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23.1945年(春和元年)9月 セイロン

 私を守る腕の中で目を覚ました。


 薄明かりに透ける明るい栗色の髪と眉と睫毛。

 鼻梁が高くて彫刻みたいに整った容貌。

 起き抜けに視界に入った顔を見て、綺麗、と私は、ぼんやり思う。

 のしかかる筋肉質の腕は少し重い。

 肌から伝わる体温は温かさより熱さを感じる。

 けれど、決して嫌ではない。

 

 身体の距離と同じぐらい、心も近づけば良いのに。


 そんなことを考えながら、まだ寝息を立てている彼の肩に額を擦りつける。


 一週間ほど、私は、寝返りさえ打てない狭い二等船室のベッドで、男に抱きしめられて眠っている。

 けれど、私を抱きしめるマコトは私の盾になっているつもりでいるだけ。

 それ以上の色っぽいことなんて一つもないの。

 偽装夫婦としての任務のため、心に役の薄衣を纏わせたまま。

 彼は自分の心を守っているの。


 マコトは、私に本気で心をくれようとはしない。


睦子(ちかこ)、起きているのか……」


 かすれた低い声で、マコトは私の本当の名前を呼んだ。

 少し寝ぼけた灰青色の目をこちらに向けた。


 嘘と本当の狭間で。

 

 私は胸の奥が締め付けられるような気がした。

 


 ━━1945年(春和元年)9月上旬、英国領セイロン島、コロンボ沖。



 身支度と朝食を済ませた私たちは、船の甲板に出た。

 このメアリー・オブ・インディア号はもうすぐ補給のためにコロンボに入港する。


 海と港の景色を眺めるつもりだった。


 なのに私は、亜麻色の髪に青い目の、英国MI6のスパイ妖精ことエリザベスと対峙している。


 正直、彼女のことは苦手。


 と言うか、行動が読めないし、ちょっと怖い。 


 でも、『妻同士が意気投合した』という設定で、船内のサロンでは私たちは仲良しで、いつも行動を共にしている、ってことになっているから逃げられない。


 あと、誇り高い私が、これ以上逃げるわけにはいかないの。


「✕✕✕✕ってしたことあるの?」


 エリザベスの英語は時々聞き取れない。


 聞き取れなかった部分は、知らない単語なのか、辞書には載らない俗語なのか。


 きっと、おそらく後者。

 皇女として生まれ、女帝である高貴な私が知らなくてもいい、下賤な俗語。


 彼女たちに襲撃されたあの夜。

 女子習学院の生意気な生徒をやり込めるときに使っていた色っぽい物言いと仕草。

 それと同じ手を彼女に使ったことを、私は後悔していた。


 皇族や華族出身の令嬢たちは、いずれ親が決めた殿方に嫁ぐ。

 だから、鳥籠の鳥みたいなもの。

 恋なんて知らないし、色気なんてものには免疫がない。


 それに私は皇女。

 おまけに類まれなこの美貌。

 自画自賛みたいだけど、最高に高貴で美しくて可愛い私は、女子習学院では階級の頂点だった。


 私が、意味有りげに首を傾げて、流し目で口の端に微笑を浮かべる。

 そうして一言発すれば、女同士のつまらない諍いなんて、大体は解決したの。


 その調子を同世代の女の子だからとやってしまったのは、本当に良くなかったと思う。


 おかげで、ロンドンの下町生まれ下町育ちの経験豊富な凶悪妖精に、おそらく下品なお色気方面の英語俗語口撃を受けている。


 この場合、聞き返した時点で知らないことを馬鹿にされる。


 お姫様育ちが隠せてないじゃん、と。


 でも、極東の国には『聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥』ということわざがあるから、腹立たしいけど、ちゃんと聞く。


