「間口は稼ぐ順に」と愛人の見世を先に立てた夫へ。では割付帳から、わたくしの名を外します——座株の停まる見世に札は残して
取られた。美津の指に挟まっていた間口札を、清右衛門が市神の前でひょいと抜いた。
「旦那様、まだ日の回りを——」
「間口は稼ぐ順に」
清右衛門は美津の言葉を札の下へ敷き、そのままお梅の小間物見世を読み上げた。本店より先、辻から入ってすぐの一番目。簪も紅もよく映る、朝の日差しだけが斜めに入る上等な間口である。
「お梅のところを表へ。うちの本店は二番でよい」
「まあ、旦那様。そんな上等なところへ、よろしいんですの?」
客へ向けるときだけ蜜を引くお梅の声に、二十軒の見世主がどっと笑った。清右衛門の脇では、義弟殿まで口元を袖で隠している。隠すくらいなら笑わなければよいのに、見せたい袖だったらしい。
「売れるところへ客を通す。それが市のためだ」
「兄上も、ようやく割りに口を出す気になったんですねえ」
義弟殿が半歩軽くすると、もう一度、笑いが起きた。
美津は笑わなかった。代わりに清右衛門の手元からはみ出している飴屋の札を見た。このままなら、竹の見世は辻の角から三軒奥へ押し込まれる。
月に六度、二十軒ぶんの札を割って十年になる。荷車の幅、朝夕の日差し、寺帰りの婆さまたちの足、子どもがどちらの辻から駆けてくるか。そういうものを頭の中で煮込み、最後に帳面へ残すのは、見世の名と位置だけだ。
煮汁は残らない。旦那様は、皿に載ったものが初めからその形で生えてきたとお思いなのだろう。ずいぶん便利な畑である。
「美津、帳面」
「はい、旦那様」
差し出す前に、美津は飴屋の札だけを指先で辻側へ寄せ直した。ほんの一寸。子どもの目に飴の赤が入り、母親の袖を引ける一寸だ。
会所の隅に座るお常さんが、湯呑みを持ったまま、その指を見ていた。三十年、市を見てきた人は、清右衛門の新しい羽織にも、お梅の紅にも目をくれない。美津の指だけを見る。
あの羽織で、飴屋の店賃がひと月。裏まで絹なら、ひと月と七日。ひと月ぶんを着て歩いて、辻の角一つは惜しまれるのですね。
「何をしている」
「札が曲がっておりましたので」
「位置は俺が決める」
「札の曲がりでございます」
清右衛門は美津の返事を聞き終える前に帳面を開いた。上段には、割り手として「若女将 美津」とある。その下へ並ぶ二十軒が、清右衛門にはただの行に見えているらしい。
市が開くと、お梅の見世には人が集まった。新しい簪を手に取り、紅の蓋を開け、値を聞き、隣の本店へ流れる。見世が一つ表へ出れば儲けも一つ表へ出るほど、客は律儀ではない。
「さすが兄上。賑わっておりますね」
義弟殿は品を買わないまま褒めた。褒め言葉というものは銭函へ入らない。軽いはずである。
お梅は客前ではにこにこと簪を挿してみせていたが、昼を過ぎると清右衛門の袖をつまみ、売れ残った紅の数を小声で数え始めた。清右衛門は本店から客を呼ぶよう奉公人へ命じ、美津には後ろの見世を詰め直せと言った。
「承知いたしました」
美津は荷車の通り道を半間広げた。米俵を担いだ男が小間物の客の背へぶつからずに済み、そこでようやく人の流れがほどける。お梅の前にも客が戻った。
清右衛門が満足そうに頷いた。あらまあ。いま直したのは旦那様の割りではなく、旦那様の詰まりです。
次の市日、魚菜見世の佐吉の札は南側へ回された。朝のうちは板の上の鯖も青く光り、清右衛門は腕を組んで見回していたが、あの場所は昼前から庇の下まで日が食い込む。
「旦那様、佐吉さんの荷は北へ寄せたほうがよろしゅうございます」
「売り切ればよい」
「昼までに、でございますか」
「売る力の差だ。いつまでもお前が甘やかすから、工夫をしなくなる」
清右衛門の声は二十軒へ聞かせる大きさだった。美津が口を閉じると、義弟殿も肩を揺らす。美津が口を閉じるほど、清右衛門の声はよく通った。
昼前、板の上で魚の腹がゆるみ始めた。佐吉は笊を持ち上げ、美津へ短く言った。
「若女将、日が入りました」
「半分を桶へ。残りは庇の奥へ逃がしましょう。売り声は通りへ向けて」
「へい」
美津は空いた樽を二つ借り、板の前へ並べた。笊を傾けて日を遮り、裏から水を運ばせ、買い物籠を提げた女衆が足を止められる隙間を作る。魚は見えすぎても傷み、見えなければ売れない。商いとは、たいそう気難しい猫である。魚なのに。
