18.1945年(春和元年)8月 スマトラ東岸①
「紅茶が甘いって幸せねえ」
睦子はご機嫌で言った。
油っぽかったり、味がしなかったり、意味不明に甘かったり、英国料理は他国での暮らしが長くなると少しつらくなる。
極東の島国の出汁や醤油、味噌味に馴染んでしまうと、殊の外、つらい。
英国料理には下味という概念がないので、酢や塩をかけても虚無味がすることがある。
マコトはあぐらをかいて座り、床に置いたトレーの上の皿に乗った油でギトギトのべコーンに覆い被さる青臭いエンドウ豆を、フォークで避けた。
ベーコンのみを渋々といった具合で口に運ぶ。
だが、極東の島国に生まれ育った女帝は、小さな折りたたみ式のテーブルに置かれたそれらを、きっちりと完食していた。
今はベッドに腰をかけ、優雅に足を組み、最初からミルクと砂糖が山程入れられた問答無用の甘さの紅茶を堪能している。
「この暑いのに、よく食べられるな」
睦子の食べっぷりにマコトは感心半分呆れ半分で言った。
ちなみに、夕食はマコトが食堂から船室に運んできた。
戦時体制の簡略化で配膳などは行われない。
一等だろうが二等だろうが、食事は決められた時間に自分たちで取りに行き、食堂や甲板や客室など、思い思いの場所で食べる方式となっていた。
「暑いときこそ食べないと倒れちゃうじゃないの」
「……丈夫な胃袋で助かるよ」
戦場でも、どんな環境でも食欲が落ちない奴が一番強い。
そういう個体は生物として強い。
生命力が強いとも言う。
つまり睦子は生命力が強い。
逃避行に一番必要な能力だったりする。
「それに、今、あなたが避けている嫌いな豆まで毒見してもらったんだもの。食べなきゃ悪いじゃない」
だが、香港での囚われの五日間、毒殺を恐れて最低限の飲食しかしていなかった、と後で聞いた。
つまり、睦子は心理的な面では、弱点を抱えている。
「別に無理しなくてもいいんだぞ」
マコトが言うと睦子は首を横に振る。
「無理してないわよ。どんな食物でも、出されたものは口をつける習慣があるだけよ」
今は、毒見された物は、という注釈はつくが、そのように躾けられてきたのだろう。
「……つまり、不味いものもあったか?」
「それは言わない作法なのよ。でも、甘いプディングと紅茶は素敵ね。甘いって本当に素敵」
マコトは、エンドウ豆をフォークで一掬いして、紅茶で流し込む。
そして、本日最上級のしかめっ面をした。
「綺麗な顔が台無しになってるわよ」
「豆は青臭いし、紅茶は甘すぎるし、キツイ……」
マコトは甘いものがあまり得意ではないので、既に限界まで砂糖とミルクを投入して提供される紅茶が、実は少しつらい。
他に飲み物がないので飲むが、いっそ、酒が欲しい。
対する睦子は、紅茶の甘さに夢見心地である。
「この紅茶、私にはちょうどいいわよ。甘味は甘いほうが好きなの。だからここ数年の一番甘いのがお芋か果物って生活、本当につらかったのよ……」
甘党の心の叫びである。
「私、お砂糖と香辛料と素敵な何かで出来ているのよ。でも、民の手前、私だけ贅沢するわけにはいかないのよ……」
「まあ、そうだろうなあ……」
苦手なエンドウ豆と格闘しながら適当に相槌を打ったマコトは、ずっと背広の内ポケットに入っていた物のことを思い出した。
フォークをトレーに置き、内ポケットの中の物を取り出す。
睦子のお印である蝶の紋様が刻まれた銀のボンボニエールだ。
「それ、まだ持っててくれたの?」
睦子が感心したように口元に手を当てる。
「だって捨てるにも困るやつだし」
だが、マコトがそう言うと、睦子はあげなきゃよかった、と言わんばかりに三白眼気味の大きな目を細めて、ため息をついた。
「ボンボニエールの砂糖菓子は、自分では食べなかったのか?」
「当たり前じゃない。砂糖菓子は下賜するために戦争で物資不足の中、特別に用意させたものなんだから。銀の入れ物だって新しく作るのも憚られて……使い回しだし。でもそれ、最後の一個だったのよ」
やっぱり、あげなきゃよかった、と黒曜石の瞳がジト目で訴えている。
「中身の砂糖菓子は残ってるけど、食う?」
しかし、マコトの発言と砂糖菓子が入っているという新事実に、ジト目は長い睫毛を上げて見開かれ、黒曜石の瞳は輝きを放った。
「だ、だめよ、一度下賜したものなんだから! そんな卑しい真似、帝はしません!」
拒否するが、目はボンボニエールを見つめている。
わかりやすい。
「あなたは、今『ハル・エヴァンス』だから、これは夫が下賜されたもので、妻のあなたがその恩恵を受けるってことにしてしまえば、道理は通るのでは?」
「そんな、詭弁……いえ、その詭弁、採用しましょう」
というわけで、睦子は数粒だけ砂糖菓子を食べ、「ちょっとずつ大事に食べるんだから!」と枕の下にボンボニエールを隠した。
そこに隠すのはどうかと思うので、後で回収しようと思いながら、マコトは床に直置きしていた自分の食器とトレーの上に、折りたたみ式テーブルに置いてあった睦子の食器を重ねてまとめて、片手に持った。
「じゃあ、食器返してくるから、誰か来ても絶対にドアを開けないように、いいな?」
「わかったわ」
マコトはドアに一度耳をつけて、廊下に人がいないか気配を確認してから、ドアチェーンを外し、薄くドアを開けて再度確認して、ドアを開けて出た、そのつもりだった。
全く気配がなかった。
なのに、マコトの側頭部を狙う殺気が、凄まじい速さで空気を切り裂く。
マコトは寸でのところで避ける。
手に持った食器とトレーを襲撃者に投げつける。
だが襲撃者は身を低くし食器を避け、マコトの間合いに入り、鳩尾に蹴りを叩き込んだ。
「っ!」
一瞬、息が止まりそうになり、小さく呻く。
──速い!
