17.1945年(春和元年)8月 スマトラ島
マシュー・ケイレブ・エヴァンス
1919年3月3日、英国領香港生まれ。
帝国戸籍名、澤城眞人の出生名、生年月日、出身地。
英国旅券に記載されている、矛盾のない事実。
でも、商人というのは偽装身分で、連れている妻も本当の妻ではない。
ハル・エヴァンス、旧名、李陽
マシュー・エヴァンスの妻、1925年1月3日生まれ。
フランス領インドシナ、サイゴン生まれの華僑。
彼女に関しては全てが嘘であった。
彼女の正体は、終戦の五日後、香港で消息を絶った、敗戦国の女帝、睦子。
亡命女帝と帝国陸軍諜報員、この二人の偽装夫婦としての逃避行劇は、スマトラ島から始まる。
──1945年(春和元年)8月末、スマトラ島パレンバン。
英国海軍護送船団のうちの一隻、客船改造型輸送船メアリー・オブ・インディア号は昼過ぎにスマトラ島パレンバンを出港した。
この日のメアリー・オブ・インディア号の旅客は、終戦まで抑留されていた者がほとんどを占めていた。
開戦時に逃げ遅れた英国の商人、技師、聖職者、外交官などだ。
そのような者たちの引き揚げのために用意された船だった。
抑留者であった彼らは一様に疲れ切っていた。
疲れ切ってはいたが、ようやく祖国に帰れるという安堵が、船内の空気にぼんやりと漂っていた。
倦怠感と安堵感、その二つで静かにざわめく船内で、淡い水色の旗袍を纏った長身の東洋人女性──睦子は、明らかに異質な存在だった。
意志の強そうな凛々しい弓形の眉。
その下には、くっきりとした二重瞼と黒揚羽がはためくような長い睫毛が彩る三白眼気味の大きな目。
瞳は黒曜石のような冷たい色をしている。
細い鼻筋や薄紅色の小さな唇も、それらが美しく配置された色白の┃瓜実顔も、凛とした印象が強い。
でも、周囲を見渡して、悪戯っぽく笑うと、冬の夜の月の美貌が、春風のような少女めいた可憐さに変わる。
それでいて、肩の上で切り揃えられたぬばたまの髪の隙間から覗く白い首筋は、驚くほどに艶めかしい。
旗袍に包まれた身体は、華奢な肩と腰と対照的に、胸と臀部は柔らかな曲線を描いている。
袖と裾から伸びるスラリと長い手足は、少女と大人の間の危うい色香を纏い、動く度に、見る者の心を揺らす。
美しく可憐で蠱惑的な姿は、疲れ切った人々の視線を自然と奪い、注目を集める。
そして、船の出港を祝う、ささやかなレセプションで、『終わった』と、逃避行はまだ始まったばかりなのに、マコトは思った。
「Monsieur le Deuxième Secrétaire, Madame」
膝を軽く折ったカーテシー。
長い睫毛に縁取られた黒曜石の瞳は、真っ直ぐと相手を見つめ、小さな薄紅色の唇は気品のある笑みを浮かべている。
後ろに引いた脚が戻るときも軽やかでありながら、姿勢が全くブレない。
睦子の役は仏印サイゴン生まれ、資産家の華僑の家で育った、英国商人の妻。
ミッションスクールでフランス語の教育を受けていて、英語教育や淑女教育も受けている、という設定だ。
目上の者への挨拶でカーテシーをすること自体は、何ら不自然ではない。
だが、これは、『出来すぎ』ているのだ。
一介の商人の妻の所作ではなく、王侯貴族のそれなのだ。
皇女としての、優雅な振る舞いのために培われた体幹が滲み出てしまっている。
「ハル・エヴァンスと申します。このようにお目にかかれますことは、私にとって大変光栄でございます。本日こうしてご挨拶とお話しの機会をいただけましたことを、心より嬉しく存じます」
英国の外交官だと名乗ったダニエル・スペンサーとその妻エリザベス。
彼らにハル・エヴァンスとしての睦子が、外交官の公用語であるフランス語で流れるように儀礼的な挨拶をする。
すると、英国人にしてはやや小柄で、亜麻色の髪や全体的な色素の薄さから妖精のような印象を受けるエリザベスはその青い目を細めた。
「ふーん、随分と綺麗なカーテシーをするのね」
鈴のような声で言って、感心したような微笑みをたたえているが、目は笑っていない。
「奥方はどちらの出身かな?」
髪に少し白いものが混ざっていて、エリザベスより一回りは年上に見える三十代半ばほどのダニエルも、薄笑いを浮かべ、睦子の頭の先からつま先まで、観察するように眺める。
おそらく、正体を疑われている。
──女帝逃亡の報はどこまで広がっているのか。
マコトは内心、冷や汗をかきながら、睦子の肩を抱いて、夫婦として自然に見えるように自分の方へ引き寄せた。
「おや、ハル? 熱が出ていないかい?」
白々しくてもいい。
この場を離れる口実があれば何でもいい。
「え、熱なんて?」
「いえ、ちょっと熱い」
マコトは睦子の頬と額に手を当てて確認する。
平熱だが、事実はどうだっていい。
