虎の尾を踏んだ虎
開封城を西から東へと貫く汴河には、多くの橋が架けられている。
何しろ漕運用に整備された運河であるから、河床は船が行き交うために地表から10m以上も下げられているし、川幅もたっぷり20m以上はあって、気軽に「ちょっと向こう岸まで」と行き来できるような代物ではない。
李柳蝉と郭静の二人が一息ついていたのも、そうして架けられた橋の袂だ。
名を「金梁橋」。
「異変を察知していたのなら、もっと注意を払えば良かったものを」と言ってしまえばそれまでだが、長旅の肉体的な疲労に加え、先の見えない精神的な不安も抱えていた李柳蝉の不注意は誰も責められまい。
「よいしょ」と腰を上げる郭静に貸した手を、立ち上がったところですぐに放してしまった。
「…あ」
片や李柳蝉以上に疲労困憊だった郭静。一旦、腰を下ろし、張り詰めていたものが僅かに緩んでしまった事もあってか、歩き出そうと踏み出した足がもつれ、よろよろと通りに飛び出してしまった。
そこへ──
「…あぁ!?」
ツイていない時というのは、得てして間の悪い偶然が重なるものだ。
郭静が足を止めたところで金梁橋を渡ってきた男と鉢合わせ、丁度その行く手を塞ぐような形となってしまった。
「何だ、婆ぁ!俺の前に立ち塞がるたぁ、いい度胸してんじゃねぇか。あぁ!?」
「あ…ご、ごめんなさいね、旦那さん。少しよろけてしまっ──きゃっ!!」
「お祖母ちゃん!」
郭静が道を譲る間もあればこそ、男は有無を言わさず郭静の身体を右手で押し除けた。
慌てて李柳蝉がその身体を受け止め、どうにか地面に倒れるまでには至らずに済んだのだが、
「お祖母ちゃん、大丈夫!?」
「え、ええ、大丈…い、痛っ」
遠慮も何もなく押し除けられたため、その拍子に郭静は足を強く捻ってしまっていた。李柳蝉がキッと睨み付ければ、男は二人に目もくれず、ただ舌を一つ鳴らして、何事もなかったかのように立ち去ろうというところ。
疲労と不安が募り、ただでさえ精神的に不安定だったところへ、あまりに横暴、横柄な男の仕打ちと態度が加わり──
李柳蝉はキレた。
「ちょっと!待ちなさいよっ!!」
「…あぁ?」
李柳蝉の怒声に一瞬立ち止まり、振り返った男の顔は、正に不機嫌そのものである。が、李柳蝉にも臆する様子は更々なく、支えていた郭静の身体を放すと、通りに進み出て真っ向から男を睨み付けた。
「ぁんだ、おい。小娘の分際で俺に喧嘩売ろうってのか?あぁ!?」
すでに売られた喧嘩を買う気マンマンの男は、低いと言えば、怒りの沸点が随分と低い。
見れば髪はボサボサ、頬は無精髭に塗れ、日に焼けた真っ黒な肌に、袖も裾もボロボロの上衣と膝丈の下衣を纏い、晒した四肢は見るからに無骨、はだけた胸には一面の刺青が覗き、足には今にもすり切れそうな草履──と、外見だけで人を判断するのは厳に慎むべきではあるのだろうが、それを踏まえた上でも尚、一見してタチが悪いと言おうか、ガラが悪いと言おうか、とにもかくにも絵に描いたような破落戸風情である。
見た目がそんな按排な上に、誰がどう見たって紳士的やら我慢強いやらとは言い表せないような性格であるから、街の人々も関わり合いを恐れたものか、二人の周囲には早、人影もない。ただ遠巻きに眺めては「あの『虎』に喧嘩を売るなんて…」だの「あの娘、ただじゃ済まないぞ」だの、声を潜めて放言している。
李柳蝉が思い返してみれば、瓦市から外れ、人混みと呼べるほどの混雑ではなかったにせよ、歩く男の周囲にはやけに人が少なく、ほとんど我が物顔で通りを練り歩いていた。
どうやら男はこの辺りで有名な札付きなのだろう。そんな男の前に、運悪く郭静が立ち塞がってしまった、という訳だ。
「突然、道を塞いじゃったお祖母ちゃんにも非はあったんでしょうけど、すぐに謝ったじゃない!」
