4話
私が受け止められる言葉の真意や重みの許容量は全く勘案されていなくて。
朔弥が伝えようとしている彼の心の内は、私の麻痺してしまった思考をただ素通りするばかり。
何をどう受け止めれば、朔弥からこぼされた言葉を自分を傷つけずに消化できるだろうか。
「私が、邪魔なの?」
目の前が滲み、熱いものがぐっとこみあげてくる。
瞬きを堪えて、頬に何もつたうことがないように必死に我慢する。
自分で言った言葉に自分で傷ついて。
「やめたいの?私との付き合いを……」
そう言った瞬間にこぼれて流れるのは、今だけでない、朔弥と出会った時からためこんでいた涙。
とうとう決壊した想いに通じているに違いない涙腺は、淡々と涙を流している。
『終わりにしないか?』
その言葉は私の体全体に染み渡っていく。
同期として傍にいた事さえも拒絶された、立ち直れそうにない苦しさと一緒に。
私の涙に、一瞬目を見開いてかたまってしまった朔弥だけど、すぐに口元を歪めた。
「ばかじゃねえの?」
言い捨てると、私の頬をつたう涙を手の甲でがしがしと拭ってくれた。
少し乱暴なその仕草に顔をそむけるけれど、背中に回された朔弥の手がそれを許してくれない。
「勝手に落ち込むなよ。そんなマイナスの時間はもういらないんだよ。終わりにしたいんだ」
はあ、とため息まで、朔弥の苦笑とともに私に向けられる。
こんな時にも整ってる顔だな、なんて思ってしまう私ってどれだけ朔弥に捕まってしまっているんだろう。
「お互い、限界だろ?いつかは一緒になれるかも、なんて思いながら他に恋人を作るようなマイナスな時間を。……終わりにしないか?」
色気のある顔には、ほんの少しの不安も見える。
私の反応をじっとうかがっているようだ。
それでも、朔弥から感じられる余裕が私を意地っ張りな女へと導いていく。
そして、自意識過剰な私も顔を出す。
「……終わらせたら、何かが始まるの?」
自分に都合のいい答えが返ってくる事を、強く願いながら、私の頬にあてられたままの朔弥の手を、ぎゅっと掴んだ。
「始まるんじゃなくて、始めるんだよ」
朔弥の額が私の額にゴツンと当てられて、その近さに思わず呼吸が止まる。
さらに引き寄せられた体には、朔弥と触れていない場所なんてどこにもないような熱が襲ってくる。
「わかってるんだろ?どうしようもなく俺のことを好きな気持ち、自覚してるんだろ?」
「……っな……そんな事」
「好きだから、実家でも俺を帰さなかったし家族にも本当の事を言わなかった。言おうと思えば強引にでも言えたはずだろ?」
初めて聞く朔弥の追いつめるような声。
私から視線を外す事なくまっすぐに射るような光が向けられる。
私の本心を露わにされた恥ずかしさから、逃げようとしても逃げられない切迫した時間。
私が、朔弥を好きだって事。
私の中では当たり前になっている感情を言い当てられて、否定するなんて、できない。
「好きよ……もう、ずっとずっと好き」
初めて会った時から惹かれていた。
入社して、同期として過ごす毎日が楽しくて楽しくて、たとえお互いに恋人がいても。
恋人よりも好きな気持ちを隠しながら、朔弥が恋人の事を優しく話す様子も笑って受け止めていた。
「朔弥が私じゃない女の子とつきあってるのがつらかった…」
朔弥が好きだってわかりきってる事が切なくて、つらすぎて。
朔弥が私以外の女の子と築く恋愛を知る度に心は砕けた。
砕けた心は朔弥にしか修復できないとわかっているのに、砕けた心のまま、逃げるように朔弥じゃない男とつきあってた。
「朔弥が、次々と彼女を変えるのを見ながら、どうして私を選んでくれないんだろうって思ってた」
ぐすぐすと、泣き顔を晒しながら拗ねるように言った私を引き寄せて、朔弥はぎゅっと抱きしめてくれた。
「選ぶもなにも、俺に彼女がいない時にはいつも詩織には恋人がいただろ?」
呆れたような口調。
私の背中を撫でる指先の熱。