「ほら、売れたではないか」
夕刻、清右衛門は佐吉の軽くなった桶を見て言った。美津が運ばせた水も、積ませた樽も、日を避けて奥へ逃がした半分も、帳面には書かれていない。
「旦那様のお見込みどおりでございましたね」
そう返すと、清右衛門の顎が少し上がった。あれ以上上がるなら、簪を一本お売りできる。お梅へ知らせて差し上げたい。
その次の市日には、飴屋の竹が辻から外された。子どもは母親の手を引くが、母親は飴の見えない路地へ用もなく曲がらない。竹の赤い練り飴も、豆飴も、昼を過ぎても籠の中で行儀よく並んでいた。
「前は角でなくても売れた」
清右衛門が言うと、義弟殿が待っていましたとばかりに美津を見た。
「売れるほうが先ですものねえ」
「左様でございますね」
「義姉上も、兄上のやり方に慣れませんと。いつまでも昔どおりでは」
義弟殿はそこで言葉を切り、周りの笑いを待った。二つ三つ、愛想のよい声が返ると、続きを得た顔になる。
「二十軒もあるんです。情で札を置いていては、商いになりませんよ」
「左様でございますね」
美津がまったく同じ声で返すと、義弟殿は次の笑いを探して兄の横顔を見た。竹の籠は見なかった。見れば飴を動かさなければならないし、飴は袖で隠せない。
夕刻、竹が売れ残りを包み始めた。美津は自分の巾着を開き、豆飴を二包み、赤い練り飴を三本、胡麻の板飴を一枚指した。これでまた、夕餉の前に甘いものを食べる女になる。婚家では倹約を説く若女将、市では飴を大人買い。体面が虫歯になりそうだ。
「その手は、いけません」
竹が銭を置こうとする美津の手を、一度だけ押し戻しかけた。
「商いでございましょう」
「けれど」
「わたくし、たいへん腹が減っておりますの」
これは嘘ではない。会所の隅には、朝に握ってもらった握り飯が二つ、竹皮に包まれて待っている。ただしもう、石垣の親類ほどには冷えている。
美津が銭を置くと、竹は包みを渡した。それ以上の礼は言わず、籠を背負う。商いの人の礼は短いほうがよい。長い礼では腹は膨れないし、店賃も払えない。
会所へ戻り、美津は冷えた握り飯をかじった。魚菜の傷みを逃がし、飴の残りを買い取って、後ろの見世が出した損を自分の手と手銭で呑み込む。なるほど、美津が市じゅうの売れ残りを食べ尽くせば、帳尻はたいそう丸くなる。
胃袋には限りがある。旦那様のお見込みより、だいぶ小さい。
お常さんが向かいへ座り、竹皮の上の赤い飴を見た。
「買ったのかい」
「夕餉前のおやつでございます」
「五つも」
「たいへん腹が減っておりますの」
お常さんは鼻で一つ息を出した。笑ったのか、呆れたのか、勘定に入れたのかは分からない。湯呑みを置く手だけが、いつもよりゆっくりだった。
四度目の朝、美津は一番よい外出着を選んだ。藍鼠の地に細い銀糸、派手ではないが、立っているだけで仕立て賃が分かる。見栄は腹の足しにならない。だが、何も持たずに出る日くらい、自分を高く見積もっても罰は当たるまい。
清右衛門は着物に気づかなかった。市神前で札を並べ、お梅の一枚をまた表へ置くことに忙しかったからだ。
「お梅はここだ。本店はその横。魚菜は南、飴は奥でよい」
札を置く手に迷いはなかった。二十軒の見世主も、前回までと同じように清右衛門の顔色を見て頷いた。
「美津、残りを合わせろ。荷車が入らぬところだけ、お前が直せ」
「はい、旦那様」
「それから、お梅の残った品は本店で引き取る。勘定をつけておけ」
お梅は客へ向ける笑顔のまま、銭函のそばで指を折っている。利だけ表へ、残りは本店へ、後始末は妻へ。旦那様の市には、ずいぶん都合のよい裏口がある。
美津は割付帳を文机へ載せた。紙の折り目を指で伸ばし、筆を取り、上段の一行を見た。
若女将 美津。
十年、月に六度。日差しを読み、客の足を拾い、荷車を通し、売れ残りを買った。そのどれも一行には書かれていない。ただ、ここに名があるから、自分は婚家の内側で市を割っているのだと思っていた。
筆先を置いた。
「でしたら、わたくしの名は要りませんわね」
清右衛門が顔を上げた。
「何を言っている」
