心が落ちる時
「お待たせさせちゃったわね、夕食が出来たわよ」
「今日は昨日より豪華だよ」
「リザリィのおごりみたいなものね、美味しく食べて頂戴。食べ終わったら箱は玄関の外においといてね。使い魔に取りに行かせるわ」
キッチンのテーブルの上には、大きめの白い手提げビニール袋が置かれていた。
洗い場の方に置かれた大皿の上にも料理が盛られていたが、あれは縫香さんと襟亜さんと硯ちゃんの分だろう。
「お姉ちゃん、頂きます」
「はいどうぞ。ごめんね、せめて近づける様になれたら、私達が行くからね」
「うん、そこはきっとひろくんが頑張ってくれる」
「期待してるわね」
「は、はぁ」
襟亜さんから、そんな風にストレートに優ししい言葉をかけてもらったのは初めてだった。
なんだかとても恥ずかしくなり、顔を合わせられずに玄関へと向かう。
「照れてるわよ。やっぱり襟亜でもいいんじゃない」
「あら、そんな目で私を見てるの? 若い男ってやっぱりえろいわね」
「そ、そんなんじゃありませんよ!」
「えろい方が普通なのよ、ダーリン、自分を隠さないで」
「隠してもいないよ!」
靴を履いた後、真結が持っていたお弁当の袋を代わりに持つと、真結が玄関を開けて通してくれた。
真結は軽々と持っている様に見えたが、袋はずっしりとした重さで、持つ部分がピンと伸びてしまっていた。
「襟亜お姉ちゃん、また明日」
真結が手を降って扉を閉めると、ちょうとエレベータの扉が開いて、硯ちゃんが降りて来た。
「あ、真結お姉ちゃん、帰る所?」
「うん、今から」
「気をつけてね。お兄ちゃんもリザリィちゃんも、何かあったら無理しないでね」
硯ちゃんはそう言うと手を降って扉へと向かい、俺達は硯ちゃんが乗ってきたエレベーターへと乗り込む。
「硯ちゃんは良い子よねぇ。5年後が楽しみだわ」
「あは、みんなそう言うね。果たして真結は5年後にはどうなっているのか……」
そう言うと、いきなり真結は壁の方を向いて、自分の世界に入ってしまった。
「そ、そういう意味じゃないのよ? 真結ちゃんは5年後には素敵な大人になってる筈よ?」
「そうだといいんですけど、まったく自信がありません……」
「ちょっと、ダーリン、真結ちゃんを持ち上げて!」
「真結はこれから立派な天使になるんだから、大丈夫だよ」
「……あ、そっか。真結は天使なんだよね。もう魔女じゃないんだよね」
一瞬見せた真結の暗黒面は、俺の先ほどの落ち込みと似てるような気がした。
真結はいつも彼女なりに一生懸命だが、それは自分に自信が無いからかもしれない。
縫香さんも襟亜さんも硯ちゃんも、それぞれ自分の得意分野を持っている。
真結は、つい最近まで最強の魔女と呼ばれてはいたが、最強と言っても決して他人を傷つける様な力では無かった。
どこか、俺と似ている。
縫香さんやリザリィからは、俺は見た事も無いほど強い魔法耐性を持った人間だと言われている。
そして確かに、その能力のおかげで、この短期間に様々な非日常的な経験をしてきた。
でも、それは受動的な力で、能動的なものではなかった。
特別に何かが出来る訳ではない。だから平凡に今まで生きてきた。
「ダーリン、もうピーナッツはないわよ」
「わ、分かってるよ」
「真結ちゃんもダーリンも、そういう所は似てるのよね。自分に自信が無いの」
地上に着いたエレベーターの扉が開き、高級マンションを出て裏野ハイツへと戻る。
もう時計は8時近いのに、まだ太陽は沈みきっていなかった。
空は青と赤と紫に彩られて、まるで異世界の様だった。
「出来ない事を悩んでも仕方無いわよ。気をしっかり持たないと二人とも、あのハイツに飲み込まれるわよ」
「ハイツに飲み込まれる?」
「ダーリンはともかく、真結ちゃんがいきなりネガティブムードになったのはちょっと驚いたわ」
「最強の魔女の最強たる所以は、その心の強さだって言われるぐらいなのに、ぽっきり折れそうになってたわよね」
「どうしてかな? 心が落っこちた様な感じになっちゃったの」
「そうだね。落ち込む時ってそんな感じだよね」
「二人とも、狂気界の作品を見たんでしょ? リザリィもお兄様の城で見た事があるけど、その時は人間界と繋がっていて、絵の中に人間の魂が吸い込まれて苦しんでいたわ」
「俺も、そうなりかけたのか……」
「狂気界はね、油断すると心を壊されるのよ。二人とも、あんまりネガティブにならないようにね」
「うん……リザリィちゃんがいて良かった」
「あんまり期待しないで。リザリィは、びっくりには弱いんだから」
そうは言うけど、もしも、俺達のこの心の中に貯まっている暗い部分があのハイツの影響だとしたら、最後に頼れるのはリザリィだけの様な気がした。
俺達がハイツにつく頃には日が暮れていて、各部屋に明かりが灯っていた。
101、103、201の電気が付いている。
102、202は昨日と変わりはない。
こうして遠くから見る限り、この建物はごく普通の物だ。
このハイツはいつからここにあるのだろうか。
書類には築三十年と書いてあったが、それは本当だろうか。
ここに住む人達は、ずっと昔からここに住んでいたんだろうか?
挨拶出来た人達は、あの子を除いて皆、俺達よりずっと年上だ。
俺が笑まれる前からここに住んでいる人もいるだろうか。
襟亜さんの話からすれば、この小さな街の裏側で、近隣の人達に顔を覚えられる事もなく、ひっそりと生きてきた事になる。
そんな事ってあるのだろうか?
俺も真結もリザリィも、こうしてこのハイツに近付く事が出来るが、縫香さん達は近づけないという。
リザリィは、俺達がハイツに飲み込まれると言っていたけど、このハイツは吸い込める相手だけを近づけているんじゃないだろうか。
だとしたら俺達は三人とも危険なんじゃないだろうか?
鉄製の手すりを掴んで階段を登り、203号室の扉を開ける。
部屋の中は藍色の闇で満たされていて、その中をリザリィが先に入り、電気をつけた。
蛍光灯の冷たい光がキッチンを照らし、藍色だった奥の部屋に光が流れ込む。
俺がキッチンのテーブルの上に夕食の入ったビニール袋を置いている間に、リザリィが奥の部屋に入り、そこで電気もつけずに立ちつくしていた。
「どうしたの?」
続いて真結が奥の部屋に入り、リザリィと同じ方向を見て、立ち尽くす。
二人が何を見ているのかと部屋に入ると、壁に一枚の額がかかっていた。