朔弥の鼓動の穏やかさ。
すんなりと納得してしまう。
「それは……」
朔弥が私じゃない女の子との恋愛を楽しむ現実から目をそらすように、私も恋人を作っていた。
そして、朔弥がフリーになった瞬間から恋人との関係はぎこちなくなり、自分勝手で浅はかで、申し訳ない恋愛を終わらせる準備を始めていた。
「いつも間に合わなかった」
朔弥の胸に顔を埋めて、背中に自分の腕を回して。
今まで我慢していた時間を取り戻すように抱きしめて、体を押し付けた。
「朔弥が恋人と別れたあと、私も恋人にさよなら言って。本当に自分勝手だけど、朔弥に自分を求めてもらいたかったから。
でも、私がちゃんとフリーになった時にはいつも朔弥の隣には新しい彼女が笑っていたもん。
間に合わなかったから、何回も泣いた」
身勝手な私のわがままのせいで、突然終わらせる恋愛に納得できない彼氏達とのさよならはそれなりに時間がかかっていた。
自分が悪いってわかってるから、相手がわかってくれるまでは簡単ではなくて。
私が完全にフリーになる頃には、朔弥には愛情を注ぐ対象が既に存在していたから。
「待っててくれても良かったのに」
本当に悲しくて何度も絶望した。
絶望しても気持ちを捨てきれない自分に疲れ果てて、会社を辞めようかとも考えたけど。
絶望以上に朔弥との縁をきっぱり切る強さがなかった私。
「何勝手な事言ってるんだよ。俺じゃない男と付き合ってばかりで、いつも俺からすり抜けてたくせに。
まあ、俺もどれだけ待てばいいのかわかんねえから、他の女を側に置いてた勝手な男だけど。
それでも、いつかはお前を手に入れたいって思いながら傍にいた」
しがみつく私を引き離すと、朔弥は苦しそうな顔で小さく息を吐いた。
「悪い。もう、我慢できないんだ。俺を好きだっていうのはかなり前からわかってたけど、お互いに身動きとれなくて、ただ傍にいるだけ。
もうそんな後ろ向きな毎日は我慢できない」
「朔弥……」
「最近も、詩織には恋人がいてるって思ってた。……だから、ただ見てるだけだったけど。
慶明さんから、詩織に見合いの話がかなりあるってこないだ聞いて。
ここ一年、詩織には恋人がいないってことも教えてもらったんだ」
悪巧みを表に出すかのように、私の様子をうかがいつつも、にやりと笑う。
からかうように話す言葉の意味が、私には理解できない。
唇に軽く落とされる朔弥の唇を感じながらも、朔弥の言葉に混乱し、応えることができない。
慶明って……、私の知る限りお兄ちゃんの名前なんだけど。
で、私の周りに同じ名前はいないけど。
「えーっ……」
戸惑う私の声は、更に朔弥のにやけた顔を助長させるだけだった.
朔弥の話す言葉に驚くばかりの私を見て、してやったりの顔を見せる朔弥。
多分、出会ってからずっと見てきたどんな顔よりも子供っぽい。
朔弥は、どちらかというと気持ちを全て何かに傾けるような熱い想いを見せる事をしない。
後輩達からは遠巻きに見つめられるような、近づきにくさもどこかにあった。
私は同期だし好きだし。
側にいられるなら、たとえ少しくらい本音が見えなくても平気で、とにかく側にいた。
だから、今目の前にある朔弥の様子の方が、告げられた言葉以上の驚きかもしれない。
「……で、もっと詳しく言いなさいよ」
私の体をぎゅっと抱きしめる手から逃れようと体をずらしても、更に力は強くなる。
朔弥の腕の中に納まったまま、どうにか呟いた。
「……お兄ちゃんと、何を話したのよ」
「ん。話さないつもりはないから、ちょっと待て。まず、キスしたい」
「は?」
「俺の事が好きなんだろ?俺も好きだから。問題ないし、したいし」
したいって露骨すぎる。
「あのねー、ちょっ……」
私の意思なんてお構いなしに、朔弥の唇が落とされる。
まるで壊れ物を扱うように優しく啄まれる。
瞬間、驚いて背けようとした私の顔を、すぐに後頭部に回った手が拒んで、固定される。
