは呆気なく瓦解した。


「ふひひ、その足りん頭で、よう思い出してみろ。儂はその枷を外すと言ったか?んん?」


 嘲るような男の問いに、これまで耐えてきた李柳蝉の(たが)が外れた。


「アンタ…マジでいい加減にしなさいよ!重いのよ、このデブっ!!今すぐアタシの身体から下りろっ!!!!」

「ひひ、この期に及んで、まだそんな口が利けるか」

「グズグズうるさいのよっ!!早く下りて、手足を解けって言ってるでしょうがっ!!!!」

「…おっ!?」


 李柳蝉は吠えた。吠えながら、両の瞳からは堪えていた涙が止めどなく溢れていた。


 愛する人でない者に触れられる不快。

 身動きが取れない苛立ち。

 そして、こんな男の良心に期待していた自らの愚かしさ。


 押し寄せた様々な感情は、辛うじて保っていた李柳蝉の心の堰堤を苦もなく打ち壊した。


「ひっ、ひゃはははっ!!そうか、悔しいか!泣くほど悔しいかっ!!堪らん、堪らんなあっ!!良いぞ、存分に見ていてやる!好きなだけ泣けっ!!ひゃははぁ~っ!!」


 男は両手を李柳蝉の顔の脇につき、狂喜に歪んだ顔を近付けて、贄の顔を(ねぶ)るように眺める。


 拘束された四肢、間近に迫るあまりにも醜悪な顔、そして、腹部に感じる鉄石の如く怒張した物体。

 それらが李柳蝉に抗いようのない現実と、これからすぐにでも迎えるであろう未来の姿を無慈悲に突き付ける。


 不意に、鄭延恵の言葉が李柳蝉の脳裏をよぎった。


『この世は理不尽に満ちている』


 この男の事だ。

 今、目の前で醜悪な面を晒し、自分を見下しているこの男こそを理不尽と言わずして、何を理不尽と言うのか。


 ここに至り、李柳蝉はようやくこの室で目覚めた自分が今、どのような状況に置かれているのかを把握した。


 自分の一体、何が悪かったのか。


 些細な事で愛しい人と喧嘩をした事だろうか。

 誰にも告げず両親の墓参に向かった事だろうか。

 今は亡き両親に自分の幸せを報告した事だろうか。


 きっと私は悪くない。

 なぜなら、相手は「理不尽」という存在なのだから。

 理屈などない。理屈などそもそも必要ない。そして理屈など通じない──


 その結論に辿り着いた瞬間、李柳蝉の心を堪え難い恐怖が覆い尽くし、無明の絶望が打ちひしいだ。


「ひゃっはっははぁー!そうだ、その顔だっ!!この馬鹿が!漸く理解したかっ!?ひっ、ひははっ…お前は最早、儂のモノだ!儂のモノとして一生、儂に尽くして生きていけっ!!もっと見せろ!その整った顔立ちを絶望に歪め、もっと儂を愉しませろっ!!ふっひひ、ひゃははぁ、あーっはっひゃっひゃっ…」


 眼前で狂ったように奇声を上げる男の姿が直視に堪えず、李柳蝉は顔を背けた。

 もはや残された道は一つしかない。


「…誰かっ!!!!誰か、助け──うぐぅっ!!」


 力の限り叫んだ李柳蝉の口に、男はつい先ほどその口から外したばかりの手拭いを、一切の慈悲なく押し込んだ。


「叫ぶのは構わんのだがな。(ようよ)う手に入れたというに、舌でも噛まれては(かな)わん」


 頭を振り、舌で押し、懸命に布を吐き出そうとする李柳蝉の抵抗などまるで意に介さず、男はその小さな口に容赦なく布を突き入れていく。


「何、心配せんでも良い。口の手拭いくらいは、その内取ってやる」

「んん、んんんー!…んぐううっ!!」


 恐怖に震え、涙で滲んだ李柳蝉の視界に、先ほどまでの狂乱を湛えた笑みではなく、まるで害虫を踏み潰すが如く、酷薄な視線を投げ掛ける男の顔が映る。


「お前の理性が消し飛ぶまで、徹底的に嬲り、穢し、甚振(いたぶ)り尽くし、泣き叫ぶ気力も、自ら死を選ぶ気力もなくなった後で、な」


 いつ来るともしれない助けを、ただ待つ。


 李柳蝉にはもうそれしかない。

 自らの意思で抗う術は潰えた。

※1「九泉の閻王」

「九泉」はあの世、黄泉の国。「閻王」は閻魔。「地獄の閻魔」の意。

※2「突き上げ戸」

戸の上部を支点にし、押し出すように持ち上げた戸板を棒などで支える形態の窓。「突き上げ(ひさし)」、「上げ(びさし)」などとも。

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