使えるモノは何でも使う
李柳蝉奪還のため、最初に清風鎮に入ったのは王英と鄭天寿である。
鎮に入るにあたってまず懸念されたのは、いかに鎮に入るか、という事だ。
燕順は良い。鄭家村とは縁も所縁もない旅商人を装って入れば済む。
多少、顔が知れ始めてきているといっても、それは商人仲間での話だ。衛兵に咎められる心配はまずない。
村の者達も心配はない。仮に鄭家村の者だと知られていようと、問答無用で追い払われない限りは、素知らぬ振りで通ればいい。
だが、二人は違う。
二人は一度、正知寨の手の者と立ち回りを演じている。身体的な特徴を持つ二人であるから、正知寨の手が及んでいれば、鎮に入るにあたって衛兵に咎められる可能性が十分にあった。
そこで燕順が一計を案じ、休息を取る僧侶達の元へ向かったのだ。
燕順は僧侶達に有りのままを話した。
李柳蝉が勾引かされた事。
それが正知寨の手によって行われた事。
未遂に終わった前回の騒ぎを王定六が目撃しており、正知寨が主導した確証がある事。
そして、全てを告げた上で協力を求めた。
午後の法要を中止し、村を出る一行に王英と鄭天寿を紛れさせ、鎮に入れてやって欲しい、と。
無論、二人を鎮に入れるためだけの協力であって迷惑は掛けない、鎮に入った後は無関係を装ってくれれば良い、と念を押しての事だ。
そこへ、一旦横にはなったものの、李柳蝉の安否を思って全く寝付けず、結局、燕順の後を追ってきた鄭延恵も説得に加わり、災難に見舞われた李柳蝉に同情の色は見せつつも、後難を恐れて「武知寨を頼るべき」とか「そもそも秘密裏に勾引かしたのだから、ただ鎮に入るだけなら、そこまで心配する必要はないのではないか」と難色を示す僧侶達をどうにか説き伏せた。
僧侶達が村を出るまでの僅かな時間で、各々の行動を慌ただしく打ち合わせると、僧衣を借り受けた二人が他の者に先立って鎮に入った、という訳である。
△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼
東寨への侵入については「宛てがある」と手筈を引き受けた鄭天寿に一任されており、鎮に入ると鄭天寿はその足でどこかへ向かった。
鄭天寿と別れた王英は、何かの役に立つのではないかと思い立ち、朝方に済ませた車夫としての報酬を受け取り、待ち合わせ場所である瓦市(繫華街)の酒家(居酒屋)で一人、酒を呷りながら、燕順と鄭天寿が来るのを待っている。
王英は今日ほど酒を不味いと思った事がない。
口に含めばひたすら苦く、鼻を突く香りはただただ臭い。どれだけ喉に流し込んでも、酔えそうな気配が毛ほどもない。
鄭延恵が休み際に放った一言が、今も王英の耳にこびりついている。
『顔も見とうないわ…』
なぜ、こうなったのか。
燕順の言葉も、王英の脳裏で幾度となく繰り返される。
『妹を放っといてまで引き受けなきゃなんねえ仕事ってなぁ何だ!?』
王英には分からない。
今、王英の手元にはそれなりの金がある。しかし、それなりだ。一生どころか、大食漢の王英ではひと月の生活費としてすら心許ないだろう。
いや、その「それなり」が、たとえ一生遊んで暮らせるほどの大金であったとしても、それをもって李柳蝉の身に代わる訳がない。
もし仮に「李柳蝉を諦めろ」と、そんな大金を目の前に積まれたとして、今の王英には迷う事なく啖呵を切って突き返す自信がある。相手の出方次第では、その場で斬り捨ててしまう気さえする。
それがなぜあの時は、たかが「それなりの金」を得るために仕事を選んだのか。
故郷を棄てた王英は、故郷を出る際に血縁の家族も棄てた。
故に、生家に残して来たのは家族ではない。この世に生を受けてから家を出るまで同居していた、単なる「男」と「女」だ。
王英にとって家族とは燕順であり、鄭天寿であり、李柳蝉の事なのだ。
その家族を金のために捨て置くような奴が目の前に現れたとすれば、王英だってこう吐き捨てるだろう。
顔も見たくねえ、と。