美津は自分の名へ、一本の線を引いた。筆を硯の脇へ置いても、札の幅も、人の流れも、旦那様の羽織の値も、何一つ浮かばなかった。
「わたくしはこの一行を、十年、わたくしの名だと思うて割っておりました」
「役目を外すとは言っていない。名など、ただの書きつけだろう」
「左様でございますか」
「帳面は置いていけ。今日の残りを直したら、店へ戻れ」
清右衛門の声はまだ命じる形をしていた。けれど美津は帳面の折り目をきちんと正し、文机の中央へ置いた。
「帳面は、どうぞ」
「美津」
「中身も、すべて旦那様のお決めになったとおりでございます」
美津は文机から一歩離れた。もう一歩で、市神の前を通り過ぎた。
清右衛門の手が上がり、美津の袖へ届く前に止まった。二十軒が見ている。妻を後ろへ置く言葉は持っていても、降りた妻へ残れと言える言葉を、清右衛門は持っていなかった。
美津は一番よい外出着の裾を整え、会所を出た。銀糸へ朝の光が細く走った。
* * *
お常さんの家で、美津は出された白湯を一口飲んだ。良い外出着で白湯。絵面だけなら本家へ借金を頼みに来た嫁であるが、これから頼みに行くのは仕事だ。
「割付帳から、名を外してまいりました」
「そうかい」
「帳面は折り目を整えて、文机へ置いてございます」
「そうかい」
お常さんは理由を聞かなかった。清右衛門をどうしたいとも、これからどうしてほしいとも尋ねない。美津も頼まなかった。
「本家筋へ、ご報告に参ります。婚家の名でお預かりしていた役目は、もう受けられませんので」
「その前に、次の市を見ておいで」
「わたくしは直しませんよ」
「誰が直せと言った」
短い町言葉が、白湯より熱かった。
お常さんは膝の上へ手を重ね、庭のほうを見た。
「あたしも二十年前、亭主に同じことをされたよ。客が立つのは看板のおかげだとさ」
それだけ言って、白湯を飲んだ。
「それで、お常さんは」
「座株を停めた」
美津は湯呑みを持ち直した。お常さんが先代市司の後家であることは知っていたが、二十年前のその一日を話すのは初めてだった。
「奥さん。うちらはあの見世に立ってたんじゃない。あんたの割りに立ってたんだ」
慰める声ではない。売れた数を読み上げるような、乾いた言い方だった。
次の市日、美津はお常さんに呼ばれ、会所の奥へ座った。割付帳は清右衛門の前にあり、美津が整えた折り目のまま開かれていた。上段の名には一本の線が引かれ、その下には前回の位置だけが残っている。
(間口など、売れる順に割ればよいだけのことだ——)
清右衛門は帳面どおりに札を置いた。だが、その日は寺で朝の勤めがあり、女衆の足はいつもより一刻遅い。前回は朝から曇っていた南側へ、雲一つない空から日が差し込んでいた。
魚菜見世の佐吉は、傷み始めた魚を桶へ移した。水を運ばせる者も、樽を前へ置く者もいない。佐吉は清右衛門へ一度だけ庇の延長を求め、返事を待たず、傷んだ分を籠へ分けた。
飴屋の竹の前からは、子どもが消えた。辻の角に赤い飴がないため、母親の袖を引くきっかけそのものがない。竹は売れ残りを包んだが、今度は美津の巾着が開くこともなかった。
表のお梅は紅の蓋を並べ、甘い声で客を呼んだ。けれど魚菜を買う女衆は傷みを嫌って早々に帰り、子ども連れは飴のない辻を曲がらない。小間物を覗くついでの足が、丸ごと消えている。
「清右衛門さん、これは引き取ってくださるんでしょうね」
日が傾くより先に、お梅は客へ向ける声を捨てた。残った紅と櫛を風呂敷の上へ並べ、清右衛門の前へ押し出す。
「本店で持つ。次は呼び込みを増やせば——」
「次も残ったら困りますの。先にお勘定を」
お梅の指は、簪ではなく銭函を指した。表へ出る利は受け取るが、沈む荷と一緒に立つ気はないらしい。そこだけは旦那様より商いが分かっている。
夕刻の寄合で、清右衛門は帳面を抱えて立った。
「今日は客の出が悪かっただけだ。次は本店から人を出して——」
戸が開き、お常さんが入った。
義弟殿は兄より先に口を閉じた。美津を相手にしていたときにはよく動いた唇が、きれいに一文字になる。傷んだ魚菜も残った飴も置き直さなかった人が、自分の足だけ半歩、兄の後ろへ置き直した。
清右衛門の声が痩せた。
「お常さん。本日の損でしたら、本店の身代から出させます。お梅の分も、佐吉の分も、こちらで」
