#28 五十鈴『センパイ』
「五十鈴センパイ、これでいいっすか」
「えっ、あっ、はい! だ、大丈夫ですわ!」
「うす」
五十鈴が異形達と知り合って三週間ほど経った頃。何故かリカントから「センパイ」なんて呼ばれるようになってしまった五十鈴は、少々挙動不審になりつつも、カフェ・フロストでアルバイトに勤しんでいた。
もちろんこうなったのには理由がある。雇い主であるアルヴェアーレの指示だ。
リカントは再雇用されるにあたって、彼女からとある条件を出されたのだ。それが「五十鈴の指示を聞くこと」である。
最初にその話を聞いた時、五十鈴は恐れ多いと狼狽した。
何せ五十鈴は働き出して間もない上に、店には客も来ないものだから、接客の経験だってただの一度もないのである。そんな状況なのに、元々ここで働いていたリカントに指示なんて、とてもじゃないが出せるわけがない。
「三か月ほど過ぎたら何とかなるかもしれませんけれど、さすがに入って一週間では難しいお話だと思いますの!」
「なに大丈夫さ、そこまで難しい指示を出せというわけではないからね」
「でしたらダンデさんの方が……」
「そちらの方が無理だね。ダンデが何か言えばリカントが反発するのは目に見えているし、それならばと私が言えば委縮してしまう。君が一番適任だよ、五十鈴」
「そ、そう言われましても……」
本当に引き受けても大丈夫なのだろうか。自分がおかしな指示を出したことで、リカントの評判がさらに下がることになってしまうんじゃないか。
五十鈴がそう危惧しながら考えあぐねていると、
「そうか……無理強いするわけにもいかないからな。残念だがリカントの再雇用は……」
アルヴェアーレが、わざとらしいまでの悲しい顔を作って、ちらりとリカントを見た。とたんにリカントはショックを受けて項垂れる。耳も尻尾も、再びしゅんと垂れてしまった彼を見て、五十鈴の胸に罪悪感のようなものが広がる。
――分かっている。
この流れがアルヴェアーレの作戦であることは、五十鈴にだって分かっているのだ。そのくらいアルヴェアーレの言動は白々しい。
けれども、だとしても、リカントだけは何故かそれに気付かずに、アルヴェアーレの言葉に一喜一憂している。今にも泣きだしそうなくらい悲壮な顔をするリカントを見て、五十鈴はどうしようもなく胸が痛くなってしまった。
「う、うう……わ、分かりましたの。や、やりますわ……」
「そうか! いやぁ、優しい従業員を持てて私は幸せだなぁ!」
「お嬢様、あんな駄犬にもお優しい……!」
やむなく五十鈴が承諾すると、アルヴェアーレは満面の笑みを浮かべて指を鳴らし、ダンデはぐすっと涙ぐみながら賞賛してくれた。大げさが過ぎる。
――と、まぁ、そんなことがあり、五十鈴はリカント『先輩』になってしまったのである。もっとも再雇用という形なので、実際に彼は五十鈴の後輩であることは間違っているわけでもない。ただ五十鈴自身が心情的に複雑なだけだ。
けれども、どういう流れであったとしても、自分が一度引き受けたことだ。だからちゃんとやらねばと心に決めて、五十鈴はリカントと接していた。
(とは言え、今日もお客様がいらっしゃらないから、困ったことも特に起こっていないんですけれど)
カフェ・フロストは相変わらず閑古鳥が鳴いている。他に聞えるのは店内を流れる穏やかなピアノ曲と、窓の外で遊ぶ雀の羽音だけ。何とも平和なものである。
(掃除も、食材もろもろの在庫確認や賞味期限チェックも終わってしまいましたの……)
そんなこんなで暇なので、やれることは全部やり終えてしまった。あとは来るか来ないか分からない客を待つだけである。ただ、その『待つだけ』がなかなか辛い。アルバイトを初めてみて分かったが、仕事は手隙の時が一番落ち着かないのだ。
何かやることはないだろうか――そう考えた五十鈴は何となくリカントの方を見た。
「……あっ! そうですわ!」
「どうしたんすか?」
「お時間がありますので、リカントさんがお客様と喧嘩をしない方法を考えましょう」
「はあ」
リカントは一瞬『何を言っているんだこいつ』という顔になったが一蹴することもなく、素直にこちらへとやって来る。
「腹が立っても我慢する以外にあるんすか?」
「ないですわね。でも心の持ち方でだいぶ違うと思いますのよ。いいですこと、リカントさん。大事なのはアンガーマネジメントですわ」
「アンガーマネジメント? ああ……六秒我慢したら殴っていいって奴っすよね」
「まったく違いますの! 六秒我慢したら、頭がちょっと冷静になれるというお話ですの!」
案の定というか、そういう答えが返ってくるかも……と想定していた言葉を聞いて、五十鈴は頭を抱えた。
アンガーマネジメント――つまり感情のコントロールの話だ。
五十鈴だって、理不尽なことや失礼なことを言われて、にこにこ笑顔で受け入れろとは言わない。それは怒って良いことだ。
しかし怒ったとしても、すぐに手が出て騒動にならないように冷静になる時間があれば、その頻度が下がるのではないか思ったのである。
そう伝える五十鈴に、リカントは少し考えてから不思議そうに首をかしげた。
「冷静になったら、どうなるんすか?」
「ボコボコにする以外の方法が思いつくかもしれませんのよ」
「へぇ……人間って大変なんだな……」
リカントは心の底から感心したように言った。
しみじみと出たその声には、同情心のようなものも混ざっている。
結局リカントはあまり理解しているような風ではなかったが「やってみるっす」と素直に頷いてはくれたのだった。
* * *
「――ということがありまして」
カフェ・フロストでのアルバイトが終わり、ダンデと一緒に家へ帰る道中。五十鈴は先ほどリカントと交わしたやり取りをダンデに聞いてもらっていた。愚痴とは少し違うものの、先輩という立場が難しくて、少しだけ心の中の葛藤を吐き出させてもらいたかったのだ。
するとダンデはくすりと笑った。
「ふふ、頑張ってらっしゃるお姿も素敵ですよ、五十鈴お嬢様」
「あうう……これは頑張っているに入るのかしら……?」
ダンデはいつも褒めてくれるので、自己肯定感はぐんぐんと高まるものの、それはそれとして何となく甘やかされているようにも感じる。このぬるま湯のような優しさに浸かり続けていたら、何だか抜け出せなくなってしまいそうだ。
五十鈴が将来にふわっとした不安を感じていると、
「ですが、そのお話をリカントへ伝えるのは確かに難しそうですね」
ダンデが軽く頷いてそう言った。
「もっともこれは異形全般に言えることでもありますが」
「そうなんですの?」
「ええ。そもそもの考え方が違うのです。我々は相手が六秒動かずにいれば斃せると考えますから」
「ダンデさんも……ですの?」
「ええ。私も異形でございますから。ですから異界などで異形を相手にする場合は、そのことを思い出していただけると幸いです」
胸に手を当てて、真剣な目をしてそう言った。
なるほど、と五十鈴は思う。だからリカントはずっと不思議そうにしていたのだと、五十鈴はダンデの言葉で納得した。
(異形さんのことを、もっと知りたですわ)
ダンデ達と一緒に過ごすにも、異形討伐の仕事をするにも、異形に関する知識をもっと深めておくのは大事そうだ。
そんなことを考えながら五十鈴は、黄昏時を通り過ぎた薄暗い空の下を、ダンデと並んで歩いたのだった。