「早く妻を休ませたいので、申し訳ありませんが失礼いたします」
「ちょっと、急に失礼じゃ、っ!」
問答無用でマコトは睦子を抱き上げた。
「では、これにて」
マコトはスペンサー夫妻に少し困ったように微笑んでみせた。
洋の東西が混在し、どことなく神秘的で影のあるマコトの相貌は、こういった憂い顔が映える。
煙に巻くときに重宝している表情だ。
大抵の人は、これで誤魔化されてくれる。
これで、少し大げさで心配性の愛妻家に見えていればいいが、それは期待薄だ。
なにぶん相手が悪い。
終戦直後の敗戦国占領地域──力の均衡が曖昧な場所で動ける外交官は、抑留者など一部の例外を除けば、そのほとんどが情報要員であるのが実態だ。
スペンサー夫妻は抑留者にしては、どうにも健康状態が良すぎる。
疲弊して見えるが、それぐらいは諜報員なら演じられて当然。
──英国の諜報機関が睦子の行方に目星をつけ、先回りしていた。
そう考えるのが自然だった。
「ちょっと、私、熱なんてないわ」
「うるさい。戻るぞ」
通路が狭くなったので、マコトは睦子を横抱きから、肩に担ぎ直す。
「ちょっと、乱暴に扱わないでよ、私を誰だと思ってるのよ?」
「我が愛しの妻だろ。その妻が心配なので船室へ急いでる」
「ちょっと、何よ、それ」
くたびれた赤い絨毯、年月を経て色褪せたマホガニーの化粧板の壁。
通路もマコトと睦子が使う二等客室もそういった風合いだ。
客船改造型輸送船メアリー・オブ・インディアは、英国海軍の徴用輸送船という機能と民間客船という機能、両方を持っている。
でも今は、戦時体制下のまま、輸送船業務がメインなので、かつての豪華客船の面影は色褪せている。
だが、特務機関の偽装船ほど壁は薄くないので、密談は可能だ。
無理を言い、金を積んで貸し切った四人部屋の二段ベッドの一つ、その下の段に、睦子を下ろす。
そして、その横にマコトが座ると、睦子はピクリと肩を揺らす。
警戒している。
つまり、『演技』が不味かったことは理解しているようだ。
「俺が何を言いたいかわかりますか?」
「はっきり言ってくれないとわからないわねえ」
睦子は三白眼気味の大きな目に長い睫毛を伏せて、マコトから目をそらした。
「あなたの中に平民の婦人のお手本がないのはわかりました。確認しなかった俺が悪かったです」
「そんな言い方しなくていいじゃない。当たり前じゃない。私、生まれながらの皇女よ。隠そうとしても気品が滲み出て当然よ」
「自信満々に言うなよ。あの外交官夫妻、英国の情報機関の奴らだぞ。二等書記官なんて、定番の偽装身分だ。速攻で身元をバラしに行くなよ。俺の後ろに隠れてればよかったのに」
「だって、目上の者から、声をかけられたら挨拶をするのが常識でしょ? ちゃんと目下の者を装った挨拶をしたじゃない。女帝としてじゃなくて、商人の妻という目下の者を」
「そういう宮中とかお貴族様の常識とか、今いらないから」
マコトは皺を寄せた眉間に人差し指を当てる。
──頭が痛い。
「俺が出方を考えるから、大人しくしてくれるか」
「大人しくって?」
「寝込んでることにして、便所以外は部屋から出るな」
「こんなに蒸し暑いのに? 本当に寝込んじゃうわよ」
赤道直下の船室というのは、基本、暑いものである。
この二等客室は辛うじて、開閉式の小さな丸窓がある。
だが、開けても湿度の高い潮風が入り込むので、あまり涼しくはならないし、航海中は原則開けてはいけない。
電気扇風機もぬるい空気を吐き出すだけであまり効果がない。
「上海の隠れ家の灼熱地獄再び、ね。今度は赤道直下の船室の灼熱地獄ね」
「うるさい」
マコトはジャケットを脱ぎ、ネクタイを緩め、息を吐き出し、思索する。
英国の外交官夫妻、ひいては英国の諜報機関に、目をつけられたと見て間違いないだろう。
次の下船可能な寄港地は英国領セイロン島コロンボ。
そこまではだいたい一週間程度。
そこまでは事態は動かない可能性が高い。
二日後、シンガポール沖で何人か抑留者を乗せる予定らしいが、小型船から移乗する小規模なものだろう。
そこで英海軍に踏み込まれ、身柄を拘束される可能性もなくはないが、シンガポールは依然、帝国暫定支配の影響下にあり、まだ英国への権力移譲が完了していないから、可能性は低い。
睦子の身柄は、英国にとって、まだ利用価値がある。
対米交渉の切り札や対ソ連に対する牽制等に、彼女の身柄は使い道がある。
なるべく英国支配地域の港で確保したいはずだ。
いずれ、戦犯として処刑するにしても、国際社会が納得する正規の手続きを踏むほうが望ましいので、生かして捕らえたいだろう。
ここで暗殺される可能性は低い。
と、思いたい。
──あの外交官夫妻はSOEかMI6の、どっちだ?