マコトとて、動きの速さには自信がある。
だが、それを凌駕するほどに速い。
「ハル! ベッドの下へ!」
「え、ええ!」
後ろにいるであろう睦子に向かって隠れろと叫ぶ。
マコトは、腰に下げた小型の拳銃を抜こうとしたが、この狭い二等客室では跳弾してしまうかもしれないと思いとどまる。
柔術の構えで向き直って視界に入ったのは、亜麻色の髪と青い目をした小柄な若い女性。
エリザベス・スペンサー。
ダニエル・スペンサー二等書記官の妻。
──SOEかMI6、どちらかはわからないが、この場で俺たちを排除する気か?
彼らが仕掛けてくるならもう少し先かと思ったが、希望的観測が外れた。
マコトは舌打ちしながら技をかけるために一歩踏み込む。
飛んでくる蹴りを、身体を捻って躱す。
躱しながら両手を伸ばし、胸ぐらと腕を掴み、投げ技をかける。
だが、エリザベスは投げられてる途中で手の中に隠し持っていた片刃の小型ナイフをマコトへ向かって投げつける。
ナイフを躱すため、姿勢が崩れ、手が離れる。
回転軸を利用して、エリザベスは一回転をして抜けた。
マコトが押さえつけるより先に、エリザベスは素早い動作で襟元からナイフを二本取り出し、一本はマコトへ向かって投げ、もう一本はベッドの下に隠れようとしていた睦子の首に当てた。
「動かないで。この女の命が惜しかったら、持ってる武器をすべて捨てて、手を頭の後ろに」
妖精の姿をした襲撃者は鈴のような声で言った。
至近距離で飛んできたナイフを二度、辛くも避けたマコトが、苦々しげに拳銃やナイフを捨てる。
言われた通りに手を頭を後ろにやる。
「リズ、終わったか?」
低い男の声がして、ひょこっと、くすんだ茶色に幾筋か白髪が混ざった頭が入口から覗いた。
拳銃は一応、という感じで緩く構えた三十代半ばほどに見える男──ダニエルは飄々とした色を浮かべた榛色の瞳で室内を見渡した。
食器を廊下に投げたときの音に気づき、ドアから顔を出した乗客がいたのだろうか、
「ちょっと夫婦喧嘩みたいだから、私に任せてくれるかー?」
と、低いのによく通る声で言ってから、後ろ手でドアを閉めた。
「ダニエル、マシュー・エヴァンスを後ろ手に縄かけて」
「おうよ」
エリザベスにダニエルは軽く答えて、マコトの背後に立つ。
「大人しくしてくれよ、マシュー・エヴァンス。ちょっとお前の『お荷物』を検査したいだけだから」
「何の真似だ? なぜ、俺を知っている?」
マコトが聞くと、ダニエルは、
「やれやれ、生意気だな」
と揶揄しながら後ろ手にした両手首に縄を回す。
「あんたがうちの要注意人物リストに入ってるからさ。ちょっと手荒で悪いがな。悪いようにはしない」
──ということはおそらくMI6、か。
マコトは、MI6の要注意人物リストに入れられていて、泳がされている。
ダニエルは手早くマコトを縛る。
マコトは睦子が人質に取られているので、ひとまずは抵抗しない。
それにしても、縄抜けをしづらい縛り方をされてしまった。
この二人は、まごうかたなきその道の訓練を受けた人間だ。
「女帝も縛るか」
──やはり、この二人は、ハル・エヴァンスが逃亡している女帝、睦子であることを疑っている。
いや、ほぼ確信している。
「私は女帝じゃないわ。私はマシューの妻、ハル・エヴァンス。触らないで、無礼者」
睦子はナイフを突きつけられても動じず、冷たい目をして、女帝じゃない、と否定するが、態度が貴族的で気位が高すぎる。
それでは、女帝だ、と言っているようなものだ。
そう、だからといって、本当に動じていないわけではない。
長い睫毛が小刻みに揺れている。
瞬きの回数が明らかに多い。
怖くないはずはないのだ。
それを見せないのは、矜持か。
でも、その矜持ゆえの態度は悪手だ。
ダニエルが肩をすくめる。