反対の手が、あやすように私の頬を撫でる。
今まで何度もそうしていたように、迷う事なく私の唇を塞ぐ朔弥。
少しずつ深くなるキスは、恥ずかしくて聞かせたくない甘い声さえ止める事はできない。
交じり合う舌の熱さが全ての感情を消していく。
「詩織……もう、俺のもんだろ……」
更に強く抱き寄せられた体には、私の意思なんて少しも反映されてない。
全て朔弥の思うがままに動かされている。
「朔……弥……」
「好きだ。ずっと、好きだった……くそ。何で今まで……」
荒々しくなった舌の動きに、私の口はどうしていいのかわからないまま好きにされた。
「俺だけで、俺だけでいいんだ、この体は……ちきしょう」
静まる事のない熱を感じ、私を覆う朔弥に引き寄せられるように、両腕を彼の首に回してしがみついた。
合わされた唇は、何度となく舌でなぞられ、そのこそばゆい感触に、体中が震える。
朔弥に回した腕に力をこめて、引き寄せて、私からも熱を注ぎ返すと。
今までこれを手にいれないまま、どうやって生きてきたんだろうと切なくなる。
キスなんて初めてじゃないしそれ以上ももちろん。
だけど、今感じる全てが初めて。
朔弥からしか与えてもらえない幸せ。
二人して貪りあうこの時間こそ、ずっとずっと求めていたものだと気付くと更に愛しくなる。
「朔弥、好き……好き……」
もう、こうやって言ってもいいんだ。
今まで言えずにいたそんな簡単な言葉を、やっと言えた。
誰にも遠慮しなくていいと思うと、それだけで心は震える。
大きくて甘い吐息と共に、朔弥は私を胸に抱きしめながら自分自身を落ち着かせようと肩で息をしている。
深く揺れる肩が、興奮して震えた時間の熱さを教えてくれる。
その間もずっと、私を落ち着かせるように背中をゆっくりと上下する朔弥の手と、耳にダイレクトに響く鼓動。
どれもこれも、私を嬉しさであふれさせる。
「慶明さんは、詩織をすごく大切にしてるんだ」
「え?」
ああ、そうだ、その話を聞かなきゃ。
朔弥からこぼれる言葉にはどこか温かいものがあって、その話のゆくえに不安を感じる必要はないと感じる。
「詩織にきていた見合いの話は、実家の料亭を贔屓にしてくれている会社の息子さんが相手だったらしいんだ。周りにも影響のある会社だから理由もなく断れないけど、楽しく仕事をしてる詩織を呼び戻して結婚させるなんてしたくないって……」
一旦言葉を止めた朔弥に視線を向けると、途端に合わさる唇。
「悪い。なんか、我慢できない」
少しの照れと満足感を隠す事なく苦笑する朔弥。
思わず私も照れ笑い。
「だから慶明さんは、一度詩織と話をしたいと思って会社に訪ねてきたんだ」
「え?お兄ちゃんが?嘘っ」
「ほんと。先週の月曜だったかな。ちょうど来客で一階のロビーに下りた時に偶然慶明さんと会って、詩織を呼び出す事はできるかって聞かれて。最初は詩織の男かと思ってむかついたんだけどな」
ははっと軽く笑う朔弥だけど、私は簡単には笑えないし信じられない。
地元に戻って結婚することが一番の幸せだと何度も言われて、仕事なんか辞めて帰って来いって言われ続けていたのに。
別にお兄ちゃんに大切にされていないとは思ってないけれど、わざわざ会社まで訪ねてくるほど私の生活を重く考えてくれてるとは思っていなかったから、言葉も出ない。
「慶明さんが、お兄さんだと知って、受付から詩織を呼び出したんだけどちょうど会議中でいなかったから。代わりに俺が色々と話したんだ。見合いの話がある事、仕事を楽しめてるのか……とか」
「なんで朔弥が話してるのよ」
「そりゃ、ずっと好きな女の事だぞ、それに地元に連れ戻されるなんて話されて黙ってられるわけないだろ。……それに、詩織にいると思っていた彼氏もずっといないって聞いて、混乱してたしな」
「あ……それは、その……」
わざと彼氏がいると装っていた私。
朔弥が誤解していたのも仕方がないんだけど。