「ちょっと柳蝉、止しなさい!」
「何を下らねえ事、吐かしてやがる!その婆ぁがバカみてえにいつまでもチンタラしてっから悪ぃんだろうが!」
「だからって何も突き飛ばす事ないでしょ!?アンタこそ、ふざけた事言ってんじゃないわよ!」
「テメエ…誰に向かって減らず口叩いてんだ、このクソ女がっ!!」
「アンタ以外に誰がいんのよ!」
「柳蝉っ!!」
ひょこひょこと足を引きずって、郭静は二人の間に割って入る。
「旦那さん、申し訳ありません!この通り、まだ分別のつかない子供なので…後でキツく叱っておきますから、どうか今日のところはお許し下さい」
「ざけんな、クソ婆ぁ!今更クソみてえな事言ってんじゃねえっ!!」
「止めて、お祖母ちゃん。私達が謝る筋合いなんて無い」
「柳蝉、いい加減になさい!」
李柳蝉も郭静も、想いは何も変わらない。
降って湧いたような理不尽から、いかに祖母なり孫娘なりを守り、自分の身も守るか。
違うのは「それをどう為すか」という部分だ。二人はその手段が全く違う。
郭静はひたすら下手に出る事を選んだ。
傍から見れば、それは最善手のように見える。いや、最善手も何も、それしか手がないように見える。
しかし、李柳蝉は知っている。
時にこちらの意思や理屈など、その理不尽の前には全く意味を成さない事を。
その理不尽を前に手をこまねいていれば、こちらの意思や理屈など苦もなく足蹴にされ、為す術もなく蹂躙されてしまう事を。
現に──
李柳蝉の全身に怖気が走る。
男の目付きが明らかに変わったのだ。
李柳蝉はその目を見た事がある。
忘れようにも忘れられない、忌まわしい記憶。恐怖に震え、涙で滲んだ視界の中で、李柳蝉は確かに、そして幾度となくその目を見た。
次に男の口から放たれるであろう言葉を思い、全ての臓器が絞り出されるような、堪え難い不快が李柳蝉の胸に押し寄せる。それでもどうにかその不快を堪えつつ、自分を庇うように立った郭静に離れるよう、李柳蝉は優しく腕で促した。
「おい、婆ぁ!どうでもこの場は見逃せってんだな?」
「は、はい」
「そこまで言うならテメエだけは見逃してやらぁ。その小娘を置いて、テメエはとっとと失せろ!」
「そ、んな!?旦那さん、どうかこの通りですから──」
「お祖母ちゃん、止めて!」
地に頭をつけようと膝を折る郭静を李柳蝉は慌てて制し、その身体を支え起こした。
「そんな事したってコイツは何も感じたりしないわ」
「でも──」
「無駄だってば」
「何をゴチャゴチャやってやがる!とっとと娘を置いて失せろ、婆ぁ!」
言葉も終えぬ内から男は李柳蝉へ歩み寄る。見るからに苛立ち、猛り立っているような表情を露にしつつ、口元だけは微かに洩れ出た情欲で醜く歪めながら。
二人が指呼の距離となり、男が伸ばした右腕を、
「痛だっ…!!!?」
李柳蝉は手にした哨棒をくるりと回し、物の見事に跳ね飛ばした。それに怯んだ男は僅かに距離を取る。
「こ、の…クソ女がぁっ!!」
「柳蝉っ!?何て事を…!」
「大丈夫」
野次馬達に広がるざわめきの中、李柳蝉は微かな笑みを湛えて郭静を見遣る。
それは正に元宵節の夜、不安と恐怖に震えていた李柳蝉の心に、安らぎを齎してくれた言葉だ。
李柳蝉にだって恐怖の無い訳ではない。しかし突然、謂れなくこの事態を招いた責任を押し付けられ、孫娘の身だけは守らねばと、背負う必要のない責任を背負い込んでしまった郭静の激しい動揺と恐怖は、あえて心中を推し量るまでもなく、李柳蝉の比ではない。
その言葉を発してくれた相手はもういない。だから、
「大丈夫。お祖母ちゃんは私が守るから」
「…いや、ヤバいのはお嬢ちゃんの方なのでは??」という、周囲の気遣いみに溢れた心のツッコミはさておきとして、再び険しい表情に戻った李柳蝉は、男に向けて構えを取る。
