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水滸前伝  作者: 橋邑 鴻
第十回  李柳蝉 金梁橋に暴虎を打ち 曹刀鬼 山東への壮途に就くこと
100/139

禁軍の師弟

 少し時を戻そう。


 フュ~♪悪くない──


 …ゲフン。


 梁門大街の人波を縫って歩く二人の武官。二人は他愛ない会話を交わしながら金梁橋を目指していた。


()てて。師匠、もうちょっと加減をしてもらってもいいんじゃないですかね?」

「加減も何も…腕も足も、まだちゃんと付いてるじゃないか」

「ええ、お陰さまでまだ身体にひっ付いてはいますけどね…ただ、手合わせの度にこうビシビシ打たれてたんじゃ、いつかズタボロになって、その内もぎ取んなきゃなんなくなっちゃうんじゃないかと思いまして」


 左の二の腕を(さす)りつつ、若い武官は冷ややかな視線を相手に送る。


 送られた相手は「在東京禁軍殿前(でんぜん)諸班直軍(しょはんちょくぐん)鎗棒(そうぼう)師範」(※1)。


 送った若い武官は「在東京…」──その「副師範」。

 身の丈は優に180cmを超え、年の頃は30歳ほど、藍の頭巾から零れる黒髪を白玉連珠の(リング)で纏め、腰には純白の扇子を手挟(たばさ)んでいる。

 姓は(りん)、名を一字名で(ちゅう)


 師範はまた「教頭」と呼ばれる事もある。

 その職責は無論、他者に武技を授ける事であるから、副師範といえど、さだめし禁軍内では高い序列を誇っているのかといえば、実は何ほどの事もない。


 例えば禁軍首脳部、俗に「三衙(さんが)」と呼ばれる殿前軍、侍衛馬軍、侍衛歩軍の統帥クラスともなれば、朝廷から叙任される歴とした朝臣だが、師範、副師範などはあくまで禁軍内部での役職であって、位階を持たない純然たる軍職、軍属である。


 しかし、教えを乞う側からしてみれば、師範の立場がどうだとか、地位が高いだ低いだなんて話は、はっきり言ってどうでもいい。


 戦そのものの勝敗を決する要因は、彼我の兵の練度や、軍勢を指揮する者の資質、采配に依るところもあって、一概にコレと言えるものはなかろうが、個人のレベルで考えれば、いざ敵と相対し、命の取捨を決めるのは、結局のところ個々の武の力量である。


 その武を引き上げ、戦場で命を拾うために教えを乞うのだから、相手に求めるものは己の武を引き上げるだけの力量と、その力量によって己の技量がどれほど底上げされるのかという、その二点以外にはあり得ない。

 そして「では、いざ何を習おうか」となれば、まず真っ先に思い浮かぶのが長尺得物と相場は決まっている。


 己が(かち)であれ騎上であれ、敵の間合いへ入らずに倒す事ができるのなら、もちろんそれに越した事はない。

 相手の間合いの外から一方的に攻撃できれば、それだけ攻撃を受ける可能性は減り、つまりは命を落とす可能性も下がる。


 飛び道具を相手となると、ちょっと話の毛色が変わってしまうのだが、少なくとも直接、相手と斬り結ぶ得物の中では、林冲の伝える「鎗棒」を長尺得物の代表としていい。

 故に、未だ副師範の身でありながら、林冲の声望は(すこぶ)る高い。それは周囲が彼を評した綽名(あだな)を見ても分かる。


 その姓名(なまえ)と共に語られる彼の綽名(あだな)は「豹子頭ひょうしとう」。


「豹子」とは「豹の子」ではなく、ズバリ「豹」の事であるから、そのまま読めば「豹のような頭を持つ男」となるのだが、別に普段から豹の覆面を被っている訳でもなし、どこからどう見たって林冲の頭が豹に見えるなどという事はない。


 では、なぜ林冲が「豹の頭」なのかというと、その理由は実に明快だ。


 丈八(じょうはち)蛇矛(だぼう)(※2)を得物とし、他を寄せ付けぬ圧倒的な武を誇る林冲の姿に、誰しもがまず重ね見るとすれば、それは『三國』の張益徳(張飛)を置いて他にない。