「詩織がフリーだって聞いて、もう今しかないって決めたんだ。俺以外の男と一緒にいる詩織ばかりを感じるのはもう限界だったから」
朔弥は、重くて低くて苦しい声を吐きだすと、その時の気持ちを思い出したのか苦しげに眉を歪めた。
そして、私の額に額を合わせて、呟いた。
「あの時、詩織の気持ちなんて、どうでも良かったんだ、俺が詩織を離したくなかったし離さないって決めたから。見合いなんて断ってくれって慶明さんに頼んで、俺が幸せにするって何度も説得した」
この男のこの自信って、一体どこから生まれてるんだろう。
仕事に関してはいつも自信に満ちて強気だけれど、まさか私の人生にまで介入してくるなんて。
本当に勝手な男。
そして、敵わないくらいに愛しい。
「慶明さんが、俺を親にも会わせたいから詩織と一緒に結納の時に来いって言ってくれたんだ。だから、この週末は一緒に詩織の実家に行ったってわけだ」
「あ……そう」
話の途中から半ば予想できいたのか、私は自然にその種明かしを受け入れる事ができた。
「今から考えると、みんなおかしかったもん」
そう、実家での家族みんなの様子はおかしかった。
朔弥を恋人だと勘違いしている家族への後ろめたさが、その事を深く考えるのを放棄させていたけれど。
朔弥と一緒の時間の緊張感と嬉しさが、私のあらゆる機能を麻痺させてたんだろうな。
普通なら、突然恋人だと言って連れ帰った男をお兄ちゃんの結納にまで同席させるわけないし。
結婚を決めているという朔弥に対しても、もっと違う反応をしていたはず。
だって、朔弥と会うのも初めてだし何の情報もない男を頭から信じるなんて理解できない。
そんなあたりまえの事もスルーしてしまって、自分の感情だけに必死だった私ってなんて滑稽だったんだろう。
「お兄ちゃんが、父さんとか母さんに朔弥の事をあらかじめ言ってくれていたから……あんなに簡単に受け入れてくれたんだ」
ぼそっと呟く私を抱きしめる朔弥は、くすくす笑っている。
自分が思い描いた展開が無事に完了して、今はたまらなく嬉しいらしい。
「で、俺たちの結納はいつだって聞かれたから、明日は俺の実家に挨拶に行って決めような」
どう聞いても幸せそうな声音に私も幸せになるけれど、その一方でなんだか悔しいとも感じる。
「ずるい。朔弥の思うがままに進んでいて、むかつく」
「は?なんで?嬉しくないのか?」
「そ、そりゃ、もちろん嬉しいけど……」
「じゃ、いいだろ。俺と結婚するんだからそれで幸せだろ?」
あっさりとそう言う朔弥に、ほんの少し不満もある。
私がずっと朔弥を想い続けて苦しんでいたこの何年かは、こんなに簡単に完結するの?
あんなに涙を流して、自分の気持ちと折り合いをつけながら他の恋愛に逃げていた過去。
「いっぱい泣いたのに……朔弥から離れようって何回も考えたのに」
「できなかっただろ?」
私の頬を、手の甲で何度も撫でる朔弥は私の顔を見つめながら。
「俺もそうだったから、詩織の苦しみはよくわかるんだ。ただ、詩織がいればそれでいい。
結局、今回のことは俺が突っ走って勝手に決めてしまったけど、それは詩織も望んでる事だろ?」
「うん。そうなんだけど」
「なら、それでいいだろ。俺も詩織も幸せなんだから、もうそれだけを考えろ。
少なくとも、今の俺は幸せでたまんないんだけど」
誰にも遠慮する事なく好きって言えるし、奥さんにもなれる。
未来が幸せに満ち溢れていると思える。
朔弥の笑顔を見ると、まだまだ悔しい気持ちもあるけど。
やっぱり私は幸せ。
愛しくて、切なくて、側にいたかった。
そんな朔弥との未来には、切なさはもういらない。
愛しくて側にいられる。
それだけが私達。
『抱きたいんだけど』
私を抱き上げて、寝室はどこだと朔弥が笑う。
そんな愛しい彼に、これ以上ないときめきを感じて。
私はもう、しがみつくしかできなかった。
【fin】