「そうですね、ご無礼でしたね。変な真似をしなければ、そのままでも構いませんよ女帝」
ダニエルは睦子に向かって言ったあと、エリザベスと目を合わせる。
「リズ、見張ってろ。怪我はさせるなよ」
「了解」
ダニエルはマコトが持ち込んだトランクを調べ始めた。
すぐに睦子のハル・エヴァンス名義の渡航許可証が見つかる。
「カルカッタで発行か……本物と見紛うぐらい精巧に出来てはいるが、戦時中の移動には疑念が残るな。本当に行ったのか?」
ダニエルはちらりと睦子に視線を向ける。
「大変だったけど、彼と一緒に船を乗り継いで行ったわ」
睦子が静かに言うと、ダニエルはふっと笑う。
「Rats leave a sinking ship. これ、このまま英語で繰り返してみろ」
「っ、ハル、それは、言わなくても──」
「ラッツ・リーブ・ア・シンキング・シップ? それがどうしたのよ? 何の皮肉かしら?」
ダニエルの意図に気づいたマコトは止めようとするが、睦子はそのまま諳んじた。
「皮肉じゃないさ。極東の島国の連中はLとRの発音が区別出来ないんだよ。全部Lに近い音になる。華僑ならLは発音できるし、Rは、ちょっと違う音だが、LとRの区別は出来る」
「……何が言いたいの?」
「ハル・エヴァンス。あんた、今、鼠のRがLの発音だった。つまり仏印生まれの華僑は偽装で、この渡航許可証も偽物だ」
睦子の英語のLとRの発音は、すべてラ行の発音になってしまう。
マコトも注意していたが、母語にない発音はすぐに身につくものではない。
帝国の言葉にあって英語にない、小さな『ッ』のような促音、アとイが続くような二重母音ではない連母音。
微妙な発音の違いに、マコトも随分苦しめられたから、すぐに直るものとは思っていなかった。
ひとまずは会話に苦労しないようにすることが目標だったから、『ハル』の名前の発音だけは厳しく言っていたが、『ハル・エヴァンス』としては、フランス語を話す、と決めていたので、英語の発音問題は一旦先送りにしていた。
しかし。
──ここで揚げ足を取られるか。
「……おや、枕の下からボンボニエールか。この蝶は確か女帝の紋章だな」
さっき睦子が枕下に隠したボンボニエールも見つかる。
ダニエルはそれを掲げて言う。
「いつも陽動ばかりの英国籍の極東のスパイ、マシュー・エヴァンスが、陽動ではなく、陽動かと思うぐらい堂々と女帝を連れている。珍しいこともあるものだ」
マコトは奥歯を噛み締める。
どうすればいい?
縄はもうすぐ抜けられる。
だが、エリザベスの攻撃の速さから睦子を守りながらどうやって逃げる?
船はもう、パレンバンからムシ川を下り、スマトラ東岸の海へ出ている。
このメアリー・オブ・インディア号は既に洋上の密室として完成している。
──どうやって連れて逃げる?
打開策が、見つからない。
マコトの背中にはじっとりとした嫌な汗が浮かぶ。
暑さでかく汗ではなく、脂汗。
だが、ナイフを突きつけられたままの睦子は不敵に笑った。
小さな唇をキュッと上げて、黒曜石の瞳でダニエルを見据える。
「そうね。私が極東の帝国出身であることは認めましょう。そのボンボニエールは女帝がマシュー・エヴァンスに下賜したものであることも認めましょう」
絶体絶命の大ピンチ。
そんな言葉がぴったりの状況で。
睦子は堂々と語る。
舞台に立つ主役のように。
形勢逆転の一言を。
「だけれども、今の私が本物の女帝であると証明出来る?」
諸刃の剣を抜いて掲げるように。
「帝位の証たる剣璽もない。帝の印章である国璽も御璽もない。身分を示すものは、何一つ持っていないわ」
観客に向けて笑うように。
「この身が偽物でないと、誰が証明出来るのでしょうね?」
決定的な台詞を言い放った。
次回19話の更新は2025年10月2日(木)21時頃を予定です。