 その張益徳の容姿をして『豹頭(・・)環眼』と伝わっているのだから、あとは言わずもがなである。


 つまり「豹子頭」とは、林冲の武勇を知る者達をして「さながら張飛のようだ」と、彼を賞賛せしめている証に他ならない。


「何だ?それは私を『打ち込みの加減も見極められん、素人同然の腕前だ』と、暗に貶してるのか?」

「いーえ。寧ろ出来ると思ってるからお願いしてるんじゃありませんか」

「私を追い落として後釜に座ろうかという男が、何をまた情けない事を…」

「止めて下さいよ、人聞きの悪い。『いつかは俺も』と、師範を目指してはいますけどね。別に師匠を追い落とそうなんて思っちゃいませんよ」

「まあ、どちらでも構わんがな。いずれにしろ、私の棒くらい余裕で躱せるようにならなければ、師範など夢のまた夢だ」


 はぁ、と林冲は一つ溜め息を零し、


「師匠の棒を躱せるようになるのが先か、俺の手足がもげるのが先か…あ、いっその事、鎗棒以外の師範に異動していただく、ってのは如何です?」

「何?」

「満足に人様を指導出来るのが鎗棒と矛くらいしかない俺と違って、師匠なら鎗棒じゃなくたって、剣でも斧でも、師範の座は引く手数多(あまた)でしょう?お譲りいただければ、立派に後釜を務めさせていただきますよ?」


 したり顔で減らず口を叩く林冲に対し、中年の武官は呆れたように冷ややかな視線を返す。

 年の頃は40歳ほど。姓は(おう)、名を一字名で(しん)


 林冲を副師範、或いは副教頭たらしめているのは、何はなくとも王進の異常とも言える武の力量に尽きる。


 何しろ林冲は王進との手合わせで勝ちを得た試しが、ただの一度もない。それどころか、棒先が王進の身体にかすった事さえない。


「張益徳も斯くや」と称えられる林冲ですらそんな按排であるから、他の者では何をか言わんや、といったところだが、王進の武を「異常」たらしめているのは、抜きん出た鎗棒の技量によるものだけではない。


 鎗棒のみならず、武芸十八般(※3)の全てを修め、かつ、その全ての力量が、その道だけを究めた達人と比べても、全く遜色がないときている。

 林冲の言う通り、たとえ鎗棒師範を譲ったとしても、あらゆる武芸の師範を務めるに十分すぎる技量を誇るのだから、大抵の者がただ一つの道を究めるために、生涯の大半を費やしてしまう事を思えば、王進の武はもはや常軌を逸していると表現しても過言ではない。


 ところが──


 それほどまでの力量を誇っていながら、なぜか王進は京師に留められ、師範という一軍属に留められている。

 泰平の世が長らく続いているとはいえ、辺境でも賊の出没する府州でも、武官が腕を揮う場はいくらでもあり、王進が──無論、林冲もだが──前線に立ちさえすれば、華々しい活躍を遂げるのは分かり切っているにも拘らず、だ。


 いや、なぜも何もない。こちらも理由は単純明快である。


 戦場において華々しい活躍をすると分かり切っているからだ。


 今上・徽宗陛下が(まつりごと)への興味を失って、かれこれ久しい。


 国権の最高権力者が(まつりごと)への興味を失えば、当然、共にそれを為す者──つまり、人事への興味も失せる。それは徽宗陛下も何ら変わりはない。


 上に立つ者が道を(あやま)てば、下に仕える者がそれを諌め、正し、扶ける。

 陛下が(まつりごと)にも、そして人にも興味をなくされた今、この国の朝廷に、その当たり前を為す者は稀となってしまった。


 元来、官僚とは己と己に近しい者の利益だけに生きる人種だ。そのためであれば、いくらでも強者に媚び、容赦なく弱者を貶め、溜め込むだけ財を蓄え、惜しげもなく(まいない)をバラ撒く。


 どれだけ民を顧みず、どれほど蓄財に走り、どれほど権力闘争に明け暮れようと、陛下の目が(まつりごと)に向いていなければ、それを咎められる心配がないのだから、これほど都合のいい話はない。むしろ、そうして私利私欲に走る者ほど、忠義ごかした面で屁理屈を並べては、陛下を趣味、嗜好の道に進ませようとする。


 というか、そもそも陛下御自身が、諌言を奏ずる者を「心中を解さぬ者」として好まれず、甘言を()る者ばかりを信用されているのだからお手上げだ。


 本来、陛下が人体(にんてい)を見極められた上で差配されるべき朝臣の人事も、今では信頼する者に任せ切りになってしまわれ、ただ上奏される案をそのまま承認されるだけになってしまわれた。