「✕✕✕✕って何かしら?」 


 普通の俗語のときもあるから。 


「知らないのかあ」


 エリザベスは馬鹿にするようにクスクスと笑う。


 フランス語にエリザベスが訳してくれるときもある。

 けれど、彼女はフランス語があまり得意じゃない。

 私もフランス語の俗語まではよく知らないから、訳してもらっても、わからないときがある。


 それに、今みたいにマコトが仏頂面で両手で耳を塞ぎに来るときもあるの。


 こういうときは知らなくていい単語。


「ねえ、✕✕✕✕ってどういう意味かしら?」


 でも、知らなくていいとされると、俄然興味が湧くのが人間というもの。

 私はマコトに興味本位で聞いてみる。


「教えない」

「この単語って耳元で囁いたら、恥ずかしい類のものかしら?」

「知らねえな」


 マコトは教えるものか、と言わんばかりにそっぽを向く。

 だから、私は背伸びをして、マコトの耳元で囁く。


「私と✕✕✕✕しない?」


 うーんと色っぽく聞こえるようにね。


「やめろ。それはFで始まる下品な単語と同じ意味のちょっとした歪曲表現だ。人前で口にするな」


 顔をしかめたマコトが教えてくれた。

 すっごく嫌そうな顔だけど、ほんの少しだけ頬が赤くなってる。


「最初から素直に教えてくれたらいいのに」


 ふん、と私は鼻で笑う。


「おい、エリザベス。こいつに変なこと教えるな」

 

 マコトが低い声で言う。


「彼女が君を誘うのに必要な言葉かと思ったけど?」


 エリザベスがクスクスと笑う。 


「随分キミたち、仲良くなったねえ」


 ダニエルが棒読みで言う。

 感情が籠もってないわね。


「あなたも仲間に入っていいのよ?」


 私が言うとダニエルは首を横に振る。


「私ゃあ、おっさんだから若者にはついていけんよ」

「まだ二十代じゃない」

「来年には三十だけどね」


 彼、くすんだ茶色の髪に白髪が混じってるから、少し老けて見えるけど、まだ二十九歳だそうよ。

 二十六歳のマコトと三つしか変わらないのは、ちょっと驚いたわ。


 ダニエルは演劇の世界を目指したけど、色々あってMI6に入ったと聞いた。

 きっと、若白髪になるぐらい色んな苦労があったのね。


「私はリズのお守りで十分だよ、若者は」


 大袈裟な身振りで、ダニエルは肩をすくめる。


 エリザベスの引率でも、苦労してるのよね。


 そうそう、エリザベスは小柄だから幼く見えるけど、十九歳の私より二つ年上の二十一歳なの。


 でも、やっぱり、全然、年上っぽく見えない。

 