なぜ、こうなったのか。
王英には答えが出せそうにない。
これでもし、李柳蝉が命を落とすような事があったら──
「チッ…縁起でもねぇ」
独り言ち、王英はまた不味い酒を呷る。
邪魔する奴は一人残らずブッ殺してやる、という決意と共に。
△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼
大通りから外れた、とある民家から出てきた鄭天寿は、人目を避け、そのまま裏路地を通って瓦市を目指す。
気分が悪い。
目に映る全てが不快だ。
それを何とか胸の内に押し留め、東寨に入る手筈だけは整えた。
すんなり事が運んだから良かったものの、もし手間取るようであれば、溜まった鬱憤が暴発し、全てを台無しにするところだった、と鄭天寿は一人安堵の溜め息を零す。
こうして歩いている事自体、鄭天寿にとってはもどかしい。
可能であれば今すぐに、たとえ一人であっても東寨に乗り込んでいきたいほどだ。
それで命を落としたとしても、鄭天寿に悔いはない。しかし、李柳蝉を奪い返せなければ、鄭天寿だけが命を落とす事に意味はない。
何よりも、鄭天寿は昨日から今日に掛けての、自分の行動がどうにも理解できず、そして許す事もできない。
結局、李柳蝉が二人だけで両親の墓を参りたかった理由を、鄭天寿は聞けなかった。
だが、それがどんな理由であったとしても、いや、たとえ確たる理由などなかったとしても、そんな事はどうでもいい。鄭天寿だって、今は自信を持ってそう言える。
行ってやれば良かったのだ。
それで法要に多少の粗相があったとしても、少しばかり差配に遺漏が出たとしても、慣れぬ事とはいえ失礼しました、と鄭天寿が頭を一つ下げれば、それで済んだ話なのだ。
それが、なぜ昨日に限って李柳蝉の声に耳を貸さず、今日に限って意地を張り、法要の支度に拘ったのか。
燕順に殴られた左の頬が疼いた。
燕順の怒りも、鄭延恵の怒りも無理はない。
そして、誰よりも他ならぬ鄭天寿自身が、自らに対して怒り心頭に発している。
自らの無力を呪い、自らの愚行を呪いながら、鄭天寿はひたひたと路地を歩く。
李柳蝉を取り戻すしかない。
その後で李柳蝉から思う存分殴られようとも、気の済むまで罵詈雑言を浴びせられようとも、許しを得るまで詫びるためには、何よりもまずそれがなければ始まらない。
たとえ、どれほどの血を流す事になろうとも。
たとえ、自らの命を捨てようとも。
決意を胸に、鄭天寿は王英の待つ酒家に向かう。
△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼
鄭天寿が酒家に着くと、すでに燕順は王英と合流していた。
村に残り、襲撃の手筈を整えていた燕順によれば、東寨に乗り込む人数はこの場にいる三人を含め、総勢で30名ほどになるという。
有志を募るにあたって鄭延恵が村の住人に経緯を説明する際、王英と鄭天寿の行動については伏せられている。
二人を庇うようで納得がいかないと渋る鄭延恵を、燕順は懸命に説き伏せた。
どれほどの人数になろうと、三等分した集団を率いるのはこの三人だ。
これまでの平穏な生活を捨ててまで李柳蝉を救うために手を挙げたというのに、蓋を開けてみれば「そもそもの原因が偉そうに自分達を率いる当の本人にあった」では大いに士気に関わる。
それにそれが知られれば、王英と鄭天寿がこの作戦に加わる事自体、快く思われないだろう。
燕順からして、今はまだ蟠りが残っている。
可能であれば「お前らは指を咥えて見てろ」と、一人で乗り込んで行きたいくらいだ。
だが、やはりこの計画に二人は欠かせない。
これから李柳蝉を奪い返しに行こうというのである。よもや乗り込んだ端から、囚われた本人が出迎えてくれる訳でもあるまい。
となれば、必然的にどこかに隠されている可能性が高いのだから、一人が30人を率いるのと、三人が10人ずつを率いるのでは、捜索の効率が全然違う。