 結果、陛下の信を得ている者は益々権勢を誇り、数少ない清廉潔白、直言の士は陛下から遠ざけられ、いつしか朝廷は保身と蓄財しか能がない、出世原理主義者の巣窟と成り果てた、という訳である。


 王進や林冲から見て直接の上官にあたる三衙の面々も、そして三衙と軍権を二分する枢密院(すうみついん)(※4)の首脳も皆、隠れもない武官であるが、同時に位階を持った朝臣としての身分も併せ持つ。


『一将功成りて万骨枯る』(※5)とは古人の言葉だが、古来より武人とはひたすら戦場に居場所を求め、多大な犠牲の上に武功を重ねる事で、初めてその身を立てるものだ。が、幸か不幸か、泰平の世が長く続くと、武官の中にも出世原理主義者のような輩が現れる。あとは皆まで言うまい。


 無論、王進がそうだと言うのではない。むしろ王進は出世や栄達など歯牙にも掛けぬ生粋の武人だ。

 しかし、保身と栄達だけを生き甲斐とする無能な上司からすれば、そんな事には塵芥ほどの価値もない。

 そして、そんな出世原理主義者達は、せっかく逸れている陛下の興味が、再び(まつりごと)に向いてしまう事を何よりも恐れる。


 確かに今、陛下は人事のほとんどを宰執に任せてしまわれているが、文字通りそれは「任せている」のであって、朝臣の任命権を「失った」訳ではない。

 その陛下に、卓越した人望と唯一無二の実力を誇る王進の噂など、届いてしまっては困るのだ。


 万が一にもその噂が陛下の興味を惹いてしまったら、苦労と散財の上に掴んだ高官としての地位も栄華も、一瞬で瓦解し兼ねない。

 王進が出世に固執していようが、全く興味がなかろうが、陛下が「取り立てる」とお決めになられれば、それを覆せる者はこの国に存在しないのだから。


 かくも目障り極まりない王進を、この上に尚、赫々たる戦果を上げると分かり切っている戦場へ、わざわざ送り込んでやる必要など、ある訳がない。


 後進の育成は組織にとって必須であるし、何より一朝一夕に為し得るものではないから、師範という職は大変な重責を負っている。それは間違いない。

 そして、それを任されるという事は、他者を指導するに足る力量を持つと認められた証でもある。それも間違いはない。


 しかし、どれほど聞こえのいい言葉で飾り立て、誰がどこからどう見たとしても、王進の比類なき技量と師範の職を秤に掛ければ、所詮、役不足以外の何物でもない。


 早い話が体のいい飼い殺しである。


「人から譲られた師範の座に、どれほどの価値があると言うんだ?それを有り難がってるようじゃ、尚の事、手を抜く訳にはいかんな」

「冗談ですよ。譲ってもらおうなんて思っちゃいません。それに、師匠がそんなお優しい(・・・・)性格じゃない事も、重々承知してますから」

「何を言うか。将士(しょうし)(※6)の店にも毎回こうして付き添い、薬代まで私が持ってやってるじゃないか」

「そう仰るなら、棒の打ち込みをキッチリ寸止めにしていただければ、薬代も掛からず、両得だと思うんですけどねぇ…おっ、小二!」

「?…あ!これは林副師範、と、王師範も」


 すれ違う人波に見知った顔を見掛けた林冲が声を掛けると、その人波を分けて作男風情の男が寄ってきた。


「小二」と呼ばれた年若い男は姓を李といい、二人が目指す薬屋で下働きをしている。

 二人が李小二と互いに礼を交わすと、


「お二方がお揃いでという事は、今日も弊店を御利用ですか?」

「ああ。師匠のお陰で将士は笑いが止まらんだろう。今日はおいでか?」

「あはは」

「何だ、何がおかしい?」

「いえいえ、手前も旦那様から給金を頂いてる身ですからね。旦那様の笑いが止まらないとなれば、それはつまり手前の笑いも…ゴニョゴニョ」

「コイツ、他人事(ひとごと)だと思って…で?将士はおいでなのか?」

