202号室
階段を駆け上り、203号室の鍵を開けて部屋の中に入る。
「真結!!」
玄関から名前を呼んでも返事は帰ってこない。
急いで部屋の中に上がり、空のリビングを見て、しばし呆然とした。
今まで、このハイツで起きた事は、何かに対しての反応だった。
こちらが動かない限りは、何も起こらなかった。
暇を持てあますぐらいだった。
或いは、相手は隙をうかがっていたのだろうか。
リザリィが一人になる時はあったが、相手は何もしなかった。
俺か真結が孤立する時を狙っていたのかもしれない。
「絵が……」
壁に置かれた額の大きさが変わっていた。
額の中には等身大の扉の絵が描かれていて、額の大きさは扉の大きさに合っていた。
「っ!?」
扉の絵は少しだけ開き、隙間には漆黒の闇が澱んでいた。
その闇の中に、薄ぼんやりとこちらを見る目が現れた。
人の頭部ほどもある大きな目で、瞼とまつげもついているが、顔は無い。
「真結ちゃんは?」
リザリィが部屋に入ってくると、その目はさっと扉の向こうに隠れてしまった。
「ああ……絵が現れたのね……」
リザリィが厳しい表情で、扉の絵を見ていた。
「ダーリン、絵を見ないで。吸い込まれるわよ」
この絵もやはり、そういう力があるのだろうか。
言われてみれば、俺はその絵を見た時に扉の隙間に大きな目を見つけ、そのまま絵を見続けていた。
それに、絵から視線を反らすのに、かなりの精神力が必要だった。
目を閉じつつ、首を横に曲げて、頭ごと視線を反らしてなんとか、自分の視線を扉の絵から引き剥がす事が出来た。
Brrrr……。
同時に、深谷さんの奥さんの端末がポケットの中で振動を始めた。
端末はバッテリー切れになった筈だった。
震える端末を取り出してみると、メッセージが届いていた。
画面をタッチしてメッセージを見ると、頬白真結:助けて。と書かれていた。
「……真結ちゃんが『助けて』なんて、言わないわよね」
「うん……罠だと思うけど……でも、それでも助けに行かないと」
リザリィは再び扉の絵を見た俺の顔に、両手を伸ばすと、優しく視線を遮った。
「罠はそこから始まってるのよ。向こうは絵を見せないと、どうにもできないのよ。きっと真結ちゃんも絵を見せられて、あの扉の中に吸い込まれたんだと思う」
「助けに……行かなくちゃ」
「罠ならすぐに行かなくても大丈夫よ。だって向こうは私達に来て欲しいんだから、真結ちゃんをすぐに傷つけたりしないわ」
「ちょっとだけ待って。五分だけ」
リザリィが俺に物を頼むなんて、珍しい事だった。
視線を優しく遮っていた手がのけられると、俺は絵から視線を反らして、リザリィがいいと言うまで待つ。
「もしもし、硯ちゃん? あのね、硯ちゃんがかけてる真見の眼鏡を貸して欲しいの。うん、今すぐ」
「うん、それが良いわね、お願い」
硯ちゃんに眼鏡を貸してくれるように頼んだリザリィは、ポケットに端末をなおすと、小さくため息をついて腕を組んだ。
このハイツには硯ちゃんは近づけない筈だから、俺達が外に出た方がいいんじゃないか、と言おうとした時、ガラス戸をざらりと開けて、眼鏡をかけた使い魔さんが入って来た。
「ああ、使い魔さんは入れるんだっけ……」
「襟亜が言ってたじゃない、重箱を取りに行かせるって。使い魔がここに近づけるのを知ってたから、そう言ったのよ」
確かに昨日も堂々とお弁当を持って来ていた。
リザリィは直接、見ていなかったから、襟亜さんの言葉から推測したらしい。
使い魔さんは天袋に押し込められていた筈だが、どうやら元気なようで、かけていた眼鏡を外すと、俺に渡してくれた。
その後に、壁に掛かっている絵の方を見ると、また、隙間からあの目がこちらを見ていた。
(やばい、絵を見ちゃった……)
そう思った時、使い魔さんはいきなり右手を鞭の様に伸ばして、絵の中に腕を突っ込み、中から一本足のついた目玉の怪物を引きずり出すと、がぶり、とその頭部を食べてしまった。
「うわ、グロい……」
まるで骨付きチキンを咥えているかの様に、使い魔さんはその怪物をむしゃむしゃと食べながら、部屋から出ていってしまった。
「今の怪物、リザリィには男性のあそこに見えてたんだけど、ダーリンにはどういう風に見えてたのかしら?」
「俺には、足の付いた目に見えてたよ」
「使い魔には、美味しそうな食べ物に見えてたみたいね」
「それで、食べちゃったんだ」
「眼鏡はかけて。これからあの絵の中に入って狂気界に行くけど、絶対に眼鏡をとっちゃだめよ。もし外れた時は目を閉じてね」
「うん。向こうの世界の物は何も見ないよ」
「それじゃ行きましょうか」
とリザリィは言うと、俺の腕を取った。
「……行かないの?」
「ダーリンから先に行ってよ。何か出たら怖いじゃない」
「それでもびっくりは嫌いなんだ?」
「そうよ。リザリィがびっくりするのが嫌いだから、向こうはびっくりさせようとするのよ。そういう世界なのよ、狂気界って」
「だんだん、分かって来たよ」
狂気界は心を壊してくる。
たとえリザリィが狂わない分かっていても、心の弱点をついてくる事で嫌がらせ程度の事はしてくるのだろう。
眼鏡をしっかりとかけた後、俺は絵に描かれている扉に手を伸ばし、そしてその引き手に指をかけると、ゆっくりと横にスライドさせて開けた。
絵の中に、リアルな部屋の絵が描かれていた。
額を潜って絵の中に入ってみると、そこは狂気界ではなく、隣の部屋だった。
「ここは、202だ……」
窓には黒いビニール袋が隙間無く貼られていて、テープでしっかりと固定されていた。
クーラーが最大風力で冷風を拭きだしていて、酷く寒い。
目の前には、103号室と同じぐらい大きな額があり、奇怪な風景が描かれていた。
天井と壁が斜めに歪んだ小部屋で、中央に頭部が液晶テレビになっているマネキンがスーツを来て立っていた。
テレビの画面には、目が映っていて、ちらちらとこちらを見ている。
マネキンの足下には直方体の椅子がいくつか置いてあるが、高さはどれも違い、時々勝手に倒れて転がっていた。
絵から目を反らすと、左手のキッチンに、巨大な赤いゼリーの固まりがあり、クーラーの風を受けて震えていた。
この部屋が寒いのは、このゼリーを冷やすためらしい。
「それ、ゼラチンキューブって生き物よ、触ったら食べられるから近付かないでね」
「これ、生き物なの?」
「誰かが玄関をあけて入って来たら、食べるつもりでいるんでしょ。この部屋に入らせないために」
お婆さんが、この部屋に挨拶をしなくてもいいと言ったのは、もしかして俺達を危険から遠ざけようとしての事だったのだろうか。
ヘタに玄関を開けて入っていたら、大変な事になっていたかもしれない。
その赤いゼリーに近づかない用にしつつ、絵の方に近付くと、超リアルな立体映像のように中に入れる様になっていた。
「さぁ本番ね。なんだか嫌な世界だけど、行くしかないわね」
リザリィは今は俺の左腕をしっかりと掴んで、何かに驚かされないかと怯えつつ、横を歩いていた。