第1話 『話 影の中で、何かが触れ返した 』
影浦市の朝は、雲ひとつない晴天と、通り沿いの低い建物まで実際より少しまっとうに見せてしまう、あの金色の光とともに始まっていた。潮峰学園の近くでは、眠たげな生徒たちが小さな群れになって坂を上り、自転車が次々とフェンスに寄せられ、軽い話し声がアスファルトを擦る靴音に混じっていた。
天霧透花にとって、その朝はようやく意味を持っていた。
彼女はいつも通りの、曇りのない優雅さで正門をくぐった。まっすぐ落ちる黒髪。静かな姿勢。軽い足取り。そして、近くで見ればそれだけで残りの人類すべてに対する侮辱みたいな美しさ。いつものように視線は彼女を追った。だが、その朝は、囁きもまた彼女を追った。
「ちょっと待って……天霧さん、笑ってない?」
「今日、いつもよりさらに綺麗じゃない?」
「いや、ちゃんと見て。今日の天霧さん、ほんとに何か違うって」
もっとも、潮峰学園でもとりわけ創造力に恵まれた連中ですら、真実にはかすりもしなかった。
今日は、彼女が地球にいる最後の日だった。
そして、見習いの半神にとって、それは勝利と呼ぶには十分近いものだった。地球に来てちょうど一年。少なくとも書類の上では、自分をここへ連れてきた案件はすでに過去のものになっていた。学園内の小さな異常。実質的な重みを持たない亀裂。地球にもう一日留まる理由にはならないはずのもの。
昇降口のロッカー前では、成瀬凪が、朝からもう疲れ切って生まれてきたみたいな一日を迎えるための、遅くて気の滅入る準備の最中にいた。長年にわたって他人の記憶から忘れられることに、本人の意思とは無関係に協力し続けてきたような、印象に残りにくい見た目をしている。特に気を遣った形跡のない黒髪。疲れた表情。きちんとしてはいるが芯の強さまでは感じさせない立ち方。そして、いつだって世界の残りより半歩遅れてどこかに着く、そんな空気。
凪が友達と呼べる唯一の相手、真道陽輝は、昨夜のブレイズレンジャーズの回について、絶対的な熱量で語っていた。
「だから言ってるだろ、あのラストは普通の伏線じゃなかったんだって。あれは芸術」
そのとき、天霧透花が彼らの前を通った。
陽輝は言葉の途中で止まった。
「あー、だめだ。今日はだめ。これはもう心理的暴力だろ」
透花は速度を緩めることなく昇降口前を横切り、陽輝はロッカーの扉にぶつかりかけるほど慌てて背筋を伸ばした。その視線は、学校一の美人と宗教的現象の区別がもうついていない人間の、絶対的な崇拝を帯びていた。
「成瀬……」と、震える啓示みたいな重々しさで彼は呟いた。「今日のあの人、完全にラスボスモードだ」
凪はロッカーの扉を閉めた。
「もうそういうの観る歳じゃないだろ」
「彼女が出てるなら何でも観る」
「大げさだな」
凪は目も上げなかった。というより、上げないのが反射になっていた。天霧透花みたいな人間は、わざわざ違うふりをして気まずくなるだけ損なくらい、最初から自分とは別の高さにいる人間だった。
彼は、抗議するほどのことでもない、あまりに小さな日々の判決を受け入れるみたいに階段のほうへ向き直った。陽輝は瞬きが少しでも速すぎたら透花が消えてしまうみたいに、もう一度だけ肩越しに振り返り、それから彼のあとを追った。
教室に入ったときには、もう半分ほどの生徒が席についていた。椅子の音、筆箱の音、朝の挨拶。どれもいつも通り、鈍い熱を持って空気に浮いていた。凪は鞄を机の脇に置き、この世界の場所を取りすぎないことを、あまりにも早くから覚えてしまった人間の節約した動きで腰を下ろした。
凪は放課後のチャイムがいちばん好きだった。
陽輝は急いで鞄を閉じ、勢いよく立ち上がった。
「俺もう行くわ。遅れたら母親に具にされる。じゃあな」
凪は気のない仕草で手を振った。