「ええ、手前が店を出る時まではいらっしゃいましたよ。では、手前はまだ使いがありますので…」


 そう言い残し、拝礼した李小二は再び人波に飲み込まれていった。


 二人が大通りから金梁橋へと続く角を曲がってしばらく進むと、丁度、金梁橋の袂辺りに黒山の人だかりが見えてくる。


 一度、顔を見合せた二人は、群衆の外縁まで歩み寄ると、


「何の騒ぎだ?」

「え?ああ、禁兵さんかい?ここからじゃよく見えないんだけどさ、何でもまた『虎』が一悶着起こしてるらしいわよ?いい加減、どうにかしておくれよ」

「『虎』?あぁ…」


 声を掛けた中年女性の言葉にピンときた林冲は、黒山を掻き分けて王進と共に群衆の最前列まで進み出た。

 人だかりの中心では、林冲達に背を向けた破落戸(ごろつき)風情の男が、髪を後ろで一つに束ねた、若い女性と睨み合って口論している。


「やっぱりか。(ぎゅう)()の奴、まぁた性懲りもなく。てか、あのお嬢ちゃんは牛二相手に何やってんだ!?…ま、いっか、それは後で。とにかくあのお嬢ちゃんを助けてやらねえと」

「まあ、待て」


 輪の中心に向かおうとする林冲を、王進は引き止めた。


「…師匠?」

「あの娘、なかなかの使い手のようだな。構えにも澱みがない」

「はあ、まあ見た感じはそうですけど…いや、でも相手は牛二ですよ?体格差があり過ぎ──」

「心配要るまい。あの娘も落ち着いたものだ。それなりに場数は踏んでるんだろう。それが実戦で得た経験か、ただ鍛練を(こな)しただけの事かまでは分からんがな」


 王進の言葉が終わると同時に、牛二は一声吠えて女性に向かっていく。が、一発胸を突かれ、その後も上手く距離を取りつつ攻撃を加える女性の棒捌きに、ただただ翻弄されるばかり。


「お、おぉ、こりゃまた…確かに俺らが手出しするまでもないっぽいですね」

「いや、そうでもないかもしれん」

「…?」


 林冲が王進を見れば、王進は僅かに顔を動かして視線を促す。

 その視線の先には、手を胸の前で組み、道端から不安気に戦闘の場を眺める老齢の女性がいた。


「んー…あのお嬢ちゃんの身内ですかね?」

「足を痛めてるようだな」

「えっ!?そうですか?」


 林冲が改めて視線を送っても、まっすぐに立つその姿からは、そんな様子が窺えない。と、体勢を直したところで、僅かに足を庇う素振りが見て取れた。


「よく一目で分かりましたね…?」

「『よく』?人並みの観察眼があれば、それくらいはすぐに気付けると思うがな」

「あー、はい、ですよねー。どーせ俺の観察眼なんて、ゴミっカス以下ですもんねー」

「何を拗ねてるんだ…」


 口を尖らせる林冲に、王進が再び冷ややかな視線を投げ掛けると、


「師匠を基準にされたら、大抵の人間はゴミっカス以下になっちゃいますよ、って自覚を持っていただきたかったもんですから。ま、それはともかく…発端はあのお袋さんなりお婆さんなりが牛二に怪我をさせられて、お嬢ちゃんがブチ切れちゃった、ってトコですかね?」

「かもしれんな。まあ、それは今よかろう。問題はあの御夫人が牛二の目と鼻の先に居るという事だ。牛二も今は娘にばかり気を取られてるようだが…」

「あー、マズいですね。おまけに足も怪我しちゃってるし」

「賢弟(※7)、今の形勢が続くようなら、敢えて手を貸す必要も無かろうが、もし牛二があの御夫人に手を掛けようとしたら加勢してやれ」

「はい。師匠は?」

「私はあの御夫人の側に控え、不測の事態に備えておく」

「了解です」


 十重二十重の群衆を苦にするでもなく、王進はスルスルと人垣を縫っていく。それを呆れるやら見惚れるやらといった様子で眺めていた林冲も、我に返って辺りを見回せば、丁度いい具合に、少し離れた位置で行商の男が見物していた。


