11.その聖具、除湿剤
深夜24時前。
深夜の静寂が、冷蔵庫が放つ低い唸り声さえも異質なものに変えていく。
100円ショップ『スマイル』のバックヤードの扉は、もはや現世と異界を繋ぐ境界線そのものだった。
レジカウンターで、自重によりしんなりと曲がった「お値引きフレンチトースト」を無感情に咀嚼していたりんは、足音も立てずに忍び寄る「紙の匂い」を感じ取った。
「....いらっしゃいませー」
振り返ることなく放った言葉は、冷たく湿った空気に溶けていく。
いつの間にか異世界と繋がったバックヤードの扉から現れたのは、床に届くほど長いローブを纏った、痩せ細った老人だった。
その指先はインクで真っ黒に汚れ、背中はまるでなにかを背負い続けてきたかのように、不自然なほど丸まっていた。
「……はあ。今度は誰。通報しますよ?」
りんは残りのトーストを一口で片付け、ようやく身体を捻って客と対峙した。
「……ああ、どうか....どうか我が『大賢者の書庫』をお救いください」
老人は、掠れた声で懇願した。その目は血走っており、何日も眠っていないことが一目でわかる。
なにか危ない薬でもつかってしまっているようにも見えなくもない姿の老人を前にしてもりんは動じない。
「私は聖都にある国立図書館の筆頭司書、アルバスと申します。ですが今、我が国は未曾有の危機に直面しております。....それは『涙の雨季』。空が一ヶ月間泣き続け、地上のすべてを腐敗させる呪いの季節にございます」
「雨季……まあ、梅雨みたいなもんですね。湿気、すごいんですか?」
「湿気などという生易しいものではございません! 我が書庫に収められた数万冊の魔導書が……今、まさに湿り気に侵され、ページがくっつき、文字が滲み、あろうことか『カビの精霊』が紙の間で踊り始めているのです! 禁断の呪文がカビのせいで読み間違えられれば、国が滅びかねません!」
アルバスは震える手で、一冊の古い書物をカウンターに差し出した。
革の表紙はしっとりと濡れ、独特のすえた匂いを放っている。ページをめくろうとすると、湿気で紙同士が張り付き、無理に剥がせば破れてしまいそうな、末期的な状態だった。
「乾燥の魔法を使おうにも、書庫全体に魔力を流せば、今度は紙が乾燥しすぎて粉々に砕けてしまいます。火を焚けば煤がつく。風を送れば湿った風がカビを広げる......。適度な乾きを保ち、音もなく、魔力も使わず、ただひたすらに『湿気という名の悪魔』を吸い取ってくれる秘宝....そんなものが、この世にあるのでしょうか」
「....あー、適度な乾き。まあ、ありますよ。」
なっ!と驚くアルバスを置いてりんは、奥の「収納・クローゼット」の棚へと無造作に歩き出した。
手に取ったのは、白いプラスチックの箱。上部が薄い膜で覆われた、どこにでもある『湿気取り(大容量800ml)』。3個セットで110円。
「これを使ってください。魔法も魔力もいりません。ただ置くだけです」
カウンターに戻ったりんは、驚愕の表情で見つめるアルバスの前に、その「白い箱」を並べた。
「....これは、一体? 中には透明な石のようなものが敷き詰められておりますが....これこそが、大地の精霊を封じ込めた『乾燥の魔石』なのですか?」
「いや、ただの塩化カルシウムです。上の白い紙みたいな膜を剥がさないようにして、書棚の隅に置いておくだけでいいです」
「剥がしてはいけない……。なるほど、これが『不浄の水分』だけを選別して吸い込む、高度な『空間選別結界』というわけですな。しかし、こんな小さな箱で、あの広大な書庫を救えると?」
「吸った水分は下の透明な部分に溜まります。水がいっぱいになったら捨ててください。中身が液体に変わるから、効果が目に見えてわかりますよ」
アルバスは、震える手でその箱の一つを手に取った。
彼の手の中では、ただのプラスチック容器が、古の神々が遺した「浄化の祭壇」に見えていた。
「……信じられん。魔力を一切感じない。……いや、違う。魔力を使わないからこそ、繊細な古文書の魔力回路を傷つけずに済むのか。これは、引き算の極致。あまりに洗練された魔導具だ」
「まあ、倒して中身をこぼさないようにだけ気をつけてください。中の水、結構ベタつくんで」
「『ベタつく』....!? つまり、吸い取った湿気を、二度と空気に逃さないために『粘着の理』で封印しているというのか! おお…なんという慈悲深き設計.…」
アルバスは感激のあまり、カウンターに額を擦り付けんばかりに頭を下げた。
「この『静寂の吸水箱』、あるだけ....いや、我が書庫の全棚分、数百個を譲っていただけませんか! この雨季を乗り越えられたなら、あなたは我が国の歴史に『書物の守護神』として刻まれることでしょう!」
「あー、在庫は奥にケースでありますけど……さすがに数百個は持ち帰るの大変ですよ」
こっちの季節ももう少しで梅雨なのもあっていつも考えなしに発注するオーナーが今回は役に立った。
「案ずるな! 私の影には『空間収納』の魔法が仕込んであります。これさえあれば、多さなど恐るるに足りぬ!」
アルバスは、金貨が詰まった重そうな袋を次々とカウンターに積み上げた。
「金貨5枚……これで足りるか!? 足りぬなら私の命を削ってでも!」
「あー、そんなにいらないです。ケース買いの割引含めて、金貨2枚でいいですよ」
アルバスは涙を流しながら、倉庫から運び出された山のような除湿剤のケースを、自身の影へと次々に飲み込ませていった。
「見ていろ、カビの精霊ども! 賢者様から授かりしこの『浄化の白箱』が、貴様らを根こそぎ飲み干してやるわ!」
筆頭司書の老人アルバスは、もはや絶望に染まっていた背中をピンと伸ばし、足取りも軽くバックヤードの扉の向こう側へと消えていった。
りんは、アルバスが置いていった金貨をポケットに入れ、除湿剤の代金分を自分のポケットマネーからレジに投入した。
「……うちのバックヤードも湿気すごいんだよね。一個、置いておこうかな」
りんは自分用に残しておいた最後の一パックを開け、業務用スチールラックの下にそっと置いた。
店の外は再び深い静寂に包まれる。
「....あの白い膜を『魔法の封印紙』だと思い込んで、破って中身をぶちまけないことを祈るかなあ」
彼女は小さく欠伸をして、カチリ、と店内の不要な電気を消した。
異世界の歴史を救った「白い箱」は、今はただの100均商品として、暗闇の中で静かにその仕事を始めていた。
除湿剤の中身の水...私は何度かこぼしたことがありますがほんとにベタベタするんですよね。
今年の梅雨はこぼさないようにしようと思います。
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