摩った右手を、ぶるんと一つ振った男の顔に、もはや先ほどまでの嘲りや蔑みは欠片もない。
「おい、クソ女。ここまでしてくれたからにゃあ、覚悟は出来てんだろうなぁ!?」
「ええ。衙門でも何処でも、アンタをブッ倒した後に出るトコ出て、正々堂々『私達に非は無い』って主張する覚悟は出来てるわよ?証人だって、これだけ周りに居るんだし」
「『ブッ倒す』だぁ!?上等だ、たかが棒切れ一本持ったくれえでイキってんじゃねえぞ、このクソ女が!やれるもんならやってみやがれっ!!」
そう一声吠えた男は、両の拳を顔近くまで上げて防御の構えは取りつつも、無遠慮に李柳蝉との間合いを詰めていく。
顔を目掛けて放たれた牽制の突きを、男は危うく躱したものの、その棒を掴みにいった左手は空を切った。目にも留まらぬ速さで棒を手元に引き寄せた李柳蝉が、男に再び構える間を与えず、素早くその正中線に向けて二撃目を放てば、
「…ぅがっ!!」
見事、男の胸元にヒットした。
男は一瞬怯んだものの、痛みを堪えて尚も間合いを詰めようと足を進めるが、まるで突進する牛や猪でも遇うかのように、時に離れ、時に打ち込み、李柳蝉は自在に棒を突き入れていく。それも致命傷を与えぬよう、かなりの加減をしての事だ。
今は何も互いの武を競って勝負をしている訳ではない。男の心をへし折り、その上で謝罪の一つも引き出せれば尚、気分はいいに決まっているが、李柳蝉にとってそんな事は二の次で、とにかくこの場から男を追い払えさえすれば、それで成果は十分である。
郭静に怪我を負わせた男が憎くないかと問われれば、そんなものは当然、憎いに決まっている。可能であれば、李柳蝉だって存分に男を甚振ってやりたいくらいではあるのだが、その結果こちらが罪を得てしまっては本末転倒だ。
大怪我を負わせたり、まかり間違って殺してしまったなどとなっては、たとえ切っ掛けは男に非があろうとも、無罪放免とはなり得ない。
男の圧力を受けつつも、見事にそれを体現しているのだから、さすがはドスケベでドチビな師匠から「攻撃の基礎は十分」と太鼓判を押されるだけの事はある。
李柳蝉の動きに全くついていけず、面白いように打たれまくっていた男が、痛みに耐え兼ねて距離を取れば、見守る野次馬達のあちこちから、どよめきと感嘆の溜め息が洩れた。
「チッ!この程度の事でバカみてえに騒いでんじゃねえ、クソどもが!」
男の一喝に、周囲はまた水を打ったように静まり返る。すでに男は顔といいと身体といい、あちこちを打たれ、上衣も下衣も所々にうっすらと血が滲んでいた。
「クソ女が…ボロ雑巾みてえになるまで、散々に甚振り尽くしてからブッ殺してやる」
ふっ、と一つ息を吐き、右手で左の頬に滲む血を拭った男は、再び両腕を顔の側近くに構えた。
そして、じりじりと前に進むや、突如、猛然と李柳蝉の身体を目掛けて飛び掛かる。
が、男の仕草からそれを察していた李柳蝉は素早く体を捌き、広げられた腕を掻い潜るように膝を折って身を屈めると、そのままくるりと回って男の足を思い切り棒で払った。
その動きが全くの予想外だったのか、男は躱す素振りすら見せないまま、まともに足を払われてしまったから堪らない。
後先考えず突進していた勢いもあり、もんどり打って二度、三度と前にゴロゴロ転がされ、大の字になって天を仰ぐという、何とも情けない姿を衆目の前に晒す事となった。
あまりに気持ち良すぎるほど気持ち良く李柳蝉の足払いが決まっちゃったもんだから、もはや野次馬達には遠慮も何もあったもんじゃない。
まるで野次馬全員が、全財産を李柳蝉の勝利に賭けていたとでもと言わんばかりに、満場からは割れるような拍手と喝采が沸き上がり、或いは男に対する嘲笑が投げ掛けられた。