 オイルライターで煙草に火をつけて、煙を吐き出す仕草も、大人の女じゃなくて生意気な子供にしか見えないの。


「リズ、ここでタバコを吸うな。マシューに煙を吹きかけるな」


 礼儀作法が全然出来てないせいよね、きっと。

 外交官夫人役をするための作法がまるでなっていない。

 ダニエルは中流階級の男性で、淑女の作法にやや疎く、彼女の所作の指導まで手が回っていない。


 そういうわけで、ダニエルから頼まれて、私が淑女の礼儀作法をエリザベスに、代わりにエリザベスが私に英語教えることになったんだけど。


 エリザベスは下品な言葉ばかり教えるから、マコトの機嫌がどんどん悪くなる。

 英語は俺が教えるから、それで十分だって。


「本当に下品だな、エリザベス」


 それもあって、マコトはエリザベスを目の敵にしている。


「堅物で融通が効かない君よりはいいと思うけど?」


 でも、まあ、それは理由の二割ぐらいね。


 残り八割は、負けず嫌いのマコトが近接戦で負けたエリザベスへの劣等感。


 船室で、腹筋とか腕立て伏せとか、必死でやってるのよ、マコト。


 隣で美容体操をするふりをして、いい筋肉を鑑賞していても、私の動きにも視線にもお構いなしだから、よほど悔しかったのだと思うわ。


 顔を合わせるたびに殺気立った視線でエリザベスのことを見ているもの。


 ほら、今も。


 本音を言うと、ちょっと妬いちゃう。

 殺意でも、その熱量は、ちょっとだけ羨ましいもの。


 そうこうしているうちに、コロンボの港が見えてきた。


 コロンボでは、解放された英国人捕虜たちの健康確認という名目で、港湾当局による臨検があるの。

 この船には船医がいて、簡単な検査は既に済んでいるのに。

 怪しい物や者を、見つけるのが、主な目的なんでしょうね。


 マコトは正規の英国旅券(パスポート)を所持しているからまだしも、私は偽造の渡航許可証なのよ。


 偽物だと見破られたら逃避行の旅はここでおしまい、というわけなの。


 私は不安な素振りを見せないように、振り返ってマコトに笑いかけた。


「もうすぐ、着くわね」


 船内の人々の動きが慌ただしくなる。

 大きな荷物を抱えた人たちが着岸を今か今かと待っている。


 英国人の抑留者たちのほとんどは、コロンボの港で、スエズ運河経由の欧州航路へ乗り換えるらしい。


 本当は私たちも、海路でイスタンブールまで行ければ楽なのだけど、地中海方面まで有効の偽造渡航許可証は、途中で摘発される可能性が高く、用意出来なかったそうなの。


 だから私は、亡命用の書類を融通してくれるアテがあるイランの首都テヘラン、そこへ行く必要があるのだとか。


 私たちのように、このまま、この客船改造型輸送船メアリー・オブ・インディア号で、中東へ向かう客は少ない。


 少ない乗客の中で悪目立ちしないようにしなくちゃいけない。


 華僑の新妻の演技、ちゃんとやらなくっちゃいけない。


 でも大丈夫よ。


 マコトに教えてもらって、華僑の一般常識と、英語と広東語での問答例も頑張って暗記したもの。


 問答例、凄い量だったし、発音もスパルタだったけど、物凄く頑張ったのよ、私。


 ここ一週間で、少しは様になるようになった演技と英語と広東語を見せてやるわ。



 海風にはためく旗袍(チャイナドレス)の裾を押さえて、私は陸にある港町を見据えた。



   *



 意気込んでいたのに。


「はい、健康状態も問題なしですね」


 二等客室で名簿と名前を照らし合わせ、英語での簡単な質問に答えただけで、偽の渡航許可証が戻ってきた。


「良い旅を」

「……ありがとう」


 あまりに拍子抜け。


 先に旅券(パスポート)の確認を受けたマコトも同じぐらい手短で、武器を二重底にして隠しているトランクも、触れられず。


 これで大丈夫なの、と私は隣にいるマコトを見る。

 目が笑っていない、愛想笑いが浮かんでいる。

 コロンボの港湾当局者が立ち去って、しばらくすると、途端に渋い顔になる。


「MI6にでかい借りが出来たな。というか、完全にあっちの掌の上で踊ってる……」


 ああ、やっぱり。

 MI6の根回しが行き届いているのね。

 当初、頼るはずだった英国特殊作戦執行部、SOEの協力者も音沙汰なしだもの。

 

 それでも私はふん、と鼻を鳴らした。



「生き残れたら何でもいいわよ。私はそのつもりで逃げているのよ」



 このあと、ニヤけ顔のダニエルが訪ねてきて、マコトが、さらに不機嫌になったのは言うまでもないわね。


 今のこの状況は、プライドの高い彼にとっては由々しき事態。


 そして、彼が諜報員(スパイ)としての冷静さを欠いていることも、由々しき事態。


 でも、そんな彼を、可愛いじゃない、と思ってしまう私は、多分どうかしているのだと思うわ。


 これは、赤道直下の熱波のせい、ということにしておくわ。


 まあ、真実は、お顔が良ければ大抵のことが許せてしまう、私の頭が駄目なせいでしょうけどね。


次回24話の更新は2025年11月20日(木)を予定しております。来週です!

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― 新着の感想 ―
立場とかりそめの間柄で揺れ動く睦子様、最高でした〜!!情が湧いているのかその心情も仮のものなのか、続きも楽しみにしています。 下町感の残るリズと、苦労が垣間見えるダニエルの今後も気になります
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