それに村人達の中には王英や鄭天寿を超える武の才能を持つ者がいない。
何も招かれて行こうというのではないのだから、必ずや東寨の兵や李柳蝉の勾引かしに関わった者達が立ち塞がる。その障害を排除する前提が「武」である以上、今回の件から二人を外せば、効率を求めて無理に人を割いたとしても、燕順のいない集団には荷が重すぎる。
燕順が好むと好まざるとに拘らず、二人は替えが利かないのだ。
結局、村人達は単に李柳蝉が清風鎮の正知寨に勾引かされたと説明を受け、鄭延恵から助力を請われて名乗りを挙げた者が参加する形となった。
村人達にとっての鄭天寿は今尚、理不尽に奪われた愛する者の奪還に闘志を燃やす公子であり、王英は正知寨の非道に憤り、鄭天寿に助力するその義兄である。
その村人達もすでに鎮に入り、ある者は宿へ、ある者は瓦市へと向かい、燕順達が全ての手筈が整えるまで、銘々で英気を養っているはずだ。
ただし、酒を飲む事を禁じはしなかったが、情報の漏洩だけはないよう、燕順は強く念を押した。
飲み過ぎて、いざ突入という時に使い物にならないのも困るが、何より酔った勢いで口を滑らせて計画が洩れ、準備万端待ち構えているところに乗り込んでいくような愚だけは、絶対に避けなければならない。
突入後の迎撃は想定の内だが、門を破って突入するまでは奇襲でなければならないのだ。
村人達の得物──といっても鍬や鋤、棒の類いだが、それらはすでに農作物の行商を装った村人達が、数台の荷車に分けて鎮に運搬し、鄭天寿の馴染みの商家に置かせてもらっている。
武装した兵達が待つ東寨に素手で乗り込む訳にもいかず、とはいえ、この短時間で人数分の真っ当な武器を揃えるというのもなかなか難しい。
だが、仮に揃えたところで、使い慣れていない得物を持たせても物の役には立たない。それよりは手に馴染んだ物を、という燕順の発案である。
「手筈は整ったのか?」
「ええ」
二人が待つ個室に通された鄭天寿に、燕順が尋ねる。
「ホントに…あ、いや、鄭郎が大丈夫ってんだから大丈夫か。哥哥、この後はどうする?」
王英の問いに少し考え、燕順は鄭天寿に問う。
「鄭郎。東寨の門を破るにあたって、俺達や村の者は側に居た方が良いか?」
「門を開けさせるだけなら側に居てもらう必要はありません。しかし──」
「ちょっと待て、鄭郎」
話を遮ったのは王英。
「『開けさせる』?お前の言うその宛てってのは、そんな権力持ってる奴なのか?」
「いえ、そういう訳じゃありませんが…ですが、一度だけなら外の衛士に掛け合って門を開けさせる事は出来ます。ただ当然、内にも衛士が居るでしょうから、異変を察知した内の衛士に門を閉じられてしまったら、再度開けさせるのはまず不可能です。それでは最初から力ずくで門を破るのと何も変わりません。ですから──」
「少なくともお前が現れるまでには、俺達も門の様子が窺える位置に伏せといた方が良いな」
言葉を継いだのは燕順。
「はい。そして、門が開いたところで一気に雪崩れ込んで下さい」
「ん。じゃあ支度を急ぐか。王弟、お前は瓦市と宿を回って皆にそう伝えてくれ」
「分かった。哥哥は?」
「俺はコレを届けに行く」
そう言って燕順が見せたのは、ある意味、今回の計画の肝となる武知寨宛ての封書。
鄭天寿が来る前に、燕順がしたためていた物だ。
「…哥哥が直接?」
「罷り間違っても事を露見させる訳にはいかねえんだ。別にお前らを信用してねえって訳じゃねえぞ?ただ、以前の騒動でお前らは顔が割れてるかもしれねえからな。西寨に向かう途中、万が一その件で詮議を受け、文を見つけられでもしてみろ、一巻の終わりだ。用心出来る事ぁ用心するに越した事ぁねえ」
「俺一人で村の連中を纏められっかな…」
王英の不安は正しい。
王英は鄭天寿の屋敷にこそ毎日入り浸り、作男らとも親しくなったが、村人との交流はほとんどない。