「すまんが、その天秤棒を貸してくれ」

「は?…あ、これは林副師範」

「ん?どっかで会った事あったか?」

「はは、何を仰いますか。王師範と双璧を成す、禁軍の有名人ではありませんか。あ!あのお嬢ちゃんに御加勢なされるんで?」

「んん。もしもの時は、な」

「それはそれは、どうぞお使い下さい。林副師範に使っていただいたとなれば、その棒は明日から我が家の家宝にしなきゃなりませんね」

「止せよ、大袈裟な」


 苦笑と共に林冲が棒を受け取ると同時に、群衆から大きな歓声が上がる。

 見れば、金梁橋の袂の辺りで牛二が大の字になっていた。


「はは、こりゃあいい!残念ながら家宝はお預けですかね。あれだけボロクソにやられれば、あの『虎』ももう懲りたでしょう。これで少しは大人しくなってくれればいいが」

「…いや、逆だろう」

「え?」


 ノロノロと起き上がった牛二は、チラと道端を見遣(みや)る。

「やはりか…」と顔を険しくし、林冲は辺りを気にして一歩、二歩と前に進んだ。


 と、牛二が走り出すと同時に、振りかぶった林冲が天秤棒を投げつけるや、一直線に飛んだ天秤棒が見事に牛二の脚を(すく)った。

 再びゴロゴロと地を転がる牛二の姿に、群衆の歓声は正に最高潮といったところ。


 ふぅ、と林冲は一息つくが、当の牛二は悪態の途中で鼻先に棒を突き付けられ、ぐうの音も出ないまま顔を真っ赤にしている。


「おいおい…」


 さすがにこれ以上はやり過ぎだろう、と思った矢先、林冲はふと(・・)王進と目が合った。


『何をしてる。さっさと止めてやらんか』


「えぇ~…」


 目は口ほどにものを言う、とはよく言ったものだ。

 王進に丸投げされた林冲は「自分の方が目と鼻の先にいるクセに…」と言ってやりたいところを、ぐっと堪えて駆け出した。


 今、将に牛二の額目掛けて棒が突き出されようかというところで、ギリギリ林冲の左手が棒の尻手(しって)(※8)を掴んで引き止める。


「ちょっ…」

「もう十分だろ。あとは俺に任せな」

「…はい?」


 多少「ええカッコしい」な物言いになってしまった自覚は林冲にもあった。

 しかし、それを差し引いても、手を貸してやった明らかに年下の女の子から「…いや、まずアンタ誰よ!?」みたいなキッツいガンを飛ばされて、ちょっとヘコんでしまったのは内緒の話である。

※1「在東京禁軍殿前諸班直軍鎗棒師範」

花毅や花栄の職名同様、全体的には架空の職名です。宋(北宋)の殿前軍では、構成する小隊が「◯◯班」「◯◯直」「◯◯軍」と称されていました。「殿前諸班直軍」は「殿前軍の全隊(諸班、諸直、諸軍)」という意味の造語です。

※2「丈八の蛇矛」

「蛇矛」は刃の部分が蛇のように波打っている矛。『三國』の張益徳(張飛)が得物としている。「丈八」は「一丈八尺」の略。一丈=十尺、宋代の一尺は30cmなので約5.4m。ただし、三国時代の一尺は23~24cmとされているので、そちらで計算すると約4.1~4.3m。

※3「武芸十八般」

18種類の武芸。中国と日本では構成が違う。また中国においても時代によって構成は様々。『水滸伝』の第2回では武芸十八般について『矛錘(鎚)弓弩銃、鞭簡劍(剣)鏈撾、斧鉞並戈戟、牌棒與槍杈(「並」と「與」は、左のように日本語で項目を併記する際の「と」にあたる)』の18種類を挙げている。

※4「枢密院」

禁軍の直接的な指揮、統率や、将兵の訓練などを司る三衙に対し、枢密院は将兵の配置や異動、賞罰などを司っている。

※5「一将功成りて万骨枯る」

『三体詩(七言絶句 曹松「己亥歳」)』。原文は『一將功成萬骨枯』。訓読は本文の通り。「一人の将軍が功名を成せば、その陰には万人の犠牲がある」の意。『水滸伝』の第55回でも引用されている。

※6「将士」

資産家に対する敬称。「員外」とほぼ同義。

※7「賢弟」

(血縁、義兄弟問わず)弟への呼び掛けに用いられるのはもちろんですが、「弟」は一字だけで「弟子」の意味も持っていて、つまり林冲に対する呼び掛けです。『水滸伝』では王進が弟子にあたる人物を「賢弟」と呼ぶ場面があり、それに倣ってこちらでも使用しました。「水滸前伝」での設定上、王進と林冲は義兄弟の契りを結んでいません。

※8「尻手」

物の端。特に後方端を指す。

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