「金の話はしてないよ」
「では、次の割りを改めます。美津にも戻るよう申しつけて——」
お常さんは座ると、畳へ並んだ間口札を見渡した。清右衛門が許しを待つように口を閉じてから、一枚を抜き取った。
「清右衛門」
その名を一度だけ読んだ。
「今日で、あんたの座株を停める」
清右衛門の間口札が、畳へ伏せられた。札の表が消えた瞬間、二十軒から笑い声だけがなくなった。
「お待ちください。うちの本店が抜ければ、この市の身代が——」
「抜けるんじゃない。立てないんだよ」
お常さんは理由を足さなかった。清右衛門は札へ手を伸ばしかけ、お常さんが指を置いているのを見て、膝へ戻した。
「兄の決めたことで、私は札を割っておりません」
義弟殿が兄の後ろから言った。
「笑ったね」
お常さんが返すと、義弟殿は畳を見た。問われたことだけに答える口さえ、今度は開かなかった。
美津の胸の小さな算盤が、そこで一つだけ、たいそう景気よく鳴った。損は持ち主へ。ようやく帳尻が、正しい家へ帰った。
お梅は伏せられた札と清右衛門を見比べ、風呂敷を引き寄せた。
「お勘定は、本店へ取りにうかがいます」
それだけ告げ、売れ残った品を抱えて会所を出ていった。
寄合が終わっても、二十軒はすぐには帰らなかった。先ほどまで清右衛門の後ろに並んでいた者たちが、今度は美津の前へ間口札を置き始めた。
「若女将、荷車が入れるところを頼みます」
「若女将、朝日が半分だけ当たる間口へ」
「若女将、うちは昼から人が来ます」
「若女将、庇の深いところなら助かります」
「若女将、寺帰りの足が曲がる側へ」
「若女将、桶を二つ並べられる幅で」
「若女将、夕方まで日陰になるところを」
「若女将、隣の声がかぶらない場所へ」
一軒が一言だけ希望を置き、札から手を離す。残りの者も、荷の幅、売る刻限、風の向き、客の足を一つずつ告げた。誰も清右衛門の顔を見なかった。
最後に竹が札を差し出した。
「角でなくてもかまいません。子どもの目に入るところを、若女将のご判断で」
美津は札を受け取らなかった。膝の前に二十枚が揃うのを待ち、お常さんを見る。
「これは、婚家へ戻る役目ではございませんね」
「戻すものかい」
「手間賃は」
「講と本家筋から出す。あんたの仕事だ」
ああ、それならよろしい。腕は霞を食べて働けないし、美津の巾着にも底はある。底があるから、銭は大切なのだ。
それから美津は、講と本家筋に請われ、新しく立て直す市の割りを任された。真新しい割付帳を開き、上段の最初の一行へ、誰の妻とも書かずに名を入れる。
美津。
墨が乾いてから、一枚目の間口札へ手を伸ばした。竹の札を子どもの目に入る辻筋へ、ただし荷車を塞がない二軒目へ置く。佐吉の札は朝日だけが当たり、昼には庇の影へ入る側へ回した。
見世主たちは札を受け取り、それぞれの間口へ散っていった。美津の手には、誰かの売れ残りを買うためではない手間賃が残った。
市の初日、門前に清右衛門が立っていた。新しい羽織ではない。何度も袖を通したものをきちんと着て、美津が出てくるまで待っていたらしい。
「美津」
「旦那様」
「戻ってくれ」
清右衛門はそれだけ言った。命じる声ではなかったが、美津は足を止めただけで、門の外へは出なかった。
「お前がいなければ、店も市も立ちゆかない。役目も帳面も、前のように戻す。だから」
美津は門内の見世を振り返った。竹の赤い飴に子どもが指を伸ばし、佐吉の桶には庇の影が落ちている。女衆が煮売りの鍋を囲み、こちらへ手を振っていた。
「間口は稼ぐ順に」
美津はそれだけ返し、清右衛門の脇を通らず、門の内側へ戻った。
女衆の輪には、美津のぶんの椀が空けてあった。大根、蒟蒻、よく煮えた豆腐。湯気が頬へ当たり、箸を入れると出汁が熱いまま染み出した。
「若女将、冷めますよ」
「まあ大変。それはいけませんわ」
美津は車座へ入り、椀を両手で包んだ。冷えた握りを一人でかじっていた会所の隅など、湯気の向こうにはもう見えない。
「これですわ。市は湯気が命ですのよ。ようやく熱いうちにいただけます」
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。