騒然とした雰囲気の中、立ち上がった李柳蝉は軽く一つ息を吐く。
「これで逃げ出してくれればいいんだけど…」と淡い期待を抱きながら、しかし、油断なく男に向けて棒を構えれば、男はのそのそと起き上がった。
李柳蝉を見遣るその目は赤々と充血し、全身をワナワナと震わせた男の顔は、日に焼けてさえいなければ、今頃は双眸に劣らぬほどの色合いを晒していたはずだ。何より、全ての歯を砕かんばかりにバリバリと歯噛みするその様は、屈辱と羞恥に塗れた男の心中を如実に表していた。
どこからどう見ても李柳蝉の期待に応えてもらえるような状態ではない。
【なら、これまでと同じ事を続けてくしかないわね。
とにかく捕まらないよう距離を取って、致命傷にならないような攻撃で、アイツの心をチマチマ削ってくしかないか…】
相手の挙動に合わせ、どの方向へも動けるよう、男の動きを注視していた李柳蝉であったが、悲しいかな経験不足と言うべきか、男の思惑を完全に見誤っていた。
正面からぶつからず、男の動きを躱すように動いていたため、二人は今、通りの中央付近で李柳蝉が橋を向き、男が橋を背にして対峙している。
その男は視線を李柳蝉から道端へ移すと、口元を醜く歪ませた。
その視線の先には──
男が走り出し、そこで男の意図に気付いた李柳蝉が僅かに遅れて走り出す。
「お祖母ちゃん、逃げてっ!!」
そう叫んで、李柳蝉はすぐに思い至った。
郭静は足を痛めてしまっている。
突然の展開もあって郭静は身動ぎ一つできず、ただ呆然とその場に立ち竦むのみ。慌てて李柳蝉が手の哨棒を投げつけようと振りかぶった瞬間、一つの影が郭静の元へ駆け付けた。と、同時に──
「…うぉっ!?!?」
男が何かに足を取られ、再びもんどり打って前に倒れ込む。
「!?!?」
咄嗟の事に啞然とその場に立ち止まった李柳蝉は、すぐにその理由に気付いた。
男が躓いた辺りで、どこから現れたものか、天秤棒がカラカラと踊っている。
「…あ!お祖母ちゃん、大丈夫!?」
「え、ええ…」
ホッと胸を撫で下ろした李柳蝉が見遣れば、男がスッ転んだ場所に立っていたはずの郭静は、側へ駆け付けた男に引き寄せられ、優しく身体を支えられている。
「クソっ!!誰だ、ふざけた真似しやがっ──!」
男が起き上がるよりも早くその足元に立った李柳蝉は、男の鼻先に哨棒を突き付けて見下ろした。
つい、ひと月ほど前、かけがえのない「家族」との別れを経たばかりだ。その上で尚、郭静を傷つけ、あまつさえ質に取ろうとした男を、どうして李柳蝉に許す事ができようか。
「アンタ、どんだけ性根が腐ってんのよ。私に『覚悟』を聞いてきた以上、当然アンタも『覚悟』は出来てんでしょうね!?」
「柳蝉、もう止めなさい!」
「御心配無く」
郭静の横合いから発せられた声は気にも留めず、李柳蝉は哨棒を引く。
そして、そのまま歯噛みする男の額を目掛けて突き出そうと力を込めるも──
ビクとも動かない。
驚いた李柳蝉が慌てて振り返ると、そこにはいつの間にか武官の装いをした男が屹立し、その左手で哨棒の端を握りしめていた。
「ちょっ…」
「もう十分だろ。あとは俺に任せな」
「…はい?」
おそらくは突如として現れたこの武官が天秤棒を投げつけ、手を貸してくれたであろう事は李柳蝉にも理解できる。
できたのだが、何と言うか、俗に言う「ええカッコしい」な物言いがちょっと鼻に付いた李柳蝉は、怪訝な顔でその武官を見つめ返した。
【…いや、まずアンタ誰よ!?】
頭に血が上っていた事もあるにはあるのだが、あまりにもあんまりなそのツッコミを、せめて心の内に留めただけでも「成長したんだね、柳蝉ちゃん」と、褒めてあげるべきか否かは定かではない。