対して燕順は私塩の一件や、商売がてらに他の村鎮へ出向いた際、ついでに村人から頼まれた物を仕入れてきたりと、村人との交流が深く信望も篤い。その上、今回鄭家村の住人から有志を募るにあたっても、鄭延恵の傍らに在って補佐し、細々とした指示を下している。
村人達から見て、王英と燕順のどちらがより快く、進んで指示に従おうと思える存在であるかは言うまでもない。
「やっぱ哥哥にこっちの手配をしてもらった方が良いんじゃねえの?」
「お前の言いてえ事も分かるがな…だが、文も滅多な奴には任せらんねえぞ。それとも、他に誰か適任がいるか?」
「います」
今回の件を招いた罪悪感からか、燕順の考えに唯々諾々と従っていた鄭天寿が、まっすぐ燕順を見つめて断言した。
「二哥(王英)の言う通り、大哥(燕順)には村人の割り振りや寨に侵入した後の指示なんかを、今の内から出しといてもらった方が良い」
「…お前が言う、その適任者は信用出来んのか?」
「出来ます。それに…」
少し言い澱み、鄭天寿は続ける。
「もう会う機会もないでしょうから…大哥は皆の指揮をお願いします」
流血はないに越した事はない。
しかし、おそらく誰かしらの血は流れる。
その「誰かしら」が鄭天寿であればもちろんだが、無事であったとしても、それはつまり鄭天寿がお上に追われる身になるという事だ。
今後はただでさえ人目を避ける生活を強いられるが、殊にこの清風鎮へは容易に出入りできなくなる。
長年、鄭家村で暮らし、鎮に知り合いの多い鄭天寿であれば、別れを告げたいと願う相手がいても不思議はないか、と燕順が察する。
「分かった、この文は鄭郎に任せる。だが、くどいようだが言っとくぞ?小蝉(李柳蝉)を救い出せるかどうかは、この文に懸かってると言っても過言じゃねえんだ。それを忘れんなよ」
「はい」
鄭天寿は力強く頷く。
「じゃあ、俺と王弟は手分けして村の連中に指示を伝えるか」
「…あっ、哥哥ちょっと待った!」
「ん?何だ?」
王英は上衣の内から小袋を取り出し「んっ」と鄭天寿に突き付けた。
「持ってけ」
「何です、コレ?」
「朝の仕事の報酬だ。それなりに入ってる。持ってりゃ何かの役に立つだろ」
「良いんですか?」
「良いに決まってんだろ!」
王英は飲み止しの酒を、一息で飲み干す。
「俺はな、何としても小蝉を助けてえんだよ。その為には手段を選ばねえし、使えるモンは何でも使う。お前だってそのつもりだろ?どっかの馬鹿が妹を放り出してまで稼いだクソみてえな金だが、金は金だ。妹を助ける為に使わねえで何に使うんだよ。遠慮なく使え」
無論、鄭天寿もそのつもりだ。
だからこそ、手段を選ばず、人情も道義も顧みず、鎮での伝を最大限に使っている。
「分かりました。遠慮なく使わせてもらいます。これがあれば、より確実に門を開けさせる事が出来ます」
「おう。頼んだぞ」
「はい。じゃあ、俺は一足先に出ます」
鄭天寿は王英から受け取った小袋を懐にねじ込み、酒家を後にした。
「哥哥、ちょっと相談があんだけど…」
「何だ、まだ何かあんのか?そんな悠長に話してる暇ぁねえぞ」
「門を破る為の策なんだけどさ、使えるかどうか哥哥に判断して…痛っ!!」
燕順が一発、王英の頭を小突く。
無論、本気の一撃ではない。
「馬鹿野郎、何でそれを鄭郎が出てってから言うんだよ!すぐに鄭郎を呼び戻して──」
「待って、哥哥…痛ってぇー…鄭郎は知らない方が良いんだって!鄭郎にどんな策があんのか知らねえけど、俺達に合わせようとして動きが不自然になったら、向こうに気取られる可能性がある。俺達が鄭郎に合わせて動いてやりゃあいい」
「…分かった。お前の案を使うかどうかは、取りあえず聞いてからだが…てか、お前も大袈裟だな。今のはそんなに強く叩いちゃいねえだろうが」
「『強い』『弱い』の問題じゃなくってさ、まず話の途中で引っ叩く癖を直してくれよ…」
「あー、うるせえ。とっとと、その『策』ってのを話せよ」
二人は時間の許す限り策を煮詰めた後、それぞれの為すべき事を為すために酒家を出た。
李柳蝉を救い出す。
だだ、その一つの目的のために。