教室が空き始めると、彼は鞄から、背表紙がすでに折れ癖だらけになった安い文庫本を取り出した。タイトルは『壁の向こうの声』。前に陽輝から「雨の日に閉じ込められた老人が好きそうな本」みたいなことを言われたことがある。凪は、安っぽい小さな謎を扱う本に、あまり弁護しにくい好みを持っていた。陽輝はいつも、世界がどこかおかしく組み上がっている証拠を探すみたいな読み方だと言っていた。
彼は残った。いつものように。
騒がしいのが嫌い、というだけではなかった。放課後になると廊下が、声と肩と交差する足音と無意味なせわしなさで形を失った塊に変わる、その感じを凪はひどく嫌っていた。みんながいなくなってからのほうが、存在するのはずっと楽だと、彼はだいぶ前に覚えてしまっていた。
そうして一時間近くが過ぎた。本を閉じて階段を下りた頃には、生徒たちの騒音が決して持てない種類の威厳を帯びた静けさが、すでに学校全体を支配していた。
外では、夜が落ち始めていた。
校門脇の自販機は、列の半分ほどがもう売り切れていたが、それでも街灯の下で光っていた。凪は財布を開き、百円玉と細かい硬貨を取り出し、無糖の缶コーヒーを選んだ。
白い自販機の光と街灯の下で、最初のひと口を飲んだときだった。彼はまた、いつものそれに気づいた。自分の影が、違う方向に落ちていた。
凪は、もはやそれ以上のものを期待していない人間の、疲れた自然さでそれを見下ろした。珍しいことではなかった。ずっとそうだった。まだそれを奇妙だと思っていた頃よりも早い時期から、彼は少し遅れる影や、写真の中でだけ角度を間違える像や、自分に追いつくのにほんの一拍余計にかかる反射に慣れていた。ずっと、光のせいだと自分に言い聞かせようとしていた。やがて、それを重要だと思うこと自体をやめた。
缶を下ろし、肩の鞄を掛け直して、家のほうへ歩き出した。
家までの道のりは、徒歩で二十分弱。凪はその道をよく知っていた。学校のあとの緩やかな下り坂。小さなベランダのついた細い家々。低い塀。玄関脇に並べられた鉢植え。まだ閉じ切っていないカーテンの向こうで青く光るテレビ。大通りのほうから遠く響く車の唸り。影浦では、住宅街に夜が落ちるのは早く、通りはだんだん空っぽに見え始める。
凪は、もう世界の側が何かを説明してくれるのを待つこと自体、諦めてしまった人間の歩き方で進んでいた。
角を曲がると、町内の小さな公園が始まる。コンクリートの小道が二本、もう誰もいない遊具のある一角、濃い木の色をしたベンチ、低い柵、そして中央には、街灯を折れた白線みたいに映す、動かない広い水盤。
入口を通り過ぎたとき、視界の端で何かが動いた。反射で顔を向け、まず横を見て、それから下を見て、ようやく間違いに気づく。自分の影が、あるべき場所にない。
公園の内側、一つ目の街灯の下に、もう一つ影があった。彼自身の形をしていた。あるいは、それに近いものを。
凪は、自分がまともに考えられていないと理解できるくらいの時間だけ立ち尽くした。それから、そちらへ歩き始めた。
影は、次の街灯のほうへ退いた。
その次へ。
凪は速度を上げずに公園を横切った。あまりに急な動きは、どうにかまだ目の前にそれをつなぎとめている脆い理屈そのものを壊してしまいそうだった。ようやく追いついたのは水盤の近く。彼はゆっくりと身を屈め、その黒い染みのそばに膝をついた。
何かが、しつこく自分を引いていた。ちゃんと閉まっていない扉の向こうで、いくつもの声が同時に喋っているみたいだった。そこに言葉はある。だが、もう言語のものですらなくなるほど擦り切れている。
凪は自分の影の中へ手を差し入れ、細く冷たい金属のようなものに触れた。
指がそれを掴んだ瞬間、暗がりの中で、細い金属音が震えた。小さく、鋭く、ありえない音。まるで何かが、いま初めてその接触を認識したみたいに。




