#8 見ない、聞かない、知ろうとしない
声の主を探して五十鈴が周囲を見回すと、廊下の先に天井にそれは張り付いていた。黒い犬のような形の異形だ。それが逆さまになってこちらを見下ろしている。
「おやおや、お出ましのようですね」
「い、いつの間に……」
つい先ほどまで視界に入っていた場所だ。しかしその時には、そこには何もいなかったはずだ。五十鈴が最初に遭遇した異形と同じく、彼らにとっては突然姿を現すのが普通なのだろうか。
「くろちゃ ご はん」
五十鈴がどきどきする胸に手を当てながら見ていると、異形の口からそんな言葉が発せられた。どこか舌足らずで聞き取り辛い声だ。しかし出て来た言葉は先ほどの異形と同じく「ごはん」であるので、どう考えても五十鈴へと向けられたものだろう。
(でも、くろちゃって何でしょう?)
五十鈴はそっと首を傾げた。単語だけで思い当たるものはない。お茶の類だろうか、それとも――少し考えて五十鈴は、もしかしたらそれが、あの異形の名前なのではと思った。
「お嬢さん、いけませんよ。あなたに害意を向ける異形のことを知ろうとしては」
五十鈴がじっと見つめていると、不意にダンデが諭すようにそう言った。ハッとして五十鈴が彼を見れば、ダンデの顔もまた異形の方を向いていた。こちらをちらりとも見ていないのに、考えていることを見抜かれてしまって、五十鈴は思わず目を丸くする。
「わたくし、もしかして独り言をつぶやいていまして?」
「いいえ。ですが異形に慣れていない方の行動は、大体がそうですから。その反応ですと、当たっているようですねぇ」
「はいですの。心を読まれたかと思いましたわ!」
「それは何よりです」
「何よりではありませんのよ?」
「ふふ」
ダンデはくすりと微笑んだ。五十鈴の反応を、どこか面白がっているような雰囲気だ。
「からかわないでくださいまし」
「いえいえ、そんなことは。……話を戻しますが、異形はね、お嬢さん。そういう隙に付け込んでくるのです。こちらのことを知ろうとしているならばもっと教えてやろう。餌をやろう。そうして油断と同情を引いて、頭からぱくっといただいてしまう。そういう生き物なんですよ」
ダンデはそう話しながら、右手を胸の高さまで持ち上げた。そしてスッと横へ動かすと、空中にふっと、淡く緑色に光る剣が出現した。反りの入った片刃の剣――サーベルだ。柄や刃に植物をイメージしたような精細な衣装が施されている。
(魔法みたい……)
ポカンとしている五十鈴をよそに、ダンデはサーベルの柄を握る。そして切っ先を異形へと向けた。
「――さて、それではさっさと済ませてしまいましょうか。お嬢さんはそこでお待ちを。ああ、それと、もしも後ろから異形が現れたら、私を呼んでください。すぐに助けに伺います」
「それはもう、大きな声で呼ばせていただきますわ!」
「素晴らしい。大変良いお返事です!」
ダンデは楽しそうに笑うと、床を蹴って異形へと向かって行く。タンッと軽い踏み込みの音が聞えたと思ったら、次の瞬間にはすでに、異形の目の前に彼はいた。とんでもない跳躍力だ。やはり見た目通り普通じゃないと、五十鈴はごくりと喉を鳴らす。
「く ろちゃ ごは ん」
「美味しい匂いでお腹が空くのは分かりますが、彼女はだめですよ。食べたら二度と、他の物を食べたくなくなります」
「ご はん」
「だめですよ」
聞き分けのない子供に言い聞かせるように、ダンデは繰り返し告げながらサーベルを振るう。軽やかに、まるでダンスでも踊っているかのように滑らかに動くダンデに、五十鈴は思わず見とれた。
「す、すごいですの……」
五十鈴の口から無意識に簡単の声が零れる。語彙など消えてしまうほどに綺麗な動きだった。今のような不気味な場所と状況でさえなければ、五十鈴は熱心に拍手をしていたことだろう。
(……って、見てる場合じゃありませんでしたわ! 背後に注意ですの!)
ハッと我に返った五十鈴は、慌てて後ろを振り返る。今のところは廊下のどこにも異形の姿は見えない。しかし、だからと言って安心出来ないのは、先ほど経験済みだ。あの時なんて後ろに何もいないと安心して前を向いたら、すぐ目の前に異形がいたのである。足音も気配もまるで感じなかった。どうやって現れたのかすら分からない。だから気を抜かないのに越したことはない。
(……わたくし、運が良かったですわ)
必死で逃げた先でダンデと出会えなかったら、きっと今頃五十鈴は異形の美味しいご飯である。もしも何とか逃げ切ることが出来ていたとしても、この様子では、別の異形に襲われていたことだろう。
(それにしても……美味しそうな香りって何なのでしょう?)
五十鈴が異形から「美味しそう」と思われているのは、その『香り』のせいだ。もしかして体臭かしらと五十鈴は心配になって、自分の手首の辺りを嗅ぐ。しかし特に気になるようなものなかった。それはそれで良かったと思う反面、より謎が深まって五十鈴は首を傾げる。
(異形さん達にしか分からない香り……なのかしら。犬笛みたいな……)
五十鈴の頭にふっとそんなイメージが浮かんだ。聴覚と嗅覚ではだいぶ違うものの、何となくはそんな感じではないだろうか。
そう考えながら五十鈴は再びダンデの方へ意識を戻す。するとちょうど、ダンデが異形の頭にサーベルを突き立てているところが見えた。異形はそのまま地面から立ち上がることも出来ず、ややあって体が塵となり、さらさらと崩れて消えていく。
――どうやら戦いは終わったようだ。本当にあっという間だった。
五十鈴がほっとしていると、ダンデがくるりとこちらを振り向いた。
「お待たせいたしました、お嬢さん。そちらは大丈夫でしたか?」
「あ、はい。今のところは全然大丈夫そうですの!」
五十鈴はこくこく頷いた。もしかしたら五十鈴が気付かなかっただけで近くにいたかもしれないけれど、他の異形は姿を現すことはなかった。だから見たままを正直に報告すれば、彼は満足そうに頷く。
「それは良かった」
そう言って、彼は胸元から砂時計のペンダントを引っ張り出した。そして軽く揺らして中身の様子を確認する。
「ああ、小さめの一匹分ですねぇ」
「あらまぁ……あのくらいでも小さいんですのね?」
「ええ。もっと小さい奴もおりますけれどね。ねずみくらいのサイズとか」
「ねずみさん……それはまた小さいですわね。見つけるのが難しそうですわ」
「その通りです。気付かないうちに近寄ってきて、がぶり、と噛みつかれないように十分注意してくださいませ」
「ひええ」
無情な言葉を突き付けられて、五十鈴は両手で頬を包んで慄いた。サイズの大きい異形であればひと目でどこにいるか分かるけれど、ねずみほどに小さいとちょっとした物陰に潜んでいても見つけるのは難しい。大きな口でぱくりとむしゃむしゃされるか、小さな口でがぶがぶされるか――果たしてどちらがマシだろう。
(って、どっちも困りますの!)
五十鈴は首をぶんぶんと横に振る。それを見てダンデは「お嬢さんは喜怒哀楽が分かりやすいですねぇ」などと楽しそうに言って、
「それでは、残りも頑張って行きましょう」
と歩き出したのだった。