SOEは、英国特殊作戦執行部。
MI6は、英国秘密情報部。
前者、SOEはマコト、というより帝国の特務機関員にとって天敵に近いが、マコトの上官である藤木中佐とのコネクションがあるので、少しややこしい。
一応、今回の亡命の行程で、英国領インド通過時に便宜を図ってくれる人物がいるそうなので、連絡待ちとなっている。
後者、MI6は、英国人『マシュー・エヴァンス』を要注意人物リストに入れた上で、泳がせている状態だ。
今年の英国旅券更新時、カルカッタで、渡航履歴を怪しまれ、目をつけられてしまった。
どちらも、敵になり得るが、何らかの交渉の余地もあり、それは、その人物の立場と状況次第。
そして、さっきから横顔を見る視線がうるさい。
「ハル、何、見てるんだよ……」
「黙ってたら美形よね、と思って」
「黙ってたらなのかよ」
「いえ、喋っても美形だけど。と言うか、今日はいつもより美形に見えるわ。髪を整えて小綺麗にしてるせいかしら? 明るい栗色の髪も灰青の目も、いつもより綺麗に見えるわよ」
「……そりゃ、今日は誰かさんが馬鹿みたいに目立つから、それに合わせて見た目を整えているからな。一人で目立たれるよりはまだマシだ」
「私の美貌と気品、隠しきれないのよね」
「褒めてねえよ。自慢げに言うな」
マコトは日頃は目立つ容姿を、前髪を下ろしたり、伊達眼鏡をかけたり、無精髭を生やしたりして、『よく見たら美形』ぐらいに見えるように調整している。
だが今回は、睦子の生来の顔立ちと雰囲気の派手さと人種の違いが、どう足掻いても誤魔化しきれなかったし、マコトも東洋人から見ればほぼ西洋人でも、英国人から見れば東洋人との混血であることが一目瞭然なので、『東洋の神秘の香り漂う派手な美男美女夫婦』で印象を合わせている。
派手すぎる夫婦。
それを逆手にとって、『逃亡中の女帝がこんなに堂々としているわけがない』という読み間違いを誘う罠だ。
上海脱出時、睦子に花街風の派手な化粧を施し変装させたのと類似の手である。
しかし、いくら堂々とするにしても、先程のカーテシはやりすぎであるが。
「うーん、でも、それだけじゃないわね」
睦子が首をかしげる。
「それだけじゃないって、何が?」
「何だか昨日までとは違うような、と思って」
「違うような?」
「あなた、今まで僅かにあった私への遠慮がないわ。口調とか」
睦子は自分の役の『演技』はズレているくせに、他人のことになると、つくづく妙に勘が働く。
マコトは少し苛立ちながら答える。
「夫婦のふりに帝への遠慮があったらおかしいだろ。俺は息を吐くように嘘がつけないから、潜るときは意識の表層に役を一枚着る」
「役を着る?」
「そう。自分の表層を騙しておかないと説得力のある嘘がつけない」
「ああ、それでソ連外交官のフリをしてた『アレクサンドル』のときの方が、『マコト』よりは、嘘が上手だったのね」
「ああ、そうだ。あんたの女帝とか皇女と同じ。あれも着てるやつだろ?」
「……そうね。皇女は生まれたときからだから境目は曖昧だけど」
「役を着る、って意識するのは境目をつけるためでもあるんだよ。自分自身との境界を。今回の役、俺は半分本物だから、境目をしっかりつけておかないと、危ない」
「危ないって何が?」
それは、と言いかけて、マコトは口を噤む。
──役に持っていかれる。
特に恋人役や夫婦役というのは錯覚を起こしやすい。
「……ハルは、俺の顔、わりと好きだろ。だから危うい」
マコトは睦子の頬に両手を添える。
あと少しで唇が触れる手前まで、顔を寄せる。
吐息がかかる。
だが、唇には触れずに、離れた。
「ちょっと、自惚れないで。鑑賞物として美しさを評価しているだけ」
「じゃあ、なんで頬を染めて、目をそらしてる?」
「なんでって……熱が本当にあるとか?」
「なら、目までそらす必要はないだろ。だから、つまりこういうこと。役が本物になったら不味い、ってことだ」
頬から手を離して、距離を取る。
線を引くように、すっ、と目をそらす。
「役に引きずられないように気をつけてくれよ」
これは警告だ。
睦子に対して──それからマコト自身に対しての。
「引きずられないわよ、馬鹿」
睦子はマコトを上目遣いで睨んでから、背を向けてベッドに転がる。
拒絶というよりは、拗ねている──睦子の背中にはそんな気配が滲んでいる気がした。
マコトの自惚れや思い違いでなければ、だが。
──手を伸ばせば、届いてしまいそうな、危うさ。
まだ、逃避行は始まったばかりだというのに、色々と危うい。
無事にイスタンブールまでたどり着き、亡命することが出来るのだろうかと、マコトは遠い目をしてため息をついた。
次回18話は、2025年9月18日(木)21時の更新